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老人  作者: かおるこ
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第17話 Honesty

第17話 Honesty


 夜十一時を過ぎていた。


 ひだまり荘の廊下は静かで、ときどき遠くの部屋からテレビの音がぼんやり漏れてくる。誰かが流しで皿を洗う音。排水管を水が落ちていく音。


 栄治は風呂上がりだった。


 洗面所の鏡の前で、少し照れ臭そうに新しいパジャマの襟を直す。


 イオンで買った紺色の半袖パジャマ。


 細い白ストライプが入っていて、生地はさらっとしている。胸ポケットがちゃんとついているだけで、不思議と「生活してる人」に見える。


「……似合わねえな」


 口ではそう言う。


 だが少し嬉しかった。


 これまで寝る時は、よれた綿Tシャツにハーフパンツばかりだった。楽だし、汗疹にもいい。


 でも図書館で会った、あの美しい老人を思い出したのだ。


 白い麻シャツ。


 静かな姿勢。


 背筋。


 あの人なら、ちゃんとパジャマを着て眠るんじゃないか。


 そんなことを考えてしまった。


 六畳間へ戻る。


 座卓の上には、飲みかけの麦茶と、小さなノートパソコン。


 栄治は扇風機を弱にして、パソコンを開いた。


 画面の中に、若い頃のBilly Joelが映る。


 ピアノの前。


 少し憂いのある顔。


 そして静かに始まる、Honesty。


「あー……」


 栄治は息を吐いた。


 二十歳だった。


 この曲が流行っていた頃、自分は二十歳だった。


 工場へ勤め始めたばかりで、毎日が油の匂いだった。灰色の作業服。鉄粉。先輩の怒鳴り声。


 寮の狭い部屋には、小さなラジカセしかなかった。


 夜になると、同期の奴が煙草を吸いながら洋楽をかけた。


『坂本、お前ビリー・ジョエル知らねえの?』


『知らん』


『だせえなあ』


 そんなことを言われた。


 栄治は英語なんてほとんど分からなかった。


 だが、この曲だけは妙に好きだった。


 ピアノの音が、夜に合った。


 大人の歌という感じがした。


 歌詞の意味なんか、当時はほとんど考えていなかった。


 ただ、


“Honesty is such a lonely word”


 という響きだけ、なぜか耳に残っていた。


 正直というのは、そんなに寂しいものなのか。


 二十歳の栄治には分からなかった。


 今は少し分かる。


 栄治は麦茶を飲んだ。


 氷がからん、と鳴る。


 画面の字幕をゆっくり読む。


 正直さ。


 本当のこと。


 誠実さ。


 そんなものが欲しい、という歌。


「若い頃と、全然違って聞こえるな……」


 ぽつりと呟く。


 あの頃は恋愛の歌だと思っていた。


 今聴くと、人間そのものの歌みたいに聞こえる。


 嘘をつかずに生きる難しさ。


 本音を言えない孤独。


 それでも、誰かに本当のことを言ってほしい気持ち。


 栄治はパジャマの膝を見下ろした。


 ちゃんとした格好をして、ちゃんとした音楽を聴いている。


 それだけなのに、少し背筋が伸びる。


 玄関がこんこんと鳴った。


「坂本さん?」


 結衣だった。


「おう」


 ドアを開けると、結衣が目を丸くする。


「えっ」


「なんだ」


「……パジャマ?」


「イオンで買った」


「すごい、ちゃんとしてる」


「だから何だその反応」


 結衣は笑いながら部屋へ入った。


 今日は白いTシャツに黒いワイドパンツ姿だった。髪はひとつにまとめている。


「何聴いてたんです?」


「ビリー・ジョエル」


「あ、また洋楽」


「Honesty」


「どんな歌なんです?」


 栄治は少し考える。


「……本当のことを言うのって難しい、みたいな歌かな」


「へえ」


「若い頃は分からなかった」


「今は?」


「今は、わかる」


 結衣は座卓の前に座った。


 パソコンから流れるピアノの音が、静かな部屋に広がる。


「坂本さんって」


「ん?」


「嘘つかなそうですけどね」


 栄治は苦笑した。


「つくよ」


「そうですか?」


「美代子が病気だった頃、“大丈夫”ばっか言ってた」


 結衣は黙った。


「本当は怖かった。でも言えなかった」


「……うん」


「夫だからな。しっかりしなきゃと思った」


 扇風機が首を振る。


 パジャマの袖が、風で少し揺れた。


「でもさ」


 栄治は小さく笑う。


「本当のことって、言われる側もしんどい時あるだろ」


「ありますね」


「だから人間、ちょっとずつ嘘つくんだよな」


 結衣はしばらく曲を聴いていた。


 それからぽつりと言う。


「でも坂本さん、今ちゃんと言えてますよ」


「何を」


「怖かったって」


 栄治は少し黙った。


 若い頃、こんな話を誰かにする男になるとは思わなかった。


 二十歳の自分は、未来が無限にあると思っていた。


 工場帰りに煙草を吸って、洋楽を気取って聴いていた。


 まさか六十七歳になって、一人暮らしのアパートでパジャマ姿でこの曲を聴きながら、妻のことを思い出すなんて。


 そんな人生、想像もしなかった。


「変なもんだな」


「何がです?」


「年取ると、歌詞が分かる」


 結衣は笑った。


「いいことじゃないですか」


「そうか?」


「二回楽しめる」


「前も同じこと言ってたな」


「気に入ってるんです」


 二人で笑う。


 その笑い声は小さかったが、どこか温かかった。


 結衣が帰ったあと、栄治はもう一度曲を最初から流した。


 暗い部屋。


 扇風機。


 新しいパジャマ。


 窓の外では、ひだまり荘の灯りがぽつぽつ残っている。


 正直というのは、確かに寂しい言葉かもしれない。


 だが今夜、栄治は少しだけ、自分に正直だった気がした。



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