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老人  作者: かおるこ
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第29話 検索の匂い

第29話 検索の匂い


 朝五時半の空は、まだ青と灰色の間にいた。昨夜の雨が乾ききらず、公園の土から冷たい湿気が立ちのぼっている。栄治はカーキ色の薄いジャンパーの前を閉め、両手を擦り合わせながら歩いた。吐く息が少し白い。


 ラジオ体操の輪には、いつもの老人たちがもう集まっていた。蛍光色の帽子、色あせたジャージ、擦れた運動靴。誰も大声では話さない。だが毎朝同じ時間に顔を合わせると、不思議と他人ではなくなっていく。


 雅代は少し遅れて現れた。


 今日は薄い水色のウインドブレーカーを着ていた。白いスニーカーの紐だけが新しく、朝露を弾いている。


「おはようございます」


「おはようございます」


 栄治は少し胸が高鳴った。


 昨日、ひだまり荘の談話スペースで、大学生の入居者に頼んでマレーシアのことを調べてもらったのだ。


 ラクサ。ペトロナスツインタワー。夜市。ブルームーン。


 写真も少し見せてもらった。


 海みたいな湿気を含んだ夜の空気。赤い提灯。屋台から立つ煙。見たこともない果物。


 知らない国なのに、匂いまで想像できる気がした。


 体操が終わると、栄治は少し弾む声で言った。


「佐伯さん、ネットで調べたんですよ」


「え?」


「マレーシア。ラクサっていう麺料理、海老の出汁なんですね」


 雅代の顔がぱっと明るくなった。


「そうなんですって! 私もまだ食べたことないんですけど」


「あと、夜でも暑いらしいですね。屋台がずっと並んでて」


「ええ、ナイトマーケット。楽しみなんです」


 栄治は続けた。


「ドリアンって果物、匂いが強烈らしいですね。ホテルによっては持ち込み禁止だとか」


 雅代が笑った。


「そんなのまで調べたんですか」


「いや、つい」


 つい、だった。


 誰かの楽しみに、自分も少し触れられたことが嬉しかった。


 ずっと、世の中から置いていかれている気がしていた。スマホも持てない。字も苦手。知らないことばかりだ。


 けれど昨夜、大学生が検索してくれる横で画面を見ているうちに、自分も世界の端に少し触れられた気がした。


 それを雅代に話したかった。


 二人は公園横の喫茶店へ入った。


 ベルがからん、と鳴る。


 店の中はバターとコーヒー豆の焦げた匂いで温かかった。窓際の席には朝日が斜めに差し込み、テーブルの傷を白く浮かび上がらせている。


 栄治はいつものモーニングを頼んだ。厚切りトーストにゆで卵、キャベツの千切り。雅代は今日はハムエッグを追加した。


「坂本さん、詳しくなってる」


「いやあ、調べると面白いですね」


 栄治は少し調子に乗っていた。


「マレーシアって多民族国家なんですね。中華系とかインド系とか」


「へえ」


「だから料理も混ざってるらしくて。香辛料とかココナッツミルクとか」


 雅代は笑顔で頷いていた。


 その笑顔を見ると、もっと話したくなった。


「あと、ブルームーンって本当は青くないらしいですね。暦の関係で珍しい満月をそう呼ぶだけで」


「ふふっ、そこまで」


「空気汚染とか火山灰で青く見えることもあるみたいです」


 そこまで言って、栄治はふと、自分の声が大きいことに気づいた。


 隣席の老人がちらりとこちらを見る。


 雅代はコーヒーカップを持ち上げたまま、小さく笑った。


「坂本さん、旅行前の学生みたい」


「すみません」


「ううん」


 だが、その「ううん」が少し遠かった。


 栄治の胸に、小さな引っかかりが残った。


 店を出る頃には、空がすっかり明るくなっていた。通学中の小学生が黄色い帽子を揺らして横断歩道を渡っていく。


 雅代はバッグの肩紐を直しながら言った。


「でも」


「はい?」


「ネットで検索して、行った気になるのって、ちょっと寂しいですよね」


 栄治は固まった。


 風が吹き、公園の木がざわ、と鳴った。


「……ああ」


 それしか言えなかった。


 雅代は悪気のない顔だった。


「ごめんなさい、変な意味じゃなくて」


「いえ」


「やっぱり実際に匂いを嗅いだり、暑さを感じたりしないとわからないことってあるなあって」


「そうですね」


「坂本さんなら、きっと好きですよ。屋台とか」


 彼女は笑って手を振り、駅のほうへ歩いていった。


 小柄な背中が朝日に溶けていく。


 栄治はその場に残った。


 胸の奥が、じわじわ熱かった。


 恥ずかしい。


 知ったような顔をして喋りすぎた。


 たかが人に検索してもらっただけなのに、自分まで世界を知った気になっていた。


 帰り道、栄治はコンビニへ寄った。


 肉まんの湯気がガラスケースを曇らせている。甘い缶コーヒーを一本買い、店の前のベンチに座った。


 空は青く晴れていた。


 缶を開けると、甘ったるい香りが鼻に抜ける。


「人は難しいな……」


 思わず独り言が漏れた。


 嬉しかったのだ。


 同じ話題を共有できたことが。


 自分でも誰かの関心に近づけたことが。


 それなのに、少しずれてしまう。


 近づいたと思うと、急に距離が見える。


 妻とだって、そういうことはあった。


 味噌汁が少ししょっぱいと言っただけで空気が冷えたり、逆に何気なく言った言葉で笑い転げたり。


 人間は機械みたいに噛み合わない。


 だから疲れる。


 でも――。


 栄治は缶コーヒーを両手で包んだ。


 温かかった。


 雅代の言葉を、嫌だとは思わなかった。


 少し痛かっただけだ。


 たぶん彼女は、「本当に行ってみてほしい」と思って言ったのだ。


 検索ではなく。


 写真ではなく。


 汗の匂いも、夜風も、香辛料も、自分の体で感じろと。


 そこまで考えて、栄治は苦く笑った。


「……無理ですよ」


 年金暮らし。保証人なし。ようやく借りた一K。


 海外旅行なんて、自分とは別世界だ。


 だがその時、不意に思い出した。


「ここなら、息ができるだろう」


 以前、大河内に言われた言葉。


 帰れる場所がある。


 それだけで、人は少し遠くを見られる。


 栄治は残りの缶コーヒーを飲み干した。


 空の高いところに、昼の白い月がうっすら浮かんでいた。



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