第一話 門前払いの67歳
第一話 門前払いの67歳
雨が降り出しそうな空だった。
十一月の湿った風が、駅前の古びた商店街を吹き抜けるたび、坂本栄治はコートの襟を少しだけ引き寄せた。右手には擦り切れた茶色の書類鞄。中には年金通知書、預金残高のコピー、住民票、それから何度も折り畳まれた物件情報の紙が入っている。
六十七歳。
その数字を口にするたび、自分の輪郭が急に薄くなる気がした。
駅前の不動産屋「みどりエステート」の自動ドアが開くと、暖房のぬるい空気とコーヒーの匂いが流れてきた。壁には「新生活応援キャンペーン」の文字。春でもないのに、笑顔の若い家族写真が貼られている。
「いらっしゃいませ」
受付の奥から、若い女が顔を上げた。二十代後半くらいだろうか。紺色のカーディガンに名札。三浦結衣、と書かれていた。
「お部屋探しですか?」
「ああ……うん。ひとりで住める安いところをね」
栄治は椅子に腰を下ろした。膝が少し軋む。店内には小さなラジオが流れていて、軽快な音楽がやけに遠く感じた。
「ご希望の家賃とか、エリアはありますか?」
「年金暮らしだから、高くないところで……五万以内かな。駅から遠くてもいい」
結衣は手際よくパソコンを打ち込んでいたが、ふと顔を上げた。
「失礼ですが、ご年齢をお聞きしても?」
「六十七」
一瞬だった。
ほんの一瞬、彼女の指が止まった。
その変化を、栄治は嫌というほど知っていた。
スーパーのレジでも、病院でも、市役所でも。相手が一瞬だけ浮かべる、“ああ、高齢者か”という表情。
「ご家族は……?」
「妻は五年前に死んだ。子どもはいない」
「保証人になれる方は?」
「……いない」
結衣の笑顔がわずかに固くなる。
それでも彼女は取り繕うように笑った。
「少々お待ちくださいね」
奥へ消えていく背中を見送りながら、栄治は自分の手を見た。油にまみれ、鉄を削り、四十年以上働いてきた手だった。爪の隙間には黒ずみが残り、指の関節は太い。
その手が、今では「保証人なし」の一言で値踏みされる。
十分ほど待たされたあと、結衣は戻ってきた。
「申し訳ありません……こちらの物件なんですが、大家さんの意向で高齢の単身者はちょっと……」
「そうか」
「別のところも当たってみますね」
彼女は慌てて紙をめくった。しかし、そのたび眉が曇る。
「こちらも……」
「これもか」
「はい……」
カタカタというキーボードの音だけが響く。
栄治は窓の外を見た。歩道を高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。コンビニ袋をぶら下げた若い男。ベビーカーを押す母親。
みんな、ちゃんと居場所がある顔をしていた。
「……やっぱり、難しいですかね」
ぽつりと結衣が言った。
「俺みたいなのは」
「そんなことありません!」
少し強い声だった。
だが、そのあと彼女は小さく唇を噛んだ。
「ただ……最近、大家さんたちも慎重で」
「孤独死とか、そういうやつか」
結衣は言葉に詰まった。
「ニュースで見るもんな。死んで何ヶ月も気づかれなかったとか」
店内の空気が急に冷えた気がした。
栄治は立ち上がった。
「悪かったな。困らせて」
「いえ! あの、もう少し探せば……」
「いいよ」
鞄を持ち上げる。
その重さが、今日はやけに肩に食い込んだ。
外へ出ると、雨が降り始めていた。
細かい雨だった。
アスファルトの匂いが立ち上り、遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
栄治は駅前のアーケードを歩いた。昼を過ぎているのに腹が減らない。自販機の缶コーヒーを買おうとして、小銭を数えるのをやめた。
節約しなければならない。
頭のどこかで、その言葉がずっと鳴っている。
次に入った不動産屋では、もっと露骨だった。
「保証人なし? あー……ちょっと厳しいですねぇ」
四十代くらいの男が、最初から面倒そうに言った。
「家賃は払えます。年金もある」
「いや、そういう問題じゃなくてですね」
「じゃあ、どういう問題だ」
男は咳払いをした。
「もし部屋で何かあった場合、責任問題になりますから」
「何かって?」
「ですから……」
「死ぬかもしれないってことか」
男は目を逸らした。
「最近多いんですよ。特殊清掃とか。次の入居者も嫌がりますし」
栄治の耳の奥で、血がざわついた。
「俺はまだ働ける」
「え?」
「ボケてもない。歩けるし、自分で飯も食える」
「いや、そういう意味じゃ……」
「だったら何だ」
男は黙った。
沈黙の向こうに、本音が見えた。
老人は嫌だ。
面倒だから。
死ぬから。
臭うから。
栄治は店を出た。
雨は強くなっていた。
駅裏の細い路地を歩くと、古いアパートの軒先から洗濯物が垂れていた。湿ったタオルが風に揺れている。二階の窓からテレビの音。味噌汁の匂い。
どこにでもある生活だった。
だが、その「どこにでも」が、自分にはもう遠い。
安宿に戻るころには靴下まで濡れていた。
四畳半の部屋。薄い布団。壁の染み。隣室から咳払いが聞こえる。
栄治はコンビニのおにぎりを机に置いたが、封を開ける気になれなかった。
部屋が静かすぎた。
ふと、妻の声を思い出す。
『あなた、また工具そのへん置きっぱなし』
『ちゃんと片付ける』
『絶対片付けないでしょ』
笑い声まで浮かんで、栄治は顔を伏せた。
五年前、病院の白いベッドで痩せていった妻の手は、最後には驚くほど軽かった。
あのとき、自分は確かに誰かの夫だった。
今は何だ。
保証人なしの老人。
それだけだ。
窓の外で、電車が通り過ぎる音がした。
栄治はしばらく動かなかった。
やがて、震える息を吐きながら、おにぎりの袋をゆっくり開けた。




