第25話 ぶれんじゃねえ
第25話 ぶれんじゃねえ
夜だった。
雨が降りそうな空気だった。
窓を少し開けると、生ぬるい風がカーテンを揺らす。遠くで雷が鳴っていた。
栄治は六畳間で、ノートパソコンを開いていた。
黒いリネンシャツ。
今日は昼間に買ったばかりのそれを、そのまま着ている。ゆるいシルエットなのに、どこか背筋が伸びる感じがした。
下は濃いグレーのパンツ。
裸足。
足元には、磨いたREGALのタッセルスリップオンが揃えて置いてある。
最近、自分でも少しおかしいと思う。
六十七歳になって、服を気にし始めるなんて。
だが、悪い気はしなかった。
夕飯は簡単だった。
鯖缶と玉ねぎを和えたもの。
冷奴。
トマト。
炊きたてのご飯。
それに麦茶。
質素だが、ちゃんと食べている。
前の自分なら、カップ麺で終わっていた。
パソコンから、低い声が流れる。
ラップだった。
関西弁。
荒っぽい言葉。
だが、妙に真っ直ぐだった。
『ぶれんじゃねえ、負けんじゃねえ』
栄治は、箸を止めた。
「……なんだこれ」
最初は、たまたま流れてきただけだった。
Earth, Wind & Fire を見たあと、おすすめ欄に出てきた。
若い兄ちゃんのラップだろうと思った。
だが、聴いているうちに、妙に引っかかる。
『何回倒れても立ち上がれ』
『限界なんて決めた瞬間、そこで終わるだけや』
言葉が、どん、と胸へ入ってくる。
「熱いなあ……」
栄治は苦笑した。
若い頃なら、
「青臭い」
で終わっていたかもしれない。
だが今は違った。
六十七まで生きると、
“立ち上がる”
って、実はすごく難しい。
病気。
孤独。
金。
気力。
いろんなものが、人間を座り込ませる。
だからこそ、この真っ直ぐな言葉が、妙に刺さる。
玄関がこんこん鳴る。
「坂本さんー」
結衣だった。
「おう」
ドアを開けると、結衣はコンビニ袋を抱えて立っていた。
今日はグレーのワイドパンツに、白いノースリーブ。その上から薄い黒のシャツを羽織っている。
「また音楽ですか?」
「これ」
栄治は画面を指差した。
結衣が覗き込む。
「ラップ?」
「なんか熱い」
結衣は少し聴いて、笑った。
「あー、こういうの坂本さん好きそう」
「そうか?」
「まっすぐだから」
パソコンの向こうでは、まだ声が響いている。
『笑われてもええねん』
『その方が燃えるやろ』
結衣は麦茶を飲みながら言った。
「でも坂本さん、最近ほんと変わりましたよね」
「そうか?」
「前、“どうせ俺なんか”感すごかった」
「そんなだったか」
「すごかったです」
二人で笑う。
栄治はパソコンを見た。
若い男が、汗だくで叫ぶみたいに歌っている。
根性論。
努力。
生き様。
昭和なら、
「暑苦しい」
と言われそうな言葉ばかりだった。
だが不思議と嫌じゃない。
「なんかさ」
栄治が言う。
「この歳になると、“もう無理”って、自分で決めちゃうんだよな」
結衣は黙って聞いている。
「新しい服も」
「うん」
「海外も」
「うん」
「ライブも」
「うん」
「全部、“俺には関係ない”って」
窓の外で、雷が光った。
一瞬、部屋が白くなる。
栄治は続けた。
「でも最近、ちょっと思うんだ」
「何を?」
「まだやれるかも、って」
結衣は、ふっと笑った。
「推し活強いですね」
「強いな」
「人生変えてる」
栄治は照れ臭くなり、麦茶を飲んだ。
冷たい。
喉が気持ちいい。
パソコンの中では、まだ歌が続いている。
『最後に残るは才能ちゃう』
『やり続けたやつや』
栄治は、その言葉をぼんやり聞いていた。
若い頃、自分は特別な人間じゃないと思っていた。
会社でも普通。
出世も普通。
人生も普通。
だが、こうして六十七まで生きている。
妻を見送って。
会社が潰れて。
病気して。
一人になって。
それでも、まだ新しい音楽聴いて、海外ライブ行こうとしてる。
「……やり続けてんな」
ぽつりと呟く。
結衣が笑う。
「何をです?」
「生きるの」
一瞬、静かになった。
その沈黙は、暗くなかった。
むしろ、少し温かかった。
雨が降り始める。
窓の外で、細い雨音が鳴る。
栄治は立ち上がり、窓を閉めた。
ガラスに、自分の姿が映る。
黒いリネンシャツ。
少し痩せた顔。
白くなった髪。
だが、その顔は、前より少しだけ前を向いていた。
「ぶれんじゃねえ、か」
栄治は小さく笑った。
その言葉は、若者の歌なのに、不思議と今の自分にぴったりだった。




