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老人  作者: かおるこ
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第14話 調味料だけで一万円

第14話 調味料だけで一万円


 「高っ」


 栄治はレジの表示を見て、思わず声を漏らした。


 九千八百七十六円。


 スーパーのレジ係の若い男が、「袋お分けしますか」と事務的に聞いている。


「あ、いや……大丈夫です」


 栄治は財布から一万円札を出した。


 ぺらり、と薄い紙が消えていく。


 買ったのは贅沢品ではない。


 醤油。


 味噌。


 みりん。


 料理酒。


 サラダ油。


 ごま油。


 塩。


 砂糖。


 胡椒。


 だしの素。


 マヨネーズ。


 ケチャップ。


 チューブの生姜とにんにく。


 それに米五キロ。


 たったそれだけだ。


 なのに、会計はほぼ一万円だった。


「自炊って安いんじゃなかったのかよ……」


 レジ袋がずしりと重い。


 外へ出ると、夕方の熱気がむわっとまとわりついた。アスファルトがまだ昼の熱を抱えている。


 自転車の前かごに荷物を積みながら、栄治はため息をつく。


 汗が背中を伝った。


 ひだまり荘へ戻る途中、コンビニの前を通る。


 のぼり旗に、


『唐揚げ弁当 498円』


 と書いてある。


「これでいいじゃねえか……」


 思わず呟いた。


 弁当なら、温めればすぐ食える。


 皿も汚れない。


 洗い物も少ない。


 そもそも、一人なのだ。


 誰に栄養管理されるでもない。


 なのに最近、自炊をしようとしている自分がいる。


 スーパーで小松菜の値段を見て、安いほうを選んだりしている。


 前なら絶対やらなかった。


 部屋へ戻ると、むっとした空気が迎えた。


 栄治はすぐエアコンをつける。


 ぶおん、と古い音がする。


 流し台に調味料を並べる。


「なんか、ちゃんとしてる家みたいだな」


 醤油のボトル。


 新品の味噌パック。


 透明な油。


 だが、その整った感じが、逆に少し疲れた。


 冷蔵庫を開ける。


 中には卵と豆腐と納豆、それから半額の鯵の干物。


 栄治はしばらく黙って眺めていた。


「……腹減った」


 だが作る気力が湧かない。


 味噌汁を作る。


 野菜を切る。


 魚を焼く。


 その手順を頭で考えただけで、少し面倒になった。


 結局、冷奴と納豆だけ先に食べ始める。


 そこへ、玄関がこんこん鳴った。


「坂本さんー」


 結衣だった。


「どうした」


「これ、おすそ分け」


 小さなタッパーを差し出してくる。


「肉じゃが?」


「作りすぎました」


「ほんとか?」


「半分ほんとです」


 結衣は部屋を覗き込み、流し台の調味料を見た。


「あ、ちゃんとしてる」


「今日、一万円飛んだ」


「え?」


「調味料で」


 結衣は吹き出した。


「あー、わかる!」


「全然安くねえぞ自炊」


「最初が高いんですよ」


「詐欺みたいな話だな」


「でも長い目で見れば安いですって」


「その“長い目”の前に面倒になる」


 結衣は笑いながら部屋へ入った。


 今日は白いTシャツにデニム姿で、髪を後ろでまとめている。コンビニ帰りらしく、小さなアイスを持っていた。


「坂本さん、ちゃんと作ってます?」


「最近はな」


「偉い」


「褒めるな」


「何作るんです?」


「味噌汁と魚」


「健康的」


「でもなあ」


 栄治はテーブルに肘をついた。


「一人分って難しいんだよ」


「わかります」


「キャベツ一玉買ったら、多すぎる」


「あー」


「豆腐も賞味期限あるし」


「ネギもしなしなになりますよね」


「そうそう」


 二人で笑う。


 栄治はふと訊いた。


「三浦さんは自炊するのか」


「しますよ」


「ちゃんとしてそうだな」


「全然ですよ。疲れた日は卵かけご飯だけとか」


「若いのに」


「坂本さん、若い人をなんだと思ってるんですか」


 結衣は肉じゃがの蓋を開けた。


 甘辛い醤油の匂いが広がる。


 じゃがいも、人参、玉ねぎ、しらたき。牛肉も少し入っている。


「うまそうだな」


「食べます?」


「いただく」


 栄治は小皿によそった。


 一口食べる。


 柔らかいじゃがいもが舌の上で崩れた。


「あー……」


「どうです?」


「人の作った飯って感じする」


 結衣が少し笑った。


「なんですか、それ」


「いや、一人だとさ」


 栄治は箸を止めた。


「食えればいい、になるんだよ」


「……うん」


「でも誰かが作った飯って、“食べろよ”って感じがする」


 結衣は黙って頷いた。


 エアコンの風がカーテンを揺らしている。


 外では蝉が鳴き始めていた。


「でも坂本さん」


「ん?」


「前より全然いいですよ」


「何が」


「生きるの」


 栄治は苦笑した。


「大げさだな」


「だって前、カップ麺ばっかだったんでしょ?」


「まあ」


「今、小松菜とか食べてるじゃないですか」


「小松菜で褒められる人生か……」


「いいじゃないですか」


 結衣はアイスの袋をぱきっと開けた。


「人って、急に健康になったりしませんよ」


「そうか?」


「たぶん、“ちょっとマシ”を続けるしかないんです」


 栄治はその言葉を聞きながら、肉じゃがをもう一口食べた。


 温かかった。


 味噌と砂糖の甘い匂いが鼻に抜ける。


 ふと思う。


 一万円の調味料は高かった。


 確かに高かった。


 でも、この味噌や醤油で、明日また何か作るのだ。


 そう考えると、少しだけ未来みたいなものがある。


 栄治は立ち上がり、冷蔵庫から鯵を取り出した。


「よし」


「作るんですか?」


「ああ」


「急にやる気」


「せっかく味噌買ったからな」


 フライパンに油を引く。


 じゅう、と音が鳴る。


 結衣が笑った。


「ちゃんとしてきましたね、坂本さん」


「まだ一万円分働いてもらわんとな」


 部屋の中に、焼ける魚の匂いがゆっくり広がっていった。




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