第15話 ちょこっとずつ食べたい
第15話 ちょこっとずつ食べたい
ラジオ体操の帰り道だった。
朝七時を過ぎたばかりなのに、もう空気がぬるい。公園の砂埃が湿気を含んで、むわっと鼻につく。栄治は首にかけたタオルで汗を拭いた。
今日も、第一体操の最後で少し息が切れた。
「坂本さん、今日はちゃんと腕上がってましたねえ」
隣を歩くのは、同じラジオ体操組の小野寺だった。七十四歳。細身で、いつも白いキャップを被っている。今日は薄い水色のポロシャツに、くたびれたグレーのジャージ姿だった。
「毎日やってりゃ、ちょっとは慣れる」
「俺なんか、帰ったらまた横になるよ」
「わかる」
二人で笑う。
公園の出口近くで、いつもの老人たちが立ち話をしていた。
「最近キャベツ高いねえ」
「卵もよ」
「スーパー三軒回ったら疲れちゃってさ」
そんな会話が、朝の空気に混じっている。
栄治は耳を傾けながら、自転車を押した。
「結局さ」
小野寺がぼそっと言う。
「年取ると、食うことが一番大変だな」
「……ああ」
「若い頃は適当でも平気だったのに」
「カップ麺とか食ってもな」
「今やると体に来る」
蝉がじわじわ鳴き始める。
小野寺は続けた。
「でも自炊って、結局高いんだよ」
「そうなんだよ」
栄治は思わず強く頷いた。
「調味料買っただけで一万円飛んだ」
「だろ?」
「びっくりした」
「一人分って難しいんだよなあ」
小野寺は笑った。
「豆腐一丁でも多い時ある」
「わかる」
「煮物なんか作ったら三日同じ味」
「それ」
二人でまた笑った。
だが、その笑いには少し疲れが混じっていた。
ひだまり荘へ戻る途中、栄治はスーパーへ寄った。
朝のスーパーは冷房が強い。
青果コーナーの匂い。魚売り場の生臭さ。惣菜コーナーから漂う揚げ油の匂い。
栄治はカゴを持ったまま、しばらく立ち尽くした。
小松菜百九十八円。
茄子三本百五十円。
鮭一切れ二百八十円。
「うーん……」
頭の中で計算する。
年金。
家賃。
電気代。
病院代。
この前、結衣に見せてもらった生活保護の資料も思い出した。
住宅扶助。
生活扶助。
医療費。
数字だけ見れば、自分の年金生活とそう変わらないようにも見える。
だが医療費が違う。
脳梗塞の薬。
血圧。
検査。
通院。
それだけで、じわじわ削られていく。
「結局、食費削るしかねえんだよな……」
ぽつりと呟く。
すると横から声がした。
「また難しい顔してますね」
結衣だった。
今日は薄いカーキ色のワンピースにスニーカー姿で、髪を後ろでまとめている。首に小さな汗が光っていた。
「三浦さん」
「何見てるんです?」
「値段」
「みんな見ますよ」
「最近、食うことばっか考えてる」
結衣はカゴを覗いた。
「今日はちゃんとしてますね」
「鮭と豆腐とトマト」
「健康」
「でも高い」
「高いですよねえ」
二人で惣菜コーナーへ移動する。
小さなパックが並んでいた。
ひじき煮。
きんぴら。
ほうれん草胡麻和え。
少しずつ入って、百円台。
栄治はそれをじっと見た。
「こういうのでいいんだよな、本当は」
「うん」
「ちょこっとずつ、色々」
「わかります」
「でも、ちょこっとが高い」
「そうなんですよね」
結衣は苦笑した。
「自炊だと量が多くなるし」
「同じもの三日食う」
「最後のほう、修行みたいになりますよね」
栄治は吹き出した。
「あるあるだな」
結衣は少し真面目な顔になった。
「最近、配食サービス使う人増えてますよ」
「金ある人だろ」
「まあ、多少余裕ある人ですかね」
「毎日違うもん出てくるんだろ?」
「栄養士監修とか」
「いいなあ……」
思わず本音が出た。
栄治は惣菜パックを見つめる。
人参。
ごぼう。
ひじき。
ほんの少しずつ。
それでいいのだ。
山盛りじゃなくていい。
色んな味を、少しだけ食べたい。
それって、そんな贅沢なんだろうか。
帰宅すると、大河内が廊下で扇風機に当たっていた。
ランニングシャツにステテコ姿で、うちわをぱたぱたしている。
「暑いな!」
「暑いですね」
「坂本さん、スーパー帰りか」
「ええ」
レジ袋を持ち上げる。
「また健康そうなもん買ってるな」
「最近ちょっとな」
大河内は頷いた。
「年取ると、食ったもので体ができるの分かるようになる」
「若い頃は無茶できたのに」
「今やると、次の日動けん」
栄治は部屋へ戻った。
エアコンをつけ、シャツをぱたぱたさせる。
汗で背中が貼りついていた。
冷蔵庫を開ける。
小さな庫内には、豆腐、卵、麦茶、昨日の味噌汁。
そこへ今日の惣菜を並べる。
なんだか少しだけ豊かに見えた。
夕飯は鮭を焼いた。
トマトを切り、冷奴に生姜を乗せる。
ひじき煮も小皿へ。
炊きたてのご飯の湯気が立つ。
栄治は座卓に並んだ皿を眺めた。
量は少ない。
だが、色がある。
黒いひじき。
赤いトマト。
白い豆腐。
鮭の橙色。
「……悪くないな」
一人で呟く。
窓の外では、誰かが風鈴を吊ったらしく、ちりん、と音がした。
栄治は味噌汁を啜る。
熱い。
だが、その熱さが妙にほっとした。
ちょこっとでいい。
色んなものを食べたい。
それは贅沢じゃなくて。
たぶん、人間らしく暮らしたいってことなんじゃないか。
栄治はそう思いながら、ゆっくり鮭をほぐした。




