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老人  作者: かおるこ
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第11話 ちゃんとちゃんとがめんどくさい

第11話 ちゃんとちゃんとがめんどくさい


 朝の四時五十分に、栄治は目を覚ました。


 窓の外はまだ青黒く、ひだまり荘の廊下も静まり返っている。遠くで新聞配達のバイクがぶるる、と鳴った。薄いカーテンの隙間から、白み始めた空が少しだけ見える。


 布団の中でしばらく天井を見ていた。


 起きなきゃな、と思う。


 ラジオ体操がある。


 最近、毎日行っている。自転車で五分ほどの大きな公園。朝六時半になると、近所の老人たちや犬の散歩の人が集まって、古びたラジカセから流れる音楽に合わせて体を動かす。


 最初は、ただ暇つぶしのつもりだった。


 だが、三日続き、五日続くうちに、「今日も来たね」と声をかけられるようになった。


 それが少し、嬉しかった。


 栄治は布団から起き上がる。畳に足をつけると、ひやりと冷たい。


 六畳一間の空気には、昨夜食べた焼き鮭の匂いがまだ薄く残っていた。小さな流しの横には、洗った茶碗が伏せてある。


 昨日はスーパーで安かったので、鮭と小松菜のおひたしを買った。味噌汁には豆腐を入れた。ちゃんとした夕飯だった。


 なのに。


「……風呂か」


 呟いて、栄治は眉をしかめた。


 お風呂は好きなのだ。


 昔から。


 熱い湯に肩まで浸かって、ふう、と息を吐く瞬間が好きだった。妻の美代子が生きていた頃は、冬になると柚子を浮かべたりした。


 なのに最近、風呂に入るまでが異様に面倒だった。


 掃除はできる。


 洗濯もできる。


 米も炊ける。


 ラジオ体操に行く準備もできる。


 なのに、「風呂に入る」が、途中で引っかかる。


 浴室を見ただけで疲れる。


 栄治はゆっくり立ち上がり、脱ぎ散らかしていた昨日のスウェットを拾った。


 紺色の、少し毛玉のついた上下。肘のあたりが薄くなっている。


「これ、昨日も着たしな……」


 鼻を近づける。


 汗臭いわけではない。だが、なんとなく駄目な気がする。


 ちゃんとしなきゃ。


 ちゃんと洗って。


 ちゃんと着替えて。


 ちゃんとした老人でいなきゃ。


 高齢者は不潔だと思われたくなかった。


 大家の大河内の顔が浮かぶ。


『一人暮らしの年寄りは、だんだん部屋が荒れるんだ』


 以前、ぼそりと言っていた。


 あの言葉が、妙に胸に残っている。


 栄治はため息をつき、洗面所へ行った。


 鏡の中の自分は、思ったより老けて見えた。頬が少しこけ、白髪が増えている。肌もくすんでいる。


「……ちゃんとしろよ、坂本」


 小さく言う。


 だが、服を脱いで浴室に入る気力が湧かない。


 湯をためる。


 体を洗う。


 髪を乾かす。


 それを考えただけで、どっと疲れた。


「……今日はシャワーだけでいいか」


 結局、脇と首筋と足だけを洗った。


 熱めのシャワーが皮膚を打つ。湿気で狭い浴室が曇る。


 昔は風呂なんて、なんとも思わなかったのにな。


 タオルで頭を拭きながら、栄治は妙に情けない気持ちになった。


 外へ出ると、朝の空気はひんやりしていた。


 薄いグレーの長袖Tシャツに、ベージュのチノパン。上からオリーブ色のウインドブレーカーを羽織る。足元は履き慣れたスニーカー。


 自転車を漕ぐと、朝露の匂いがした。


 公園に着く頃には空がだいぶ明るくなっていた。


 ラジオ体操の輪の中に、結衣がいた。


「あ、おはようございます!」


「なんだ、三浦さんも来てたのか」


「最近です。運動不足で」


 結衣は薄い水色のパーカーに黒いジャージ姿だった。髪を後ろで一つに結んでいる。


「坂本さん、皆勤賞じゃないですか」


「そんな大したもんじゃないよ」


「でも、すごいですよ。私、昨日サボりましたもん」


「若いのにだらしないな」


「うるさいなあ」


 二人で笑う。


 ラジオ体操が始まる。


 腕を回すたび、肩がごりごり鳴った。


 隣のおばあさんが「今日は涼しいねえ」と言う。


「ほんとですね」


 草の匂い。土の湿った匂い。鳩の羽ばたく音。


 体を動かしているうちに、少しだけ頭がすっきりした。


 終わったあと、公園脇の小さな売店で缶コーヒーを買った。


 結衣は肉まんを頬張っている。


「坂本さん、朝ごはん食べました?」


「まだ」


「駄目ですよ」


「あとで食うよ」


「何食べるんです?」


「昨日の残りの味噌汁。あと納豆」


「健康的」


「一人だと、それくらいで十分なんだよ」


 結衣は缶のコーンスープを両手で包みながら、ちら、と栄治を見る。


「……ちゃんと眠れてます?」


「え?」


「なんか今日、疲れてる顔してる」


 栄治は少し黙った。


「風呂がな」


「お風呂?」


「入るのが面倒なんだ」


 結衣は笑わなかった。


「入れば気持ちいいのに、そこまで行くのがしんどい」


「わかる気がします」


「三浦さんも?」


「ありますよ。メイク落とすの面倒とか」


「若いのと一緒にするな」


「でも、“やれば五分なのにできない”ってありますよね」


 栄治は缶コーヒーを見つめた。


 朝日がアルミ缶に反射している。


「なんかさ」


「はい」


「最近、“ちゃんと”が多すぎるんだよ」


「……うん」


「ちゃんと飯食って。ちゃんと風呂入って。ちゃんとゴミ出して。ちゃんと人に迷惑かけないようにして」


 喉の奥が少し詰まった。


「ちゃんとしてない老人は、嫌がられるだろ」


 結衣はしばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「でも坂本さん、今日ちゃんと来たじゃないですか」


「え?」


「ここに」


 公園の木々が、朝の風でさわさわ鳴る。


「来るだけでも、結構すごいことだと思います」


 栄治は何も言えなかった。


 遠くでまたラジオ体操の音楽が流れ始める。


 別のグループが始めたらしい。


 空はすっかり明るくなっていた。


 ひだまり荘へ戻る道で、栄治はふと思った。


 今日は、夜にちゃんと風呂へ入れるかもしれない。


 入れなくても。


 まあ、明日でもいいかもしれない。


 自転車の前かごで、スーパーの小さな袋が揺れていた。


 中には、半額の鯖の塩焼き弁当と、きゅうりの浅漬けが入っている。


 朝の風は、少しだけ柔らかかった。




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