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老人  作者: かおるこ
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第12話 でれーとして、節目がない

第12話 でれーとして、節目がない


 六月の終わりだった。


 朝から空気が湿っていて、ひだまり荘の廊下を歩くだけで肌がぺたつく。栄治は首筋を指で掻いた。汗疹ができかけている。小さなぷつぷつが熱を持っていて、じっとり痒い。


「うー……」


 洗面所の鏡の前で唸る。


 今日も結局、例のくたびれたTシャツを着ていた。白だったはずなのに、何度も洗ううちに灰色っぽくなっている。首まわりは少し伸び、胸元もでろんとしていた。


 綿百パーセント。


 柔らかくて、汗を吸って、楽だった。


 楽なのだが。


「……なんか、だらしねえな」


 鏡の中の自分に言う。


 だが着替える気にはならない。


 暑いのである。


 新しく買った化繊のTシャツは、確かにひんやりする。けれど、なんとなく落ち着かなかった。つるつるして、自分の皮膚じゃないみたいなのだ。


 栄治はため息をつき、ベージュの綿パンを履いた。膝が少し出ている。


 昼前、自転車で図書館へ向かった。


 冷房の効いた図書館は、夏になると特にありがたい。古い紙の匂いと静けさが、栄治は好きだった。


 自動ドアが開く。


 ひやりとした空気が頬を撫でた。


「ああ……」


 思わず声が漏れる。


 新聞コーナーには老人たちが並んでいた。誰かが小さく咳払いをする。ページをめくる乾いた音がする。


 栄治は文庫本の棚をゆっくり歩いた。


 司馬遼太郎。


 山本周五郎。


 藤沢周平。


 指先で背表紙を撫でる。


 すると、ふと視界の端に、一人の老人が入った。


 窓際の席に座っている。


 七十代くらいだろうか。


 白髪は綺麗に整えられていて、細い銀縁眼鏡をかけている。紺と緑の細かなチェックの半袖シャツ。灰色のスラックス。革のサンダル。


 特別高価なものではない。


 だが、妙に品があった。


 姿勢だろうか。


 それとも、服のサイズ感だろうか。


 本を読む横顔が静かで、まるで昔の文学青年が、そのまま老いたみたいだった。


 栄治は思わず見入ってしまった。


 老人はふと顔を上げ、栄治と目が合った。


「こんにちは」


 柔らかい声だった。


「あ、どうも」


 栄治は慌てて頭を下げる。


「暑いですねえ」


「ええ、もうだめですね」


 老人は少し笑った。


「昔はこんな暑さじゃなかった」


「ほんとですよ」


「冷房がなかったら死にます」


「わかります」


 二人で小さく笑う。


 老人の笑い方まで綺麗だった。


 なんなんだろうな、この人。


 栄治は妙に気になった。


 本を借りて帰ろうとした時、入口横の大きなガラスに自分の姿が映った。


 そこで、はっとした。


 肩が落ちている。


 Tシャツは首がよれて、胸元が少し波打っている。


 腹も出ている。


 髪もなんだかぼさぼさだった。


「……でれーとしてる」


 口から出た。


 節目がない。


 全体がふにゃっとしている。


 あの老人は、別におしゃれではない。だが、どこかに線があるのだ。襟なのか、姿勢なのか、アイロンなのか。


 自分には、それがない。


 図書館を出ると、むっとした熱気がまとわりついた。


 汗がじわっと背中に広がる。


「あー、痒い」


 首を掻きながら自転車を漕ぐ。


 そのまま、近所のワークマンへ向かった。


 店内は明るい蛍光灯の光で、作業服や安全靴がずらりと並んでいる。冷房が効いていて、少し油っぽい新品の布の匂いがした。


「いらっしゃいませー」


 若い店員が声を張る。


 栄治は機能性Tシャツの棚を見た。


 派手なロゴ。


 速乾。


 冷感。


 氷撃冷感(R)−10℃。


「……すごい名前だな」


 値札を見る。


 五百八十円。


「安っ」


 思わず声が出た。


 黒とネイビーと薄いグレーを一枚ずつ手に取る。パンツも一本見る。ストレッチ素材の、軽いものだ。


「こんな安いのか」


「最近売れてますよ」


 店員が話しかけてきた。


「涼しいですし」


「へえ」


「お父さんくらいの方、よく買います」


 お父さん。


 そう呼ばれる年齢か、と栄治は思う。


 会計は全部で三千数百円だった。


 レジ袋の中の新品の服は、しゃりしゃり音を立てた。


 帰り道、少し嬉しかった。


 これでちょっとは、あの図書館の老人みたいになれるだろうか。


 ひだまり荘へ戻ると、大河内がじょうろで植木に水をやっていた。


「おう、坂本さん」


「どうも」


「買い物か」


「服ですよ」


「へえ、珍しいな」


 大河内は笑った。


「なんだ、彼女でもできたか」


「いませんよ、そんなもん」


「でも、身なり気にするのはいいことだ」


 栄治は袋を見下ろした。


「なんか……だらしなく見えてきて」


「歳取るとな」


 大河内はホースを止めた。


「清潔感って大事になる」


「ですよね」


「若い頃は顔でも勢いでも誤魔化せるけどな。年寄りは、“生活”が出る」


 その言葉が妙に胸に残った。


 夜。


 栄治は新しいTシャツを一度着てみた。


 冷たくて軽い。


 鏡を見る。


 少しだけ、しゃんとして見える。


「おお……」


 だが十分後には脱いでいた。


 暑かった。


 結局、洗いざらしの綿Tシャツをまた着る。


 首元はやっぱり伸びている。


「なんだかなあ……」


 畳の上に座り込み、栄治は麦茶を飲んだ。


 夕飯は鯵の干物、冷奴、トマト。炊きたてのご飯。味噌汁には茄子を入れた。


 窓の外では、どこかの部屋からテレビの音が漏れている。


 風呂上がりなのか、誰かが廊下をぱたぱた歩く音がした。


 栄治は箸を止め、ふと思った。


 あの図書館の老人も、家ではよれよれのシャツを着ているんだろうか。


 だとしたら少し安心する。


 いや。


 でも、やっぱりあの人は綺麗だった。


 姿勢かもしれない。


 生き方かもしれない。


 栄治は冷えたトマトを齧った。


 瑞々しい汁が口に広がる。


 窓から入る夜風はぬるかったが、昼より少しだけ優しかった。




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