第21話 推し活が始まる
第21話 推し活が始まる
夜だった。
ひだまり荘の外階段を、誰かがゆっくり降りていく音がする。
窓の外は蒸し暑く、遠くでバイクの音が響いていた。夏の夜特有の、少し湿った匂いがする。
栄治は、イオンで買った紺のパジャマ姿で座卓の前にいた。
パソコンの画面では、Earth, Wind & Fireのライブ映像が流れている。
ホーンが鳴る。
客席が揺れる。
メンバーが踊る。
「なんなんだよ、この体力……」
栄治は呆れながら笑った。
画面の横にはライブ日程。
ニューヨーク。
シカゴ。
ホノルル。
トロント。
意味が分からない移動距離だった。
「絶対疲れるだろ……」
だが、ライブ映像の中の連中は全然疲れていない。
むしろ、どんどん元気になっているように見える。
その時、玄関がこんこん鳴った。
「坂本さんー」
結衣だった。
「おう」
ドアを開けると、結衣はコンビニ袋をぶら下げて立っていた。
今日は大きめの黒Tシャツにデニム。髪を後ろで束ねている。
「また見てる」
「また見てる」
二人で笑う。
結衣は勝手に座卓の前へ座った。
「今日なんですか」
「今日はこれ」
栄治は画面を指差した。
Boogie Wonderland。
イントロだけでテンションがおかしい。
「うわ、これライブ版だ」
「客の盛り上がりがやばい」
画面では観客が総立ちだった。
老若男女、全員踊っている。
「なんなんだろうな、これ」
栄治はぽつりと言った。
「何がです?」
「見てるだけで元気出る」
結衣は頷く。
「わかります」
栄治は麦茶を飲んだ。
夕飯は冷やしうどんだった。
刻み海苔、葱、温泉卵。ちくわ天を一本だけ買って乗せた。冷蔵庫にはスイカも少し冷やしてある。
「しかし、ライブ行きてえなあ」
栄治はまた呟く。
「まだ言ってる」
「だって楽しそうだろ」
「まあ」
栄治はライブ日程を見た。
ニューヨーク。
ホノルル。
マディソン・スクエア・ガーデン。
地名がもう映画だった。
「どこでもいいんだよな」
「え?」
「この人たちのライブ、一回生で見てみたい」
結衣は画面を見る。
その横顔が少し笑っていた。
「坂本さん、完全にハマりましたね」
「推しってこういう感じか?」
「そうです」
「六十七で初推しか……」
栄治は笑った。
少し沈黙。
ライブ映像だけが騒がしい。
その勢いのまま、栄治はなんとなく言った。
「……一緒に行かないか」
「え?」
「いや」
言った瞬間、栄治は自分で焦った。
「いや、変な意味じゃなくて!」
「はい」
「その、なんだ」
急に耳が熱くなる。
「お金は出せないけど」
結衣は一瞬ぽかんとしていた。
栄治はもう後悔していた。
何言ってんだ俺。
六十七歳が。
若い女相手に。
海外ライブ行こうとか。
頭おかしい。
「いや忘れてくれ」
慌てて言う。
すると結衣が、
「はい、喜んで」
と言った。
「……え?」
栄治は固まった。
「まじかー!」
思わず声が裏返る。
結衣が吹き出した。
「坂本さん、顔真っ赤」
「いやだって!」
「面白そうじゃないですか」
「海外だぞ!?」
「いいじゃないですか」
「俺、英語できないぞ」
「私もそんなにできません」
「飛行機苦手だぞ」
「私も嫌いです」
「なんなんだよ!」
二人で大笑いした。
笑いながら、栄治は妙な感覚になっていた。
六十七歳になって、
「推し活」
なんて言葉を使うとは思わなかった。
しかも、若い女と一緒に海外ライブの話をしている。
人生、分からない。
「まずパスポートですね」
結衣がスマホをいじる。
「写真必要ですよ」
「証明写真か……」
「服ちゃんとしてくださいね」
「なんだその言い方」
「よれたTシャツ禁止」
「パスポートに首伸びたシャツはまずいか」
「まずいです」
二人でまた笑う。
結衣は急に真面目な顔になった。
「でも、いいですね」
「何が」
「行きたい場所があるって」
栄治は少し黙った。
たしかに、そうだった。
最近までの自分は、
「どう死ぬか」
ばかり考えていた。
病気。
家賃。
孤独死。
そんな話ばかりだった。
だが今は、
「どこ行こうか」
を考えている。
ニューヨークか。
ホノルルか。
シカゴか。
それだけで、なんだか人生が少し広がった気がした。
「推し活ってさ」
栄治は麦茶を飲みながら言った。
「人を元気にするんだな」
「そうですよ」
結衣が笑う。
「世界中それでできてます」
パソコンの中では、まだ派手なホーンが鳴っていた。
客席が踊っている。
メンバーが笑っている。
栄治は、その画面を見ながら思った。
人生、もう終わりだと思っていた。
だが、まだ知らないことがある。
まだ見たいものがある。
まだ、「うわー!」って思えるものがある。
「……悪くねえな」
ぽつりと呟く。
その声は、自分でも少し驚くくらい、生き生きしていた。




