第28話:孤立から共生へ
第28話:孤立から共生へ
朝の公園には、湿った土の匂いが残っていた。栄治は薄い灰色のジャンパーの袖を手首まで引き、ラジオ体操の音に合わせて腕を回した。隣では、白いポロシャツに紺のベストを着た老人が、やけに背筋よく伸びをしている。
「坂本さん、体、戻ってきたねえ」
栄治は息を整えながら笑った。
「まだふらつきますよ。でも、部屋で倒れた時に比べれば天国です」
老人は名を森田といった。七十六歳。最近まで、息子に勧められて超高級老人ホームに入っていたという。
「食事はホテルみたいでしたよ。朝は焼きたてのパンにスープ、夜は鯛のポワレなんて出る。でもね、三か月で胃が冷えた」
「胃が?」
「心の胃です」
森田は苦く笑った。
「入ったらね、階が違う、部屋の広さが違う、家族の職業が違う。誰が一番いい部屋か、誰の息子が医者か弁護士か。まあ、見えない名札を胸につけて歩くようなもんです」
栄治は黙った。朝の風が、銀杏の葉をかすかに鳴らした。
「息子さんとは?」
「話しましたよ。怒鳴り合いもした。でも最後は言いました。お前が安心する場所と、俺が息をできる場所は違うって」
その言葉は、栄治の胸に深く沈んだ。
その日の昼、栄治はひだまり荘の共有廊下で、古い扇風機を直していた。白い肌着の上に青いチェックのシャツを羽織り、膝には工具箱。カレーの匂いがどこかの部屋から流れてくる。
大河内が眉をひそめて近づいた。
「また無理して倒れられたら困る」
「ネジ締めるくらいで倒れませんよ」
「信用ならん」
そう言いながら、大河内は栄治の横に麦茶を置いた。
「冷えてる。飲め」
栄治は少し驚いて、湯呑みを見た。
「大家さん、優しくなりましたね」
「勘違いするな。倒れられると面倒なんだ」
その時、結衣が弁当袋を提げて階段を上がってきた。ベージュのブラウスに黒いパンツ姿で、汗で前髪が額に張りついている。
「坂本さん、顔色いいですね。今日は何を?」
「扇風機の延命治療です」
大河内が鼻を鳴らした。
「人間も機械も、古くなると手がかかる」
栄治は笑った。
「でも、手をかければ動くものもあります」
夕方、栄治は自室で炊きたてのご飯に鮭を焼き、豆腐とわかめの味噌汁をすすった。小さな食卓の上には、森田にもらったみかんが二つ。窓の外では、ひだまり荘の部屋に一つずつ明かりが灯っていく。
携帯電話を持たない栄治のために、見守りは電気と水道の使用で確認されていた。文字が苦手な彼にも、滝川は契約内容を声に出して読んでくれた。
「わからないことは、わからないって言っていいんです」
その言葉に、栄治は救われていた。
夜、大河内が戸を叩いた。
「坂本さん、いるか」
「はい」
戸を開けると、大河内は紙袋を差し出した。
「煮物を作りすぎた」
中には大根と鶏肉の煮物が入っていた。醤油と生姜の匂いが、ふわりと立つ。
栄治は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
大河内は照れくさそうに目をそらした。
「……ここは高級じゃない。古いし、狭いし、壁も薄い」
「はい」
「だが、息はできるだろう」
栄治は森田の言葉を思い出し、ゆっくり頷いた。
「できます。ここなら」
その晩、栄治はちゃぶ台の前で煮物を一口食べた。大根は芯まで味が染みて、少し甘かった。ひとりの部屋なのに、不思議と静けさは冷たくなかった。壁の向こうで誰かが咳をし、廊下でスリッパの音がした。
栄治は湯呑みを両手で包み、窓の外の灯を見た。
「ここで、もう少し生きてみるか」
声に出すと、その言葉は小さな部屋の中で、あたたかく残った。




