第16話 この人、死んじゃったのか
第16話 この人も、死んじゃったのか
夜だった。
昼間の熱がまだ部屋に残っている。
ひだまり荘の古いエアコンは、ぶおお、と低く唸りながら生ぬるい風を吐いていた。栄治は畳の上に胡坐をかき、首筋をタオルで拭く。
風呂上がりだった。
今日は珍しく、ちゃんと湯船に浸かった。
汗疹が痒くて、熱い湯を肩までかぶると少し落ち着いたのだ。
白いランニングシャツに、紺のステテコ。扇風機の風で膝の毛が揺れる。
夕飯は、鯵の開きだった。
焼き網の上でじゅうじゅう脂を落としながら焼いた。冷奴には刻み葱と生姜を乗せた。小松菜のおひたしもある。
最近にしては、かなりちゃんとしている。
「いただきます」
一人で言って、一人で食べる。
窓の外では、誰かがベランダで風鈴を鳴らしていた。
ちりん。
ちりん。
その音を聞きながら、栄治は小さな卓上ラジオのスイッチを入れた。
雑音。
少しダイヤルを回す。
途端に、聞き覚えのあるイントロが流れた。
「おっ……」
栄治は顔を上げた。
ベースの音。
少し気怠いリズム。
そして、あのしゃがれた声。
ダンシング・オールナイトだった。
「あー……懐かしいな」
思わず笑う。
DJが曲紹介をしている。
「今夜は夏の懐メロ特集です。続いては、もんた&ブラザーズ――」
そして、さらりと言った。
「ボーカルのもんたよしのりさんは昨年亡くなられました」
栄治の箸が止まった。
「……死んだのか」
しばらく、ラジオを見つめる。
歌声は昔と変わらない。
しゃがれていて、少し不良っぽくて、妙に色気がある。
なのに、本人はもういない。
「この人も、死んじゃったのか……」
最近、そんなことばかりだ。
テレビをつけても。
新聞を開いても。
『〇〇さん死去』
『昭和を代表する――』
そんな文字ばかり目につく。
若い頃、自分よりずっと“大人”に見えていた人たちが、どんどんいなくなる。
そして気づけば、自分がその年齢に近づいている。
いや。
もう、とっくに近い。
栄治は麦茶を飲んだ。
氷がからん、と鳴る。
この曲が流行った頃、自分は二十一だった。
まだ髪も真っ黒で、腹も出ていなかった。
機械メーカーへ就職して二年目。
毎日油臭い作業着で働いていた。
灰色の工場。
鉄の匂い。
旋盤の音。
先輩に怒鳴られながら図面を抱えて走った。
給料日前は金がなくて、社員食堂のうどんばかり食べていた。
それでも、未来があると思っていた。
金はなくても、若かった。
金曜の夜になると、同期と飲みに行った。
煙草の煙で白く霞んだスナック。
赤いソファ。
カウンターに並ぶ水割り。
誰かが酔っぱらって、この曲を歌っていた。
『坂本ぉ! お前も歌えよ!』
『無理ですよ! こんな声出ませんって!』
『若いんだから勢いで行け!』
馬鹿みたいに笑っていた。
終電を逃して、始発まで喫茶店にいたこともある。
その頃、美代子と出会った。
駅前の本屋で働いていた。
白いブラウスに、紺のスカート。
細い手首に銀色の腕時計をしていた。
『坂本さんって、煙草臭いですよね』
『工場なんで』
『関係あります?』
笑うと、少し目尻が下がる人だった。
栄治は、畳の上でぼんやり天井を見た。
扇風機が回っている。
ラジオからは、まだ歌が流れている。
昔は、“懐メロ”なんて年寄りのものだと思っていた。
だが今は、自分の青春そのものが懐メロ側へ行ってしまった。
それが妙に寂しかった。
翌朝。
ラジオ体操の帰り、公園の隅のベンチで小野寺と缶コーヒーを飲んでいた。
朝なのに暑い。
空気がもうぬるい。
栄治はグレーの綿Tシャツを着ていた。首元が少し伸びている。下はベージュのチノパン。汗で背中が張り付いて気持ち悪い。
「昨日さ」
栄治は缶を開けながら言った。
「ダンシング・オールナイト流れてた」
「あー!」
小野寺が笑う。
「流行ったなあ!」
「二十一の頃だ」
「俺二十八だった」
「年上だもんな」
「スナックでよく歌われてた」
「いたいた、無理やりしゃがれ声出すやつ」
二人で笑った。
朝日が公園の木々を照らしている。
ラジオ体操帰りの老人たちが、だらだら散っていく。
「もんたよしのり、死んだんだって」
小野寺は「あー……」と小さく言った。
「最近、多いな」
「ほんとにな」
「知ってる人がどんどん死ぬ」
少し沈黙が落ちる。
蝉の声だけがうるさい。
「なんかさ」
小野寺がぽつりと言う。
「昔見てた“大人”が死ぬと、自分の番が近づく感じする」
「するな」
「嫌だなあ」
「嫌だ」
栄治は苦笑した。
「でも俺らも、若いやつから見たら“昔の人”なんだろうな」
「完全にな」
「昭和だしな」
「昭和だ」
二人でまた笑った。
その笑い声が、湿った朝の空気にふわっと溶ける。
昼過ぎ、栄治は図書館へ向かった。
冷房の効いた閲覧室には、静かな空気が流れている。
新聞を読んでいる老人。
居眠りしている老人。
文庫本を抱えた学生。
栄治は、あの“美しい老人”を見つけた。
今日は白い麻のシャツだった。
腕まくりをして、本を読んでいる。
相変わらず綺麗だった。
姿勢がいい。
栄治は思わず話しかける。
「暑いですね」
老人は顔を上げ、微笑んだ。
「ええ。命に関わる暑さです」
「ほんとですよ」
「昔は、夕方になると涼しかったんですがね」
「そうでした」
老人は本を閉じた。
「最近、昔好きだった人の訃報ばかりです」
「……わかります」
「寂しいですね」
栄治は少し考えてから言った。
「でも、歌って残りますよね」
老人はゆっくり頷いた。
「本もそうです」
その言葉が、妙に胸に残った。
夜。
またラジオをつける。
窓を少し開けると、ぬるい風が入ってきた。
どこかの部屋でテレビの笑い声がする。
流しで皿を洗う音。
誰かが咳をする音。
ひだまり荘には、ちゃんと人が生きている音がしていた。
ラジオから、また古い曲が流れる。
栄治は畳に寝転がりながら思う。
人は死ぬ。
歌手も。
俳優も。
昔憧れた人たちも。
そして、自分も。
だけど曲が流れると、その頃の空気まで戻ってくる。
二十一の夏。
煙草臭いスナック。
汗だくの作業着。
未来が無限にあると思っていた若い自分。
そして、美代子の笑い声。
「……悪くないな」
栄治はそう呟き、目を閉じた。
しゃがれた歌声が、蒸し暑い夜をゆっくり流れていった。




