表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老人  作者: かおるこ
1/12

第一話 門前払いの67歳

第一話 門前払いの67歳


 雨が降り出しそうな空だった。


 十一月の湿った風が、駅前の古びた商店街を吹き抜けるたび、坂本栄治はコートの襟を少しだけ引き寄せた。右手には擦り切れた茶色の書類鞄。中には年金通知書、預金残高のコピー、住民票、それから何度も折り畳まれた物件情報の紙が入っている。


 六十七歳。


 その数字を口にするたび、自分の輪郭が急に薄くなる気がした。


 駅前の不動産屋「みどりエステート」の自動ドアが開くと、暖房のぬるい空気とコーヒーの匂いが流れてきた。壁には「新生活応援キャンペーン」の文字。春でもないのに、笑顔の若い家族写真が貼られている。


「いらっしゃいませ」


 受付の奥から、若い女が顔を上げた。二十代後半くらいだろうか。紺色のカーディガンに名札。三浦結衣、と書かれていた。


「お部屋探しですか?」


「ああ……うん。ひとりで住める安いところをね」


 栄治は椅子に腰を下ろした。膝が少し軋む。店内には小さなラジオが流れていて、軽快な音楽がやけに遠く感じた。


「ご希望の家賃とか、エリアはありますか?」


「年金暮らしだから、高くないところで……五万以内かな。駅から遠くてもいい」


 結衣は手際よくパソコンを打ち込んでいたが、ふと顔を上げた。


「失礼ですが、ご年齢をお聞きしても?」


「六十七」


 一瞬だった。


 ほんの一瞬、彼女の指が止まった。


 その変化を、栄治は嫌というほど知っていた。


 スーパーのレジでも、病院でも、市役所でも。相手が一瞬だけ浮かべる、“ああ、高齢者か”という表情。


「ご家族は……?」


「妻は五年前に死んだ。子どもはいない」


「保証人になれる方は?」


「……いない」


 結衣の笑顔がわずかに固くなる。


 それでも彼女は取り繕うように笑った。


「少々お待ちくださいね」


 奥へ消えていく背中を見送りながら、栄治は自分の手を見た。油にまみれ、鉄を削り、四十年以上働いてきた手だった。爪の隙間には黒ずみが残り、指の関節は太い。


 その手が、今では「保証人なし」の一言で値踏みされる。


 十分ほど待たされたあと、結衣は戻ってきた。


「申し訳ありません……こちらの物件なんですが、大家さんの意向で高齢の単身者はちょっと……」


「そうか」


「別のところも当たってみますね」


 彼女は慌てて紙をめくった。しかし、そのたび眉が曇る。


「こちらも……」


「これもか」


「はい……」


 カタカタというキーボードの音だけが響く。


 栄治は窓の外を見た。歩道を高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。コンビニ袋をぶら下げた若い男。ベビーカーを押す母親。


 みんな、ちゃんと居場所がある顔をしていた。


「……やっぱり、難しいですかね」


 ぽつりと結衣が言った。


「俺みたいなのは」


「そんなことありません!」


 少し強い声だった。


 だが、そのあと彼女は小さく唇を噛んだ。


「ただ……最近、大家さんたちも慎重で」


「孤独死とか、そういうやつか」


 結衣は言葉に詰まった。


「ニュースで見るもんな。死んで何ヶ月も気づかれなかったとか」


 店内の空気が急に冷えた気がした。


 栄治は立ち上がった。


「悪かったな。困らせて」


「いえ! あの、もう少し探せば……」


「いいよ」


 鞄を持ち上げる。


 その重さが、今日はやけに肩に食い込んだ。


 外へ出ると、雨が降り始めていた。


 細かい雨だった。


 アスファルトの匂いが立ち上り、遠くで救急車のサイレンが鳴っている。


 栄治は駅前のアーケードを歩いた。昼を過ぎているのに腹が減らない。自販機の缶コーヒーを買おうとして、小銭を数えるのをやめた。


 節約しなければならない。


 頭のどこかで、その言葉がずっと鳴っている。


 次に入った不動産屋では、もっと露骨だった。


「保証人なし? あー……ちょっと厳しいですねぇ」


 四十代くらいの男が、最初から面倒そうに言った。


「家賃は払えます。年金もある」


「いや、そういう問題じゃなくてですね」


「じゃあ、どういう問題だ」


 男は咳払いをした。


「もし部屋で何かあった場合、責任問題になりますから」


「何かって?」


「ですから……」


「死ぬかもしれないってことか」


 男は目を逸らした。


「最近多いんですよ。特殊清掃とか。次の入居者も嫌がりますし」


 栄治の耳の奥で、血がざわついた。


「俺はまだ働ける」


「え?」


「ボケてもない。歩けるし、自分で飯も食える」


「いや、そういう意味じゃ……」


「だったら何だ」


 男は黙った。


 沈黙の向こうに、本音が見えた。


 老人は嫌だ。


 面倒だから。


 死ぬから。


 臭うから。


 栄治は店を出た。


 雨は強くなっていた。


 駅裏の細い路地を歩くと、古いアパートの軒先から洗濯物が垂れていた。湿ったタオルが風に揺れている。二階の窓からテレビの音。味噌汁の匂い。


 どこにでもある生活だった。


 だが、その「どこにでも」が、自分にはもう遠い。


 安宿に戻るころには靴下まで濡れていた。


 四畳半の部屋。薄い布団。壁の染み。隣室から咳払いが聞こえる。


 栄治はコンビニのおにぎりを机に置いたが、封を開ける気になれなかった。


 部屋が静かすぎた。


 ふと、妻の声を思い出す。


『あなた、また工具そのへん置きっぱなし』


『ちゃんと片付ける』


『絶対片付けないでしょ』


 笑い声まで浮かんで、栄治は顔を伏せた。


 五年前、病院の白いベッドで痩せていった妻の手は、最後には驚くほど軽かった。


 あのとき、自分は確かに誰かの夫だった。


 今は何だ。


 保証人なしの老人。


 それだけだ。


 窓の外で、電車が通り過ぎる音がした。


 栄治はしばらく動かなかった。


 やがて、震える息を吐きながら、おにぎりの袋をゆっくり開けた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ