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老人  作者: かおるこ
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第13話 六十七歳という数字

第13話 六十七歳という数字


 その記事を読んだのは、図書館の新聞コーナーだった。


 冷房の風が足元を這うように流れていて、外の蒸し暑さが嘘みたいだった。湿ったシャツが少しずつ乾いていく。


 栄治は老眼鏡を押し上げ、新聞の小さな文字を追った。


『未婚男性の死亡年齢中央値は約67歳』


 その数字のところで、視線が止まった。


「……六十七」


 声が漏れる。


 今の自分の年齢だった。


 周囲では新聞をめくる音がしている。誰かが小さく咳をした。遠くで司書の女性が本を戻す台車の音が、ごろごろ響く。


 だが栄治には、その数字だけが妙に大きく見えた。


 六十七。


 ここまでなのか。


 記事には、食生活の乱れだとか、運動不足だとか、病院へ行かない傾向だとか、色々書いてあった。


 そんなこと、言われなくても分かっている。


 分かっているが。


「嫌な数字だな……」


 栄治は新聞を畳んだ。


 窓際の席へ移動する。


 外では蝉が鳴いていた。白く光る歩道を、親子連れが歩いている。


 六十七。


 そこを越えたら、自分は「得した側」なのだろうか。


 そんな考え方は変だと思う。


 だが、頭から離れなかった。


「坂本さん?」


 顔を上げると、結衣が立っていた。


 今日は薄いベージュのブラウスに黒いパンツ姿だった。手に返却本を抱えている。


「おう」


「珍しいですね、難しい顔して」


「元々こういう顔だよ」


「またまた」


 結衣は向かいに座った。


「何読んでたんです?」


「新聞」


「政治?」


「寿命」


「え?」


 栄治は新聞を指で叩いた。


「独身男は六十七くらいで死ぬんだと」


 結衣は少し黙った。


「ああ……そういう記事」


「俺、今ちょうど六十七」


「でも中央値でしょ?」


「中央値でも嫌なもんは嫌だ」


 栄治は笑ったが、自分でも乾いた声だと思った。


 結衣は新聞を覗き込む。


「でも、坂本さん、ちゃんとご飯食べてるじゃないですか」


「最近な」


「ラジオ体操も行ってるし」


「最近な」


「前より全然いいですよ」


 栄治は窓の外を見た。


「美代子が死んでからしばらく、ひどかったぞ」


「……」


「毎日カップ麺だった」


「え」


「あと食パン」


「栄養ないじゃないですか」


「腹は膨れる」


 結衣が眉をしかめる。


「病院も行かなかったしな。脳梗塞で倒れるまで」


「なんで行かなかったんです?」


「面倒だから」


「男の人ってそれ言いますよねえ」


「病院ってさ」


 栄治は言った。


「行くだけで、“老いた”感じするんだよ」


 結衣は少し黙った。


 図書館の空気は静かだった。


 冷房の音だけが低く唸っている。


「でも」


 結衣がぽつりと言う。


「生きてると、面倒なこと増えますよね」


「増える」


「ご飯とか洗濯とか病院とか」


「全部面倒」


「でも、誰かいるとやるんですよね」


 栄治はその言葉に引っかかった。


「……ああ」


 美代子がいた頃は、もっとちゃんとしていた。


 朝になれば味噌汁の匂いがした。


 シャツにはアイロンがかかっていた。


「野菜食べなさい」


 そう言われて、ぶつぶつ言いながら食べていた。


 今は誰も言わない。


 だから、どんどん崩れていく。


 食事も。


 生活も。


 たぶん、気持ちも。


 帰り道、栄治はスーパーへ寄った。


 冷房の効いた店内には、夕方の買い物客が増え始めている。


 惣菜コーナーで足を止めた。


 唐揚げ弁当。


 焼きそば。


 コロッケ。


 どれも茶色い。


「楽なんだよな……」


 思わず呟く。


 すると後ろから声がした。


「茶色ばっかですね」


「うおっ」


 振り返ると大河内だった。


 グレーのポロシャツに、ステテコみたいな半ズボン姿で、キャベツを抱えている。


「脅かすなよ」


「坂本さん、野菜食わないと死ぬぞ」


「新聞にも書いてあった」


「なんの?」


「独身男は早死にするって」


「あー」


 大河内は鼻を鳴らした。


「そんなもん、昔からだ」


「身も蓋もないな」


「うちの兄貴も独身だったけどな」


 大河内はトマトを選びながら言った。


「好きなもんばっか食って、病院嫌いで、六十五で死んだ」


「……」


「誰にも迷惑かけたくない、が口癖だった」


 栄治は黙った。


 大河内は続ける。


「でもな、死んだあと大迷惑だった」


「おい」


「孤独死なんて、だいたいそうだ」


 店内放送で特売の案内が流れる。


 子どもが走り回り、母親に叱られている。


 生臭い魚売り場の匂いが漂ってきた。


 栄治はカゴに、小松菜と豆腐を入れた。


 それから鮭の切り身。


「お」


 大河内が笑う。


「今日はちゃんとしてる」


「うるさい」


「偉い偉い」


「子ども扱いするな」


 その夜、栄治は小松菜を茹でた。


 鰹節をかけ、醤油を少し垂らす。


 鮭を焼くと、じゅう、と脂の弾ける音がした。


 味噌汁には豆腐とわかめを入れた。


 テーブルに並べると、なんだかちゃんとした食卓に見えた。


 栄治は一人で「いただきます」と言った。


 窓の外はもう暗い。


 ひだまり荘のあちこちの部屋に灯りがついている。


 テレビの音。


 笑い声。


 咳払い。


 誰かが流しで皿を洗う音。


 栄治は焼き鮭をほぐしながら、ふと思った。


 六十七歳。


 そこが終わりでも、おかしくない数字。


 だけど今日、自分は図書館へ行って、スーパーへ行って、小松菜を茹でた。


 ラジオ体操だって、明日もたぶん行く。


 そういう小さなことを、ひとつずつ積み上げるしかないのかもしれない。


「……まあ、もうちょい生きるか」


 誰に言うでもなく呟く。


 味噌汁の湯気が、静かに眼鏡を曇らせた。




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