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老人  作者: かおるこ
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第27話 大根おろしの夜

第27話 大根おろしの夜


 午後の陽射しが、ひだまり荘の共同台所へ斜めに差し込んでいた。


 古いアルミサッシの窓は少し曇り、外では蝉が気の早い声を鳴らしている。六月の終わり独特の、生ぬるい湿気が廊下にまとわりついていた。


 坂本栄治は、流し台の前で腕まくりをしていた。


 灰色のTシャツに、紺色のステテコ。足元は擦り切れた健康サンダル。額にはもう汗が浮いている。


 目の前には、大きな葉つきの大根が一本。


 白く太く、ずっしり重い。


 葉は青々として、まだ土の匂いが残っていた。


「おお、立派だな」


 後ろから大河内が覗き込む。


「朝市で安かったんですよ」


 栄治は少し得意げに言った。


「今日は俺が作ります」


「何を」


「大根餅」


「ほう」


 大河内は眉を上げた。


「そんな洒落たもん作れるのか」


「ネットで見た」


「スマホ持ってないだろお前」


「結衣に印刷してもらった」


 机の上には、少し曲がったコピー用紙が置かれている。


『簡単!もちもち大根餅』


 大きな文字でそう書いてあった。


 栄治は朝からそれを何度も読んでいた。


 文字を追うのは苦手だ。だが、料理の工程は図もついていて、なんとか頭へ入った。


「大根おろしに片栗粉を混ぜるだけらしい」


「簡単って書いてある料理ほど信用ならんぞ」


「うるさい」


 栄治は大根を持ち上げた。


 冷たい。


 みずみずしい重みが掌へ食い込む。


 皮を剥くと、ぱりぱりと白い肌が現れた。切り口から透明な汁がにじむ。


 栄治はおろし金を流しに置いた。


「よし」


 ごり。


 大根を押しつける。


 ざりざりざり、と鈍い音が台所へ響く。


 白いおろしが少しずつ溜まっていく。


 最初は順調だった。


 冷たい大根の感触も気持ちいい。


 これくらいなら余裕だと思った。


 だが。


「……っ」


 数分後、肩へ鈍い痛みが走った。


 腕が重い。


 右肩の奥がじわじわ熱を持ち始める。


 まだ三分の一も削れていない。


「くそ……」


 栄治は顔をしかめた。


 ごり、ごり、ごり。


 大根の繊維が砕ける音。


 腕が震える。


 脳梗塞の後遺症が残る右側は、長く力を入れるとすぐ痛む。


 汗が首筋を伝った。


「坂本さん、何やってるんですか?」


 結衣が買い物袋を提げて入ってきた。


 白いブラウスにカーキ色のパンツ。髪を後ろでひとつに結んでいる。


「大根餅」


「えっ、全部おろすんですか?」


「四人分で一本って書いてある」


「それ一人で?」


「当たり前だ」


 栄治は再び大根を押しつけた。


 ざりっ。


「っ……」


 肩が悲鳴を上げる。


 だが止めたくなかった。


 いつも貰ってばかりだった。


 ぶり大根。


 煮物。


 漬物。


 炊き込みご飯。


 誰かが「ついでだから」と分けてくれる。


 それが嬉しかった。


 だが同時に、どこか情けなかった。


 自分も何か返したかった。


 ちゃんと。


 対等に。


「坂本さん、顔真っ赤ですよ」


「まだいける」


「いや無理ですって」


「くっそ……負けるもんか」


 栄治は歯を食いしばった。


 ざりざりざり。


 腕が痺れる。


 握力が抜ける。


 情けなかった。


 たかが大根一本。


 昔なら、工場で何十キロの部品だって運べたのに。


 旋盤だって一日中回していたのに。


 それが今は、大根一本で腕が上がらない。


「貸しな」


 不意に、大河内が隣へ立った。


「いい」


「意地張るな」


「俺が作るんだ」


「じゃあ俺は助手だ」


 大河内は勝手に袖をまくった。


 茶色いポロシャツの腕から、細い筋張った腕が出る。


「お前、押す係」


「なんだそれ」


「年寄りは分業だ」


 結衣が吹き出した。


「名言っぽい」


「うるさい」


 そのうち、ハルまでやって来た。


「あらまあ、何この量」


「大根餅作るんですって」


「一人でやったの?」


「途中で死にかけた」


「馬鹿だねえ」


 ハルは笑いながら、おろし金を受け取った。


 しゃっ、しゃっ、しゃっ。


 小柄な身体なのに、驚くほど手際がいい。


「昔は毎日やったもんだよ」


「毎日?」


「子ども四人いたからね」


「四人……」


 栄治は呆然と呟く。


「よく生きてましたね」


「失礼だね」


 共同台所に笑い声が広がる。


 大根の青臭い匂い。


 片栗粉の白い粉。


 刻んだネギの香り。


 ごま油を熱したフライパンから、じゅううっと音が立つ。


 丸く焼かれた大根餅は、表面がこんがり狐色になった。


 醤油を垂らすと、香ばしい匂いが立ち上る。


「おお……」


 栄治は目を丸くした。


「ちゃんと料理になってる」


「失礼ですねえ」


 結衣が皿を並べる。


「いただきます!」


 外はすっかり夜だった。


 網戸越しに、ぬるい風が吹いている。


 大根餅を口へ入れる。


 表面はかりっとして、中は驚くほど柔らかい。


 もちっと伸びる食感。


 大根の甘み。


 ごま油の香ばしさ。


「……うまい」


 栄治は呟いた。


「ほんとだ」


「酒ほしくなるな」


「大家が飲み始めた」


「最初から飲んでるだろ」


 笑い声がまた広がる。


 その夜。


 栄治は自室の布団で、肩を押さえていた。


「いててて……」


 湿布の匂いが鼻につく。


 右肩がずきずき疼いた。


 窓の外では、誰かの部屋の風鈴が鳴っている。


 遠くで電車の音。


 栄治は暗い天井を見つめた。


 情けなかった。


 一人じゃ大根一本おろせない。


 昔の自分なら考えられない。


 だが。


 ふと、共同台所の笑い声を思い出す。


「年寄りは分業だ」


 大河内の言葉が蘇った。


 栄治は小さく笑った。


「……まあ、いいか」


 一人で全部できなくてもいい。


 できないところを、少し借りる。


 その代わり、自分にできることを返す。


 それで回る暮らしもある。


 肩は痛かった。


 だが胸の奥には、妙に温かいものが残っていた。


 窓の外で、初夏の風が静かに吹いていた。




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