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老人  作者: かおるこ
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第20話 どこで申し込むんだ

第20話 どこで申し込むんだ


 夜十一時過ぎ。


 ひだまり荘の廊下は静かだった。


 遠くで洗濯機の回る音がする。誰かが流しで皿を洗っている。夏の湿った空気が、窓の隙間からぬるく入ってきた。


 栄治は、イオンで買った紺のパジャマ姿で座卓の前にいた。


 パソコンの画面には、Boogie Wonderlandのライブ映像。


 イントロが始まった瞬間から、もうおかしい。


「なんだこれ……!」


 ホーン隊が入る。


 ベースが跳ねる。


 ドラムが前へ押してくる。


 客席が一斉に立ち上がる。


 そして、全員笑ってる。


 画面の中の客も。


 演奏してる連中も。


「楽しそうすぎるだろ!」


 栄治は思わず笑ってしまった。


 さっきまで眠かったのに、完全に目が覚めていた。


 パジャマの胸元をぱたぱた引っ張る。


 エアコンはついているのに暑い。


 音が熱いのだ。


「すげえな……」


 ライブ映像のコメント欄を眺める。


『人生最高のライブ』


『70代でも踊った』


『これが本物の音楽』


 世界中の言葉が並んでいる。


 栄治は麦茶を飲みながら、ぽつりと呟いた。


「ライブ行きてえなあ……」


 その瞬間、自分で驚いた。


 六十七歳になって、


「ライブ行きたい」


 なんて思うとは。


 若い頃は行かなかった。


 仕事が忙しかったし、金もなかった。


 それに、ライブなんて“若いやつの遊び”だと思っていた。


 だが今、画面の中の連中を見ていると、


「生で浴びたい」


 と思ってしまう。


「どこで申し込むんだ、これ……」


 栄治は真顔で呟いた。


 すると玄関がこんこん鳴った。


「坂本さん?」


 結衣だった。


「おう!」


 妙に元気な声が出る。


 結衣はドアを開けた瞬間、笑った。


「また見てる」


「見ろこれ!」


「好きですねえ」


 今日はグレーのTシャツに黒いジャージパンツ姿だった。コンビニ袋を持っている。


「いや、これすごいぞ」


「はいはい」


「ライブ行きたくなる」


「えっ」


 結衣が目を丸くした。


「坂本さんが?」


「なんだその反応」


「いや、ちょっと意外で」


 栄治は画面を指差した。


「だって見ろよ、この客」


 総立ちだった。


 みんな踊ってる。


 白人も黒人も、若いのも老人も、全員楽しそうだ。


「なんなんだ、この幸福感……」


 結衣が吹き出した。


「幸福感て」


「いや、ほんとに」


 栄治は真剣だった。


「最近さ、病院とか薬とか、そういう話ばっかだったろ」


「うん」


「でもこれ見てると、“まだ遊んでいい”って感じする」


 結衣は少し黙った。


 それから、静かに笑った。


「いいじゃないですか」


「だろ?」


「で、どこで申し込むんです?」


「そこなんだよ!」


 栄治はパソコンを睨む。


「英語ばっかでわからん!」


 結衣が大笑いした。


「坂本さん、勢いだけで海外ライブ行こうとしてる」


「いや、行けるなら行きたいだろこれ」


「パスポートあります?」


「……切れてる」


「でしょうね」


 二人で笑う。


 画面の中では、まだEarth, Wind & Fireが暴れている。


 ホーンが鳴るたび、栄治の肩も揺れた。


「しかし、すげえな」


「何がです?」


「この年齢で、まだ現役って」


「たしかに」


「しかも、楽しそうなんだよ」


 そこだった。


 無理してる感じじゃない。


 疲れた顔でもない。


 「好きだからやってる」が、そのまま出ている。


 栄治はふと思った。


 最近の自分は、


「老後」


 という言葉に、勝手に小さくなっていた気がする。


 静かに。


 迷惑かけず。


 目立たず。


 縮こまって。


 だが画面の中の連中は、真逆だった。


 七十過ぎても、


「もっと音出せ!」


 みたいな顔をしている。


「化け物だな……」


 栄治は笑った。


 結衣がコンビニ袋からアイスを出す。


「はい」


「おっ」


「ライブ行きたい記念」


「なんだそれ」


 バニラアイスだった。


 栄治は蓋を開け、一口食べる。


 冷たかった。


 甘い。


「あー……うまい」


「子どもみたい」


「うるさい」


 結衣はパソコン画面を見る。


「でも、ほんと行けたら面白そうですよね」


「だろ?」


「坂本さん、めっちゃテンション上がりそう」


「今もう上がってる」


「わかります」


 窓の外で、誰かがベランダに出る音がした。


 夜風が少しだけ入ってくる。


 パジャマの袖が揺れる。


 栄治はアイスを食べながら、画面の中の歓声を見ていた。


 六十七歳。


 イオンのパジャマ姿。


 夜中に海外バンドのライブ映像見て、


「行きてえ!」


 と本気で思っている。


 なんだか変だった。


 だが、その“変な感じ”が、最近ちょっと好きだった。



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