第26話 ブルームーンの夜
第26話 ブルームーンの夜
朝六時、公園のラジオ体操はまだ少し肌寒かった。湿った土の匂いが、昨夜の雨を残している。栄治は色あせた紺色のウインドブレーカーの襟を立て、首をすくめながら肩を回した。古い灰色のジャージの膝は、何度も洗ったせいで薄くなっている。
カセットデッキみたいな音質のラジオから、
「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動」
と流れる。
いつもの顔ぶれが無言で体を動かしていた。年寄りばかりだ。みんな似たような帽子をかぶり、似たような疲れを背負っている。
その中で、一人だけ少し華やかな色があった。
薄紫のパーカーに白い運動靴。髪を短く切りそろえた女が、空を見上げながら体を伸ばしている。
佐伯雅代、六十五歳。
最近、公園へ来るようになった人だ。
体操が終わると、雅代は水筒のお茶を飲みながら言った。
「坂本さん、ブルームーンって見たことあります?」
「青い月ですか」
「実際は青くないんですって。でも珍しい満月らしくて」
彼女は楽しそうに笑った。教師をしていた人特有の、相手の返事を急がせない喋り方だった。
「今度、マレーシアで見るんですよ」
栄治は聞き返した。
「……マレーシア?」
「ええ。クアラルンプール。退職したら一回くらい海外行こうと思ってたんです」
まるで「近所のスーパーへ行く」みたいな軽さだった。
栄治は曖昧に笑ったが、胸の奥がざらついた。
自分はアパート一つ借りられずにいる。保証人がいない、高齢だ、孤独死の危険がある。そんな理由で何軒も断られている。
なのに同じ年頃の人間が、月を見るために外国へ行く。
努力の差、と言われたら、それだけではない気がした。
二人は公園横の古い喫茶店へ入った。店のドアベルが、からん、と乾いた音を鳴らす。
店内には焦げたバターの匂いとコーヒーの苦味が漂っていた。茶色いビニール張りの椅子。窓際には観葉植物が少しくたびれている。
雅代はベージュのカーディガンを脱ぎながら言った。
「マレーシア料理、楽しみなんです」
「どんなもの食べるんですか」
「ラクサとか、ナシレマとか。ココナッツミルクを使う料理が多いみたいで」
「辛いんでしょう」
「たぶん。でも、甘いのと酸っぱいのも混ざるらしいですよ」
彼女はスマホを取り出し、写真を見せようとしてから、はっと手を止めた。
「あ、ごめんなさい」
「いや」
栄治は目を伏せた。
彼女は知っている。栄治がスマホを持っていないことも、字を読むのが苦手なことも。
みどりエステートで契約書を前に固まっていた時、結衣がそっと説明してくれたのだ。
「これ、美味しそうなんですよ」
雅代はスマホをしまい、代わりに言葉で説明した。
「麺のスープ料理で、海老の出汁が効いてて、赤い油が浮いてて。上に香草がいっぱい乗ってるんですって」
栄治の頭に、見たことのない料理の姿がぼんやり浮かんだ。
湯気。赤い色。香辛料。
知らない国の夜の匂い。
「坂本さんも、海外とか行ったことあります?」
「ないです」
「行きたくなかった?」
栄治は少し考えた。
「若い頃は、働いてるうちに終わりました」
機械メーカーの工場。油の匂い。金属を削る音。深夜までの残業。
妻がいた頃は、それでもよかった。
家へ帰れば湯気の立つ味噌汁があり、洗濯物の柔軟剤の匂いがあり、小さな笑い声があった。
だが今は、帰る場所すら不安定だ。
「奥さん、料理上手だったんでしょうね」
雅代が言った。
「なんでわかるんです」
「顔してます」
栄治は思わず吹き出した。
「なんですか、それ」
「ちゃんと食べさせてもらってた人の顔です」
店員がモーニングを運んできた。厚切りトーストに、半熟のゆで卵。小さなサラダ。湯気の立つコーヒー。
栄治はトーストをちぎった。バターがじわりと染み、指先に熱が移る。
「私ね」
雅代が静かに言った。
「教師やってた頃、ずっと親の介護してたんです」
栄治は顔を上げた。
「父が認知症で、母が足悪くて。海外旅行なんて一回も行けなかった」
彼女は笑った。
「だから別に、キラキラした人生じゃないですよ」
窓の外で、自転車が水たまりを跳ねた。
栄治は急に、自分が恥ずかしくなった。
勝手に比べていた。
あの人は自由で、自分は不幸だと。
けれど人は、外から見えない時間を背負っている。
「でも」
雅代はコーヒーカップを両手で包みながら続けた。
「今こうして、月を見に行こうって思えるの、少し嬉しいんです」
「ブルームーン」
「ええ」
「月なんか、日本でも見えるでしょう」
「そうなんですけどね」
彼女は笑った。
「違う国の匂いの中で見る月って、ちょっと違う気がしません?」
その言葉に、栄治は不意に胸を打たれた。
違う国の匂い。
香辛料。熱気。夜市。ココナッツミルク。
知らない言葉。
知らない夜。
その中で見る月。
店を出る頃には、朝の雲が切れ始めていた。
雅代は薄紫のパーカーの袖を引きながら言った。
「お土産、何がいいですか?」
「別にいいですよ」
「マレーシアのお菓子くらい買ってきます」
「辛いやつは勘弁してください」
「ふふっ、わかりました」
彼女は笑いながら歩いていく。
小柄な背中だった。
栄治はその後ろ姿を見送りながら、ふと思った。
自分はまだ、「どこにも行けない人間」ではないのかもしれない。
狭い一Kでもいい。
安心して帰れる部屋があれば、人はまた、どこかへ行こうと思えるのかもしれなかった。
空の端に、白い月が薄く残っていた。




