第二話 貸し手の言い分、借り手のプライド
第二話 貸し手の言い分、借り手のプライド
朝の空気は冷たかった。
安宿の共同洗面台で顔を洗った坂本栄治は、鏡に映る自分をしばらく見ていた。目の下のくまが濃い。頬も少しこけた気がする。
隣で歯を磨いていた作業服姿の男が、ちらりと栄治を見る。
「寒くなりましたねぇ」
「ああ」
短く返した声が、自分でも驚くほど乾いていた。
昨夜はよく眠れなかった。隣室のいびき、廊下を歩く足音、古い配管の唸る音。そのたびに目が覚めた。
ここは仮の部屋だ。
そう思えば思うほど、落ち着かなかった。
午前十時過ぎ、「みどりエステート」の前へ着くと、三浦結衣が店先で箒を持っていた。薄いグレーのコート姿で、白い息を吐きながら落ち葉を集めている。
「あ、おはようございます!」
顔を見るなり、彼女はぱっと表情を明るくした。
「坂本さん、ちょうどご連絡しようと思ってたんです」
「……何かあったのか」
「一件だけ、大家さんが話を聞いてもいいって」
栄治は思わず眉を上げた。
「本当か」
「はい。ただ……ちょっと癖のある大家さんです」
店内へ入ると、暖房の匂いとインスタントコーヒーの香りが鼻をくすぐった。結衣は慌ただしく資料を広げる。
「『ひだまり荘』っていう木造アパートです。築四十年ですけど、家賃は四万八千円。駅から徒歩十五分」
「十分だ」
「ただ、大河内さんっていう大家さんが、かなり慎重で……」
その言い方に、栄治は少し笑った。
「慎重、ね」
結衣は苦笑いした。
「正直に言うと、高齢の単身入居には厳しいです」
「まあ、そうだろうな」
「でも、会うだけ会ってみませんか?」
栄治は黙って頷いた。
昼過ぎ、二人は古い軽自動車で住宅街へ向かった。窓の外には色褪せたクリーニング屋、シャッターの閉まった薬局、小さな公園。冬の日差しは弱く、街全体が薄い灰色に沈んでいる。
「坂本さん、緊張してます?」
運転しながら結衣が聞いた。
「してない」
「嘘つくの下手ですね」
「してないって」
「さっきから鞄ずっと叩いてます」
栄治は自分の指が無意識に鞄を叩いていたことに気づき、手を止めた。
「……癖だ」
やがて車は二階建ての古いアパートの前で止まった。
『ひだまり荘』
fadedした看板。外壁はくすみ、階段の鉄は赤茶けている。だが、敷地の隅には小さな花壇があり、黄色いパンジーが風に揺れていた。
「結衣ちゃんか」
低い声がした。
管理室の引き戸から、大柄な老人が出てきた。灰色のカーディガンに腹巻き。眉が太く、目つきが鋭い。
「こちら、坂本栄治さんです」
大河内厳は、値踏みするように栄治を見た。
「六十七だって?」
「ああ」
「一人暮らし」
「そうだ」
「保証人なし」
「……そうだ」
沈黙。
遠くでカラスが鳴いた。
大河内は鼻を鳴らした。
「悪いけどなぁ、うちは高齢者は断ってるんだ」
結衣が慌てて口を挟む。
「でも坂本さん、しっかりしてますし、年金も安定してます!」
「そういう問題じゃない」
大河内の声は冷たかった。
「もし部屋で倒れられたら誰が片付けるんだ」
栄治の胸がざらりとした。
「片付ける?」
「孤独死だよ。最近多いんだ。夏場なんか悲惨だぞ」
結衣の顔が強張る。
「大河内さん……」
「実際あったんだよ」
大河内はアパートの二階を見上げた。
「三年前、別の物件でな。発見まで二ヶ月。畳は腐る、臭いは染みつく、遺族は相続放棄。特殊清掃だけで何十万飛んだと思う?」
風が吹き、どこかで洗濯物を叩く音がした。
「俺だって鬼じゃない。だけどな、最後に責任被るのは大家なんだ」
栄治は奥歯を噛み締めた。
「俺はまだ元気だ」
「みんなそう言う」
「毎日歩いてる。飯も自分で作る」
「今はな」
「何だその言い方は」
大河内はじっと栄治を見た。
「認知症になったら? 火を消し忘れたら? 夜中に徘徊されたら?」
「ならない」
「未来のことなんかわからん」
栄治の耳の奥で血が熱くなる。
「俺をボケ老人扱いしたいのか」
「そう聞こえるなら勝手にしろ」
「まだ体も動くしボケてもいない!」
声が響いた。
結衣がびくりと肩を揺らす。
栄治は自分でも驚くほど息が荒くなっていた。
「四十年以上働いてきたんだ。税金も払った。真面目に生きてきた。それなのに、歳取っただけで厄介者か」
大河内は黙っていた。
代わりに、風の音だけが通り抜ける。
しばらくして、大河内は低い声で言った。
「……あんたが真面目なのはわかる」
「だったら」
「でもな、俺は“もしも”で食ってるんだ」
その声には疲れが滲んでいた。
「一回事故が起きりゃ終わる。次の借り手は逃げる。ローンだけ残る。あんた一人の問題じゃないんだよ」
栄治は言葉を失った。
責めたいのに、責めきれない。
相手にも現実がある。
それが余計に苦しかった。
帰り道、結衣は何度も「すみません」と繰り返した。
「謝るな」
「でも……」
「お前のせいじゃない」
夕方のスーパー前を通ると、買い物袋を提げた老夫婦が並んで歩いていた。どちらかが何か言って、二人で笑う。
栄治は目を逸らした。
「坂本さん」
「何だ」
「私、もう少し探してみます」
「無理するな」
「無理じゃないです」
結衣はハンドルを握ったまま言った。
「だって、ああいうの悔しいじゃないですか」
栄治は窓の外を見た。
冬の夕焼けが、住宅街の窓ガラスを赤く染めていた。
「……悔しい、か」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
やがて栄治は、小さく呟いた。
「久しぶりだな。そんなふうに言われたの」
「え?」
「俺のことで怒ってくれるやつ」
結衣は少し照れたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、栄治の胸の奥で、冷え切っていた何かがほんの少しだけ溶けた気がした。




