第23話 昭和トラッドで行こう
第23話 昭和トラッドで行こう
午後だった。
六月の湿った風が商店街を抜けていく。
栄治は、駅前の喫茶店で一人、アイスコーヒーを飲んでいた。
冷房が効きすぎていて、少し寒い。
今日は久しぶりに、ちゃんとした格好をしている。
タッターソウルチェックのボタンダウン。
ベージュの綿パン。
足元はREGALのタッセルスリップオン。
証明写真の日から、少し気分が変わったのだ。
パスポート。
海外ライブ。
そんな言葉が、自分の人生に入ってくるとは思わなかった。
テーブルにはノートが開いている。
そこには、
『ニューヨーク』
『ホノルル』
『シカゴ』
と、妙に浮ついた字で書いてあった。
「六十七で何やってんだ俺は……」
栄治は笑う。
だが、嫌じゃなかった。
むしろ最近、自分でも驚くくらい機嫌がいい。
そこへ、
「坂本さん」
結衣が店へ入ってきた。
白いブラウスにネイビーのパンツ。いつもの、今風のラフな格好だった。
「おう」
「なんか今日、また昭和ですね」
「悪いか」
「悪くないです」
結衣は笑いながら向かいへ座った。
アイスティーを注文する。
栄治は結衣を見ながら、ふと思った。
もし、一緒に海外ライブへ行くなら。
もし、横に並んで歩くなら。
「……なあ」
「はい?」
「三浦さんさ」
「はい」
「俺の服に合わせるなら」
結衣が笑う。
「何ですか急に」
「チャコールグレーのヘリンボーンのロングタイトだな」
「は?」
「靴はリーガルのコインローファー」
「待って待って」
「シャツはな」
栄治は真顔だった。
「淡い、淡い、淡いピンクのピンホール」
結衣は吹き出した。
「ピンホール!?」
「ワインレットのアスコットタイ」
「昭和!!」
店の中で結衣が笑い転げる。
栄治もつられて笑った。
「あはは、昭和だな」
「昭和すぎます!」
「でも絶対似合うぞ」
「どこで売ってるんですかその服」
「知らん」
「知らんのかい!」
二人で腹を抱えて笑う。
喫茶店のマスターがちらっとこちらを見る。
栄治は咳払いした。
「いやでもな」
「はいはい」
「三浦さん、足きれいだからロングタイト似合うぞ」
「やめてください急に昭和の口説き方するの」
「口説いてない」
「してます」
結衣はまだ笑っていた。
アイスティーが運ばれてくる。
氷がからん、と鳴る。
栄治は少し照れ臭くなり、コーヒーを飲んだ。
「あと香水」
「まだあるんですか」
「Miss Dior」
「うわ出た」
「淡くな」
「なんなんですかその世界観」
栄治は笑った。
「昔はな、ちょっと背伸びしてたんだよ」
「トラッド?」
「そう」
「へえー」
「MEN'S CLUBとか読んで」
「出た昭和」
「VANとか憧れて」
「青春ですね」
その言葉に、栄治は少し黙った。
青春。
最近、その言葉を忘れていた。
若い頃は、未来があるのが当たり前だった。
仕事して。
恋して。
服買って。
音楽聴いて。
いつか海外なんか行ける気がしていた。
だが、いつの間にか、
「老後」
という言葉ばかりが近づいてきた。
縮こまって。
静かにして。
迷惑かけないように。
そんなことばかり考えていた。
なのに今。
Earth, Wind & Fire のライブへ行こうとしている。
しかも結衣と。
「人生わかんねえな……」
ぽつりと呟く。
結衣がストローをくるくる回しながら訊く。
「坂本さん、なんでそんな急に元気になったんですか」
「え?」
「最近、顔違います」
栄治は少し考えた。
喫茶店には古いジャズが流れている。
コーヒーの匂い。
冷房。
窓の外の夏。
「……たぶんな」
「うん」
「“もう終わり”って決めるの、やめたんだ」
結衣は黙って聞いている。
「最近まで、老後って“終わる準備”だと思ってた」
「……うん」
「でも今は、“まだ面白いことあるかも”って思ってる」
結衣が、ふっと笑った。
「推し活効果ですね」
「すげえな推し活」
「世界を救いますから」
二人でまた笑う。
栄治はふと、若い頃の自分を思い出した。
ボタンダウンの襟を気にして。
リーガル磨いて。
ちょっと背伸びして。
洋楽なんか聴いて。
大人になった気でいた頃。
その頃の自分が、今また少し戻ってきている気がした。
「じゃあ決まりですね」
結衣が言う。
「何が」
「海外推し活遠征」
栄治は笑った。
「ほんとに行くのかよ」
「行きますよ」
窓の外では、夏の光がアスファルトに反射していた。
暑い。
でも今日は、不思議と胸の奥が軽かった。
青春なんて、とっくに終わったと思っていた。
だが案外、人間は何歳からでも、少し浮かれることができるのかもしれなかった。




