第30話 蚊取り線香の煙
第30話 蚊取り線香の煙
坂本栄治は、昼間から風呂に入っていた。
八月の終わり。ひだまり荘の窓の外では、蝉が力尽きかけた声で鳴いている。湯気で曇った狭い浴室には、古い石鹸の甘ったるい匂いと、湿った木の臭いがこもっていた。
栄治は浴槽の縁に腕を乗せ、だらりと顎をのせた。
「極楽だな……」
誰に言うでもなく呟く。
昔、妻の和美と会津へ旅行したとき、宴会場で酔っぱらった老人が歌っていた。
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした――。
「小原庄助さんか……」
栄治は苦笑した。
「俺は身上つぶすほど、もう持ってねえけどな」
湯は少し熱かった。だが、その熱が、脳梗塞のあと時々痺れる左腕をゆっくりほどいていく。
風呂から上がると、脱衣所の扇風機がぶうん、と鈍い音を立てていた。
栄治は裸のまま、六畳一間へ戻った。
畳は日に焼けて黄ばんでいる。窓際には小さな折り畳み机。机の上には、読みかけの新聞と、湯飲み、半分だけ残った麦茶のペットボトル。壁際には、ホームセンターで買った安い衣装ケースが二段だけ。
暮らしは小さかった。
だが、ようやく手に入れた自分の部屋だった。
栄治はフェイスタオルで頭を乱暴に拭き、裸のまま畳へ横になった。
風呂上がりの火照った肌に、扇風機のぬるい風が当たる。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。
畳のい草の匂い。遠くで子どもの笑う声。どこかの部屋から漂う焼き魚の匂い。夕方前のアパートには、人が生きている気配が薄く漂っていた。
そのまま栄治は眠ってしまった。
どれくらい寝たのかわからない。
目を覚ました瞬間、猛烈な痒みが襲ってきた。
「うおっ!」
飛び起きる。
腹。胸。太腿。腕。
ぼこぼこと赤く膨れている。
「なんだこりゃ!」
栄治は老眼鏡をかけ、肌を見た。
「蚊か……?」
十か所以上刺されていた。
「ふざけんな!」
誰もいない部屋で怒鳴る。
「やりすぎだろうが!」
窓を見ると、網戸が少し開いていた。
昼間、洗濯物を取り込むとき閉め忘れたらしい。
耳元で、
ぷぅぅぅん――
という嫌な羽音がした。
「まだいるのか!」
栄治は新聞紙を丸めて振り回した。
だが蚊は見えない。
見えないくせに、存在だけはわかる。
それが余計腹立たしい。
栄治は引き出しをごそごそ漁り、蚊取り線香を取り出した。スーパーで百円ほどで買った安物だ。
マッチを擦る。
硫黄の匂いが鼻を刺し、小さな火が赤く揺れる。
線香の先端に火をつけると、白い煙がゆるゆると立ち上った。
「本当にこんなもんで死ぬのかね……」
栄治は眉をしかめた。
煙は部屋の中を漂うが、どうにも頼りない。
「もう少し被害が少なかったらなぁ」
ぽりぽり腹を掻きながら呟く。
「一か所二か所なら、共存ってのもあるだろうに」
羽音がまた聞こえる。
「十か所はやりすぎだろう。加減ってもん知らねえのか」
そのとき、
コンコン、
とドアが鳴った。
「坂本さん?」
三浦結衣の声だった。
栄治は慌てて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
裸だったことを思い出し、急いでステテコを履く。白いランニングシャツも頭からかぶった。
ドアを開けると、結衣が紙袋を持って立っていた。
白い半袖ブラウスに紺のスラックス。額にはうっすら汗。外回り帰りらしい。
「こんばんは。近く来たので寄ってみました」
「なんだ急に」
「差し入れです」
紙袋から、まだ温かいコロッケとキャベツの千切り、それに小さなパックのポテトサラダが出てきた。
「商店街のお惣菜屋さんです。おいしいんですよ」
「おぉ……」
揚げ油の香ばしい匂いが広がる。
栄治の腹が鳴った。
「飯、まだだったんですか?」
「まあ……そうだな」
「またカップ麺じゃないでしょうね」
「うるさいな」
結衣は部屋へ入るなり顔をしかめた。
「うわ、蚊取り線香くさい」
「蚊だよ蚊! 十か所も刺された!」
栄治は子どものように腕を見せた。
「うわ、本当だ。掻いちゃだめですよ」
「無理だろこれは」
「ムヒあります?」
「あるわけない」
結衣は呆れた顔をした。
「ちょっと待っててください」
ぱたぱたと外へ出ていく。
数分後、小さな薬を持って戻ってきた。
「管理会社の車に積んでありました」
「なんでそんなもん積んでるんだ」
「この時期、案外使うんです」
結衣は栄治の腕に薬を塗った。
ひんやりする。
「あぁ……」
「子どもみたいですね」
「年寄りだ」
「年取ると痒みに弱くなるらしいですよ」
「嫌な情報だな」
二人は小さな折り畳み机を挟んで座った。
コロッケを齧る。
衣がさくっと音を立て、中から熱いじゃがいもが現れる。
「うまいな」
「でしょ?」
窓の外では、夕暮れが濃くなっていた。
隣室からテレビの音が漏れてくる。
蚊取り線香の煙が、白く細く揺れていた。
栄治はふと呟いた。
「前の家じゃなぁ、こんなふうに誰か来ることなかったな」
結衣は少しだけ黙った。
「坂本さん、ここ来てから、顔変わりましたよ」
「そうか?」
「はい。最初、ずっと怒ってましたもん」
「そりゃ怒るだろ。どこ行っても断られて」
「でも今は……なんていうか」
「なんだよ」
「ちゃんと生活してる顔してます」
栄治は少し照れくさくなり、コロッケを齧った。
窓の外から、また蝉の声がした。
夏がゆっくり終わろうとしていた。




