土脉潤起 四【乾くもの、残るもの】
坂部理恵が泣いたあと、応接室にはしばらく誰も言葉を置かなかった。
電話の音が遠くで鳴っている。
誰かが受話器を取る。
倉庫の方から台車の音がする。
事務所の奥では、キーボードを叩く音がしている。
会社というものは不思議だ、と六郎は思った。
誰かが泣いていても動く。
誰かが削られていても動く。
誰かが息をするのも苦しくなっていても、伝票は回り、電話は鳴り、荷物は出ていく。
それが悪いのではない。
けれど、それだけでは済まないこともある。
一臣は、坂部が落ち着くまで待った。
急かさなかった。
慰めもしなかった。
ただ、待っていた。
坂部は何度か息を整えようとして、そのたびに失敗した。
それでも、やがて顔を上げた。
「申し訳ありません」
誰に向けた言葉なのか、最初は分からなかった。
一臣にか。
六郎にか。
この場にいない水谷にか。
それとも、自分自身にか。
坂部にも、分かっていないのかもしれなかった。
一臣は静かに言った。
「謝罪は、私にするものではありません」
坂部は、うなずいた。
「分かっています」
野末圭吾は、隣で黙っていた。
顔には、困ったような表情を浮かべている。
深刻な場に同席してしまった者の顔である。
だが六郎には、その足元が見えていた。
細い根のようなもの。
濡れた糸のようなもの。
それが床の下へ伸び、また戻ってくる。
坂部のものは、少しだけ切れた。
けれど、野末のものはまだ切れていない。
むしろ、細く、深く、暗いところへ潜っているように見えた。
一臣は野末を見た。
「野末さん」
「はい」
野末はすぐに返事をした。
「先ほど、坂部さんを止めようとされましたね」
「ええ。あまりご自身を責めすぎるのも、よくないと思いまして」
「そうですね」
一臣はうなずいた。
「自分を責めすぎるのは、よくありません」
野末の表情が少し緩む。
だが、一臣は続けた。
「ただし、それは責任から目を逸らすこととは違います」
野末の笑みが、薄くなった。
「責任、ですか」
「はい」
「私は、別に坂部さんに何かをさせたわけではありません」
その言葉は、早かった。
早すぎた。
六郎はそれを聞いて、胸の奥が少し冷えた。
野末は自分を守ろうとしている。
まだ誰も責めていないのに、もう逃げ道を作っている。
一臣は、資料の横に置いていた薄い封筒へ手を伸ばした。
「三倉さんの社内から、相談がありました」
坂部が顔を上げた。
野末も、一瞬だけ目を動かした。
「相談?」
坂部が言った。
「はい」
一臣は封筒を開け、中の紙を取り出した。
「水谷さんの件です。弊社とのやり取りにも影響が出始めている。けれど、社内では声を上げにくい。そういう相談でした」
野末が、ゆっくりと息を吐いた。
「それは、どなたから」
「それは申し上げられません」
「社内の問題ですよ」
「ええ」
一臣は静かに答えた。
「ですから、私は社内の処分を決める立場ではありません」
「なら」
「ただ、弊社との業務に関わる部分があります。連絡漏れ、伝票処理の責任所在、共有事項の不備。それらが一人の社員の能力不足として扱われているなら、確認する必要があります」
野末は黙った。
一臣は紙へ目を落とした。
「三月九日。共有メールの送信先から水谷さんの名前が外れていた。送信者は坂部さん」
坂部が唇を噛んだ。
「三月十日。電話メモが水谷さんへ渡されず、折り返しが遅れた。電話を受けたのは坂部さん。メモは坂部さんの机に残っていた」
「……はい」
坂部の声は小さかった。
「三月十二日。発注確認の件で、水谷さんが処理したとされた伝票について、実際には別担当の下書きが使われていた」
一臣はそこで顔を上げた。
「この時、野末さんは同席していましたね」
野末は少しだけ肩を動かした。
「同席はしていました。ただ、細かい処理までは」
「細かい処理が分からないなら、なぜ『水谷くんも焦っていたんだと思います』と言えたのですか」
野末は口を閉じた。
坂部が、野末を見た。
その視線に、初めて別のものが混じった。
今まで自分をなだめてくれていた人を見る目ではない。
自分の怒りに水をやっていた人を見る目だった。
野末は笑おうとした。
「場を収めようとしただけです」
「収まりましたか」
一臣が聞いた。
「その場は」
「では、水谷さんは?」
野末は答えない。
「坂部さんは?」
坂部の指が、小さく震えた。
一臣は声を荒げなかった。
「場を収めるという言葉は便利です。波風を立てないように見える。けれど、実際には、波を一人に押しつけているだけのことがあります」
野末は、一臣を見ていた。
目が笑っていない。
「藤原様は、かなり踏み込んだことをおっしゃいますね」
「はい」
一臣は、あっさり認めた。
「踏み込む理由があると判断しています」
「弊社の管理職でもないのに?」
「管理職ではありません」
「では」
「相談がありました。記録もあります。御社との業務に関わる実害も出ています」
一臣は紙をテーブルへ置いた。
「それでも私が何も言わなければ、見て見ぬふりになります」
その言葉に、六郎は少しだけ息を止めた。
見て見ぬふり。
百合が言っていた。
見ている人も、水をやる。
何もしないことで。
一臣はそれを知らない。
知らないはずなのに、同じところへ立っている。
坂部が低く言った。
「野末さん」
野末は坂部を見た。
「私は、あなたに背中を押されていたんですか」
野末は、眉を寄せた。
「そんなつもりはありませんよ」
「でも、私が水谷さんのことを言うと、いつも分かると言ってくれました」
「それは、坂部さんが大変そうだったから」
「私が言いすぎた時も、止めませんでした」
「止めようとはしました」
「違います」
坂部の声が震えた。
「あなたは、私を悪者にしないように見せながら、水谷さんが悪いという形にしていた」
野末の顔から、柔らかさが少しずつ剥がれていく。
「坂部さん、今は混乱しているんですよ」
「そうですね」
坂部はうなずいた。
「混乱しています」
そして、続けた。
「でも、今までよりは、見えています」
その瞬間、坂部の足元にあった黒い根が、さらに一本切れた。
ぶつり。
音はしなかった。
けれど六郎には聞こえたような気がした。
根の切れ目から、黒い水のようなものがにじむ。
それは床へ染みる前に、すっと薄くなった。
百合は何も言わない。
ただ、見ていた。
野末は椅子に座り直した。
「分かりました。私にも、無責任なところがあったかもしれません」
その言い方は、穏やかだった。
反省しているようにも聞こえた。
だが六郎には、その言葉の底が見えなかった。
浅い。
水面だけが揺れている。
その下は、まだ湿っている。
一臣も、それを感じたのかもしれない。
「かもしれません、ではありません」
野末の表情が少し強張った。
「ご自身の言葉が、誰にどう働いたかを見てください」
「……はい」
「坂部さんを守る言葉に見えて、実際には坂部さんの怒りを正当化していた」
野末は黙った。
「水谷さんを庇う言葉に見えて、実際には水谷さんに責任を寄せていた」
「はい」
「そして、あなた自身は、そのどちらからも少し離れた場所にいた」
野末の指が、膝の上で動いた。
「……申し訳ありませんでした」
その言葉は、形だけは整っていた。
坂部はそれを聞いても、何も言わなかった。
一臣も、うなずいただけだった。
「水谷さんを呼んでもらえますか」
坂部が言った。
野末が顔を上げる。
「今ですか」
「今です」
坂部は、はっきり言った。
「私が、直接話します」
しばらくして、水谷修平が応接室へ呼ばれた。
水谷は入ってくるなり、部屋の空気に気づいた。
六郎を見る。
百合を見る。
一臣を見る。
それから坂部と野末を見る。
「えっと」
困ったように笑おうとした。
その瞬間、六郎には見えた。
水谷の背中にある顔が、まだ残っている。
泥のような顔。
けれど、前より薄い。
輪郭が少しぼやけている。
それでも、目だけはまだ鋭かった。
おまえが悪い。
おまえが悪い。
小さく、まだ言っている。
坂部が立ち上がった。
「水谷さん」
水谷の肩が、びくりと動いた。
「はい」
坂部は、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
水谷は、固まった。
「え」
「あなたに、ひどいことをしました」
坂部の声は震えていた。
「指導だと思っていました。でも、違いました」
水谷は何も言えない。
坂部は頭を下げたまま続ける。
「私は、あなたのためじゃなく、自分のために言っていました」
応接室が静かになる。
水谷の背中の顔が、少しだけ揺れた。
「私は、自分が苦しかったことを、あなたにぶつけていました」
坂部の声が滲む。
「自分が誰にも助けてもらえなかったことを、あなたが助けられることへの怒りに変えていました」
水谷の口が少し開いた。
「そんな」
言いかけて、止まる。
いつもの水谷なら、たぶん言っただろう。
そんなことないです。
僕にも悪いところがありました。
大丈夫です。
けれど、今日は言わなかった。
言わないまま、坂部を見ていた。
坂部は頭を上げた。
目が赤い。
「許してほしいとは言いません」
水谷の背中の顔が、さらに薄くなる。
「ただ、謝らせてください」
水谷は、しばらく何も言わなかった。
六郎は見ていた。
水谷の指が震えている。
怒っている。
怖がっている。
困っている。
その全部があった。
やがて、水谷は言った。
「僕は」
声が掠れた。
「僕は、ずっと、自分が悪いんだと思っていました」
坂部は目を伏せた。
「はい」
「坂部さんに言われると、たしかに自分が抜けているし、仕事も遅いし、迷惑をかけているのかなって」
「はい」
「でも」
水谷は息を吸った。
「でも、つらかったです」
その言葉が出た瞬間、泥の顔の口が裂けた。
何かを叫ぼうとするように。
しかし、声は出なかった。
水谷は続けた。
「会社に来るのが、怖かったです」
坂部の顔が歪んだ。
「申し訳ありません」
「すぐには、普通には戻れないと思います」
「はい」
「許せるかも、まだ分かりません」
「はい」
「でも」
水谷は、少しだけ目を伏せた。
「謝ってもらえたことは、受け取ります」
坂部は泣いた。
声を出さずに泣いた。
水谷も泣かなかった。
泣かなかったが、顔は崩れていた。
二人の間にあったものが、少しだけ形を変えた。
怒りが消えたわけではない。
傷が消えたわけでもない。
けれど、初めて言葉が通った。
その時、水谷の背中の顔が、泥のように崩れた。
ぼろり、と落ちる。
床に落ちたように見えた。
けれど、音はしなかった。
それは水にはならなかった。
土にもならなかった。
ただ、薄くなって、消えた。
六郎は、思わず息を吐いた。
百合が小さく言った。
「乾いたわね」
「全部ですか」
六郎が聞く。
「いいえ」
百合の視線は、野末の方へ向いていた。
「乾いたところと、まだ湿っているところがある」
野末は、その言葉が聞こえていないはずだった。
だが、なぜか少しだけ顔を上げた。
その場は、形式上は収まった。
一臣は、三倉側の管理職にも記録の確認と再発防止を求めた。
坂部は、水谷への対応を改めること、業務連絡の記録を残すこと、第三者を介した確認体制を作ることに同意した。
野末も、謝罪した。
「私も、配慮が足りませんでした」
そう言った。
柔らかい声だった。
誰かが聞けば、反省しているように思ったかもしれない。
けれど六郎には、野末の足元が見えていた。
細い根が、まだ切れていない。
むしろ、応接室の床下で静かに丸まっている。
まるで、冬を待つ虫のようだった。
⸻
三倉文具卸を出た時、空は薄曇りだった。
雨は降っていない。
それなのに、空気は湿っていた。
水谷は少し遅れて出てきた。
「六郎」
「うん」
「ありがとう」
「僕は、たいしたことしてない」
「したよ」
水谷は小さく笑った。
今までの笑いとは違っていた。
疲れている。
傷ついている。
でも、無理にごまかしてはいない。
「まだ、しんどいと思う」
六郎が言うと、水谷はうなずいた。
「うん」
「休めるなら、休んだ方がいい」
「そうする」
「本当に?」
「本当に」
水谷は少し考えて、
「今日は帰る」
と言った。
六郎はうなずいた。
「それがいい」
一臣は少し離れたところで、電話をしていた。
業務の話だろう。
声は穏やかだが、言葉は短い。
百合は、会社の建物を見上げていた。
「百合さん」
「なに」
「終わったんでしょうか」
「ひとつはね」
「ひとつ」
「坂部さんは、見たわ」
「何を」
「自分が育てていたもの」
六郎は、応接室で泣いていた坂部を思い出した。
「野末さんは?」
百合は答えなかった。
代わりに、建物の二階の窓を見た。
そこに、野末が立っていた。
こちらを見ている。
表情は分からない。
ただ、立っている。
一臣が電話を終えて戻ってきた。
「水谷は?」
「今日は帰るって」
「そうか」
一臣は短く言った。
それから、六郎を見る。
「お前も帰れ」
「兄さんは?」
「もう少し残る。管理側と話がある」
「大丈夫?」
「俺は大丈夫だ」
「野末さんは」
一臣は、二階の窓を見た。
野末はもういなかった。
「簡単には変わらないだろうな」
「やっぱり」
「自分が悪いと思っていない人間は、強い」
一臣は言った。
「でも、強いままではいられない」
その言葉が、妙に重かった。
六郎は、兄を見た。
「兄さん、仏教っぽいこと言うね」
「たまに本を読む」
「そうなんだ」
「次春の影響だ」
六郎は少し笑った。
「あいつは長いからな」
「うん。心配も長いし、話も長い」
一臣の口元が、少しだけ緩んだ。
それだけで、兄弟の距離が少しだけ近くなったように思えた。
その夜、坂部理恵は水谷へ改めて謝罪のメールを送った。
短い文面だった。
言い訳はなかった。
翌日、水谷から六郎へ連絡が来た。
坂部さんと少し話した。
まだ怖いけど、初めてちゃんと話せた気がする。
その次の日には、こう来た。
今日、共有メールにちゃんと入ってた。
さらに数日後。
坂部さんに、前に自分が新人の頃つらかった話を少し聞いた。
許すとかじゃないけど、少し分かった。
六郎は、それを読んで、長く息を吐いた。
全部が元に戻るわけではない。
でも、戻らなくてもいいものもある。
違う形になることが、たぶん必要なのだ。
坂部は変わろうとしていた。
ぎこちなく。
危うく。
何度も失敗しながら。
水谷もすぐには信じなかった。
それでいい。
信頼というものは、一度壊れたら、同じ形には戻らない。
けれど、別の形で作り直せることもある。
一方で、野末は少しずつ変わっていった。
最初は、誰にも分からないくらいだった。
「自分も反省しています」
そう言いながら、別の場では、
「でも、坂部さんが主にやっていたことですからね」
と言った。
管理職には、
「水谷くんのためにも、あまり大ごとにしない方が」
と言った。
同僚には、
「外部の人まで入ってきて、ちょっとやりすぎですよね」
と言った。
そして一人になると、舌打ちした。
「俺だけが悪いわけじゃない」
誰も、野末だけが悪いとは言っていない。
だからこそ、野末は腹を立てた。
言われていない罪ほど、人はよく怒る。
野末の足元の根は、少しずつ濃くなった。
六郎はそれを直接見ていない。
だが、時々、夜中に目が覚めた。
夢の中で、観葉植物の土が黒く濡れている。
その土の中で、何かがゆっくり動いている。
かさ。
かさ。
かさ。
そんな音がした。
数週間後、野末圭吾は職場で孤立し始めた。
人の発言の揚げ足を取る。
責任を誰かに寄せる。
自分の言葉だけは、いつも曖昧にしておく。
前からそうだった。
ただ、前はもう少しうまかった。
今は違う。
隠し方が雑になった。
周囲も、気づき始めた。
坂部は、もう野末の言葉に乗らなくなった。
水谷も、自分のせいにしなくなった。
誰かが水をやめると、湿ったものは別の水を探す。
野末は、苛立った。
そして、ついに自分から退職を願い出た。
自主都合での退職だった。
誰も強く引き止めなかった。
それが、野末には一番堪えた。
最終出社の日、野末は観葉植物の鉢を見た。
以前から窓際にあった鉢である。
誰が世話をしているのか分からない。
水をやっているところを見たこともない。
それなのに、土はいつも黒く濡れていた。
野末は、その鉢の前で足を止めた。
「気持ち悪いな」
小さく言った。
土の表面に、小さな泡が浮く。
ぷつ。
野末は顔をしかめた。
「何なんだよ」
返事はない。
ただ、土の下から、かすかな音がした。
かさ。
野末は一歩下がった。
「くだらない」
そう言って、目を逸らした。
そのまま会社を出た。
エレベーターを降りる。
玄関を出る。
外は春だった。
地面は乾いている。
雨は降っていない。
けれど、野末の靴裏には、黒い泥がついていた。
本人は気づかなかった。
⸻
藤原珈琲で、六郎は水谷からその話を聞いた。
「野末さん、辞めたよ」
水谷はコーヒーを飲みながら言った。
「そう」
「自主都合だって」
「そっか」
「最後まで、俺のこと少し睨んでた」
水谷は苦笑した。
「怖かった?」
「怖かった」
正直に言った。
それが前と違っていた。
「でも、俺のせいじゃないとは思えた」
六郎はうなずいた。
「よかった」
「うん」
水谷は窓の外を見た。
「坂部さんとは、少し話せるようになった」
「うん」
「仕事はまだやりにくいけど」
「それはそうだよね」
「でも、前より息がしやすい」
その言葉を聞いて、六郎は少しだけ安心した。
水谷の背中には、もうあの顔はなかった。
ただ、疲れは残っている。
傷も残っている。
けれど、あの泥の顔はない。
その代わりに、背中が少しだけまっすぐになっていた。
⸻
その夜、一臣は名古屋へ戻ると言った。
六郎は、そう、と返した。
それだけだった。
兄弟の別れというものは、たいてい短い。
またな、とも言わない。
気をつけて、とも言わない。
言えばいいのに、言わない。
言わなくても足りると思っているのか、言うには近すぎるのか。
六郎には、よく分からなかった。
ただ、一臣が駅へ向かう背中を見送った時、少しだけ胸の奥が軽かった。
それだけだった。
その夜、藤原珈琲の灯りは、いつもより少し遅くまでついていた。
表の札は、もう準備中に返っている。
店の中に客はいない。
カウンターの奥で、母がコーヒーを淹れていた。
一臣は、いつもの席ではなく、カウンターの端に座っている。
昔から、そこだった。
店の中にいるのに、少しだけ外から来た人のように座る。
母は何も言わずにカップを置いた。
一臣はそれを見て、少しだけ笑った。
「濃いな」
「疲れてる顔だったから」
「そんな顔してた?」
「してた」
一臣はコーヒーを飲んだ。
少し黙る。
店の外を車が一台通った。
音はすぐに遠ざかった。
「六郎、元気そうだった」
一臣が言った。
母はカップを拭いていた。
「そう」
「少し危なっかしいけど」
「昔からよ」
「前より、戻ってくる感じがある」
母は手を止めなかった。
「そう」
一臣は、カップの黒い水面を見た。
「母さん」
「なに」
「あれが、籠目屋の人か」
母は、すぐには答えなかった。
棚にカップをひとつ戻す。
陶器が触れて、小さく鳴った。
「会ったの」
「会った」
「そう」
「静かな人だった」
母はまた一つ、カップを戻した。
「そうでしょうね」
一臣は母を見た。
「知ってるんだな」
母は答えなかった。
答えないまま、布巾を畳んだ。
それから、ぽつりと言った。
「六郎は、帰ってきた?」
「うん」
「なら、いい」
「それだけ?」
「それだけ」
一臣は少しだけ息を吐いた。
呆れたようにも見えた。
納得したようにも見えた。
「父さんの時も、そうだった?」
母の手が止まった。
ほんの少しだけ。
水道の蛇口から、雫が落ちた。
一つ。
それきりだった。
「一臣」
母の声は、静かだった。
「コーヒー、冷めるよ」
一臣は、少しのあいだ母を見ていた。
それから、カップを持った。
「うん」
飲む。
店の外は静かだった。
春の夜だった。
⸻
同じ頃、籠目屋商店では、六郎が百合の向かいに座っていた。
古い卓の上に、盃が二つある。
百合が酒を注いだ。
透明な酒が、盃の中で小さく揺れる。
「今日は飲むんですね」
六郎が言った。
「ええ」
「何か、めでたい感じですか」
「そう見える?」
「見えないですね」
「なら、そういうことよ」
六郎は少し笑った。
盃を持つ。
飲む。
少し辛い酒だった。
喉を通ると、身体の奥がほんの少し温かくなる。
「水谷、少し元気そうでした」
「そう」
「坂部さんも、悪い人じゃなかったんですね」
百合は盃を見た。
「悪い人ではない、というのは、便利な言い方ね」
「便利ですか」
「ええ」
「じゃあ、何て言えばいいんですか」
「悪いことをした人」
六郎は黙った。
百合は酒を一口飲む。
「それで足りるわ」
「厳しいですね」
「優しいでしょう」
「優しい?」
「悪い人、と言ってしまえば、それで終わるもの」
六郎は少し考えた。
「悪いことをした人なら」
「戻る場所があるかもしれない」
六郎は盃の中を見た。
「野末さんは?」
百合は答えなかった。
六郎も、すぐには聞き直さなかった。
店の奥で、紙の擦れる音がした。
風はない。
百合は、もう一度酒を注いだ。
「終わったことと、残ったことは違うわ」
「それ、今日聞きました」
「そう」
「便利な言い方ですね」
「ええ」
「百合さん、便利な言い方多いですよね」
「そうかしら」
「多いです」
「じゃあ、あなたも覚えるといいわ」
「使いどころが難しそうです」
「そうね」
二人は少し黙った。
外を、誰かが通った。
足音がして、遠ざかる。
犬山の夜は、名古屋より静かだ。
静かすぎる時がある。
六郎は、盃を置いた。
「兄さんに、少し助けられました」
「ええ」
「見てました?」
「見ていたわ」
「一臣兄さん、どうでした」
「強い人ね」
「怖いですか」
「少し」
六郎は笑った。
「分かります」
「でも」
百合は少しだけ間を置いた。
「折れ方を知っている人ね」
六郎は、百合を見た。
「折れ方?」
「ええ」
「強い人って、折れない人じゃないんですか」
「折れないものは、砕けるわ」
百合は盃を置いた。
「折れ方を知っている人は、戻ることもある」
六郎は一臣の顔を思い出した。
応接室で、坂部に言葉を置いていた時の顔。
静かで、強い顔だった。
「兄さんも、いろいろあるんですかね」
「あるでしょうね」
「聞いてみようかな」
「聞きたいの?」
六郎は少し考えた。
「まだ、いいです」
「そう」
「でも、今日は少し、話せてよかったです」
「そう」
百合は、それだけ言った。
六郎は酒を飲んだ。
静かに。
少しだけ、喉が熱くなった。
「百合さん」
「なに」
「僕、何か役に立ってます?」
百合は六郎を見た。
「急ね」
「たまに思うので」
「役に立ちたいの?」
「どうでしょう」
六郎は盃を指で回した。
「役に立ってないなら、何でいるんだろうって思うことはあります」
百合は少しだけ目を伏せた。
それから、酒を注ぐ。
自分の盃ではなく、六郎の盃へ。
「いるだけで、変わることもあるわ」
「それ、慰めですか」
「いいえ」
「じゃあ」
「事実」
六郎は、盃を見た。
透明な酒が揺れている。
「便利な言い方ですね」
「ええ」
百合は少しだけ笑った。
ほんの少しだった。
「便利でしょう」
六郎も笑った。
外では、春の夜が深くなっている。
どこかで、かすかな音がした。
虫の音のようにも聞こえた。
木の葉が擦れた音のようにも聞こえた。
何かが、小さな戸を探している音のようにも聞こえた。
六郎は顔を上げた。
百合も、同じ方を見ていた。
「聞こえましたか」
「ええ」
「何ですか」
百合は答えなかった。
答えないまま、盃を持った。
飲む。
静かに。
それだけだった。
⸻
そのころ、野末圭吾は自宅の玄関で靴を脱いでいた。
靴裏に、黒い泥がついている。
雨は降っていなかった。
会社の床も、道も乾いていた。
それなのに、泥はついていた。
野末は舌打ちした。
「何だよ」
靴を持ち上げ、玄関のタイルへ叩きつける。
泥は落ちない。
濡れている。
ぬるりと光っている。
野末は苛立って、ティッシュで拭った。
黒い泥が、紙に広がる。
その中で、何かが動いたように見えた。
野末は手を止めた。
じっと見る。
何もない。
ただの泥だった。
「馬鹿らしい」
ティッシュを丸め、ゴミ箱へ捨てた。
部屋へ上がる。
電気をつける。
テレビをつける。
音が流れる。
人の笑い声。
ニュースの声。
CMの明るい声。
野末はソファに座り、スマートフォンを開いた。
三倉文具卸の誰かのSNSを見た。
坂部が写っている。
水谷もいた。
職場の小さな送別会の写真だった。
野末の送別会ではない。
別の社員のものだ。
水谷が、少し笑っている。
坂部も、その隣で控えめに笑っている。
野末は画面を見つめた。
胸の奥が、冷たく湿った。
「何なんだよ」
小さく言った。
「俺が悪いみたいに」
その時、玄関の方で音がした。
かさ。
野末は顔を上げた。
「……誰だ」
返事はない。
また音がする。
かさ。
かさ。
玄関の方からだった。
野末は立ち上がらなかった。
ただ、テレビの音量を上げた。
笑い声が大きくなる。
それでも、音は聞こえた。
かさ。
かさ。
何かが、暗いところで動いている。
そういう音だった。
籠目屋商店の奥で、古い本の頁が、ひとりでに一枚めくれた。
音は小さかった。
百合は何も言わない。
六郎も、何も言わなかった。
盃の中の酒が、ほんの少し揺れていた。
春は、まだ浅い。
けれど、何かはもう、動き始めていた。




