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老人  作者: かおるこ
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第20話 面白かったよ、人生

第20話 面白かったよ、人生


 夜中だった。


 エアコンの風が、イオンで買った紺のパジャマの袖をゆっくり揺らしている。


 栄治は座卓の前に胡坐をかき、ノートパソコンを睨んでいた。


「なんだこれ……」


 画面には、ずらっとライブ日程が並んでいる。


 ニューヨーク。


 ホノルル。


 シカゴ。


 トロント。


 フィラデルフィア。


 アトランタ。


 イタリアまである。


「魔法でも使えるのか、こいつら……」


 思わず呟く。


 Earth, Wind & Fireだった。


 しかも、まだ現役。


 まだライブやってる。


 しかも移動距離がおかしい。


「七十過ぎて、こんな動けるか普通……?」


 栄治は呆れ半分、感動半分でスケジュールを見つめる。


 昨日はニューヨーク。


 次はホノルル。


 その次はまた別の州。


 頭がおかしい。


 しかもライブ映像を見る限り、全力で踊ってる。


「化け物だろ……」


 だが、見ているうちに、不思議な気持ちになってきた。


 最初は笑っていた。


 呆れていた。


 なのに、だんだん胸の奥が熱くなってくる。


「……いいな」


 ぽつりと出た。


 いい。


 なんだか知らないが、すごくいい。


 最近の栄治は、


 病院。


 薬。


 年金。


 食費。


 孤独死。


 そんなことばかり考えていた。


 だが画面の中の連中は、まるで、


「まだ終わってねえぞ!」


 と言っているみたいだった。


 それが、やたら格好よかった。


 栄治はマウスを握り直した。


「……行けるのか?」


 自分で言って、自分で笑う。


 英語もできない。


 飛行機も苦手。


 海外なんて新婚旅行以来だ。


 いや、その新婚旅行だって熱海だった。


 パスポートすら持っていない。


「無理だろ」


 そう思う。


 だが、もう一人の自分が言う。


「でも、行けたら面白いぞ」


 その時、玄関がこんこん鳴った。


「坂本さん?」


 結衣だった。


「おう」


 ドアを開けると、結衣がコンビニ袋を提げて立っている。


 今日は大きめの白Tシャツに黒いパンツ。髪を後ろで束ねていた。


「また見てる」


「見ろこれ」


 栄治はパソコンを指差した。


「ライブ日程」


「うわ、多い」


「異常だろ」


 結衣は吹き出した。


「ほんとだ」


「ホノルル行って、また別の州行ってるぞ」


「体力どうなってるんですかね」


「魔法使いだろもう」


 二人で笑う。


 パソコンの画面では、Boogie Wonderlandのライブ映像が流れていた。


 客席総立ち。


 みんな踊ってる。


 汗だくで笑ってる。


「行きたいな」


 栄治はぽつりと言った。


 結衣が顔を上げる。


「ライブ?」


「ああ」


「海外?」


「どこでもいい」


 自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。


 どこでもいい。


 ニューヨークでも。


 シカゴでも。


 ホノルルでも。


 知らない街でもいい。


 人生で一回くらい、


「うわあ!」


 って思う場所へ行ってみたい。


 結衣は少し黙ってから訊いた。


「坂本さん、パスポート持ってましたっけ」


「ない」


「じゃあ取らなきゃ」


「取れるのか、この歳で」


「取れますよ」


 栄治は少し笑った。


「六十七で初パスポートか」


「いいじゃないですか」


「遅すぎるだろ」


「そんなことないですよ」


 結衣はコンビニ袋からアイスを出した。


「はい」


「またか」


「ライブ記念です」


「なんの記念だよ」


 バニラバーを齧る。


 冷たかった。


 甘い。


 パソコンの中では、まだ派手なホーンが鳴っている。


 栄治はぼんやり画面を見た。


 若い頃、自分は「人生は仕事だ」と思っていた。


 真面目に働いて。


 家を買って。


 老後に備える。


 そういうものだと思っていた。


 だが、気づけば家はなくなった。


 会社も潰れた。


 妻も死んだ。


 残ったのは六畳一間と、少しの年金。


 なのに今、なぜか外国のバンド見て、


「ライブ行きたい」


 とか言ってる。


 変な人生だった。


 でも。


 悪くない気もした。


「なんかさ」


 栄治はアイスを持ったまま言った。


「死ぬ前に、“面白かった”って言えたらいいな」


 結衣は静かに聞いている。


「金持ちじゃなくてもいいし」


「うん」


「成功もしなくていい」


「うん」


「でも最後に、“まあ楽しかったよ”って思えたら」


 栄治は少し笑った。


「それで十分な気がする」


 結衣は、ふっと笑った。


「今ちょっと、その途中っぽいですよ」


「え?」


「前の坂本さん、“終わった人”みたいな顔してたから」


「そんな顔してたか」


「してました」


 二人で笑う。


 外では、夏の夜風が少しだけ吹いていた。


 どこかの部屋で風鈴が鳴る。


 パソコンの画面では、まだ世界中の客が踊っている。


 六十七歳。


 イオンのパジャマ。


 深夜。


 初めてパスポートを取ろうとしている。


 なんだか全部、少し遅い。


 でも、遅いからこそ面白い気もした。


 栄治はもう一度、ライブ日程を見た。


「……どこでもいいな」


 その呟きは、自分でも驚くほど、生きている声だった。




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