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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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10/20

幕間 二【やろか水】

むかし、木曽の大きな川のそばに、小さな村があった。


村の名は、もう残っていない。


今では堤が築かれ、道が通り、橋がかかり、昼も夜も車が行き交っているが、むかしはそうではなかった。


川は、もっと近かった。


人の暮らしのすぐそばに、水があった。


朝になれば、川霧が田の上を這った。


昼になれば、魚を獲る者が舟を出した。


夕方になれば、子供らが土手で遊んだ。


夜になれば、川は黒い道になった。


黒い道は、月を映した。


星を映した。


灯を映した。


そして時々、人の顔を映した。


その顔が、生きている者の顔であるとは限らなかった。


村の者は、川を恵みと呼んだ。


米を育てる水であり、魚をもたらす水であり、舟を運ぶ水であったからだ。


けれど、同じ口で、川を畏れとも呼んだ。


ひとたび大雨が降れば、川は姿を変えた。


静かに見えていた水は、底の方から膨れ上がる。


音が変わる。


さらさらと流れていたものが、ごう、と鳴る。


ごう。


ごう。


夜のうちに、水は田を呑んだ。


畦を呑んだ。


家を呑んだ。


牛を呑んだ。


泣き声を呑んだ。


そういう川であった。


村には、古くから言い伝えがあった。


大雨の夜、川の方から声がする。


やろか。


やろか。


低い声である。


男の声にも聞こえる。


女の声にも聞こえる。


老人の声にも聞こえる。


子供の声にも聞こえる。


けれど、誰の声でもない。


それが聞こえたら、決して返事をしてはならぬ。


やろか、と聞かれても、ならぬ、と言ってはならぬ。


いらぬ、と言ってもならぬ。


何も言ってはならぬ。


戸を閉めよ。


火を消せ。


息をひそめよ。


声が遠ざかるまで、じっとしておけ。


もしも返事をすれば、水が来る。


川が来る。


夜が来る。


そう言われていた。


だが、子供というものは、そういう話を聞けば聞くほど、川へ近づく。


行くなと言われれば、行く。


見るなと言われれば、見る。


聞くなと言われれば、耳を澄ます。


その村にも、そういう子供がいた。


名を、清太といった。


清太は、笛がうまかった。


父親は舟を使う男であった。


母親は、村の端で小さな畑を見ていた。


家は貧しかったが、清太はよく笑う子であった。


細い竹笛を持って、朝も昼も夕方も吹いていた。


田の縁で吹く。


土手で吹く。


鎮守の森で吹く。


夜には母に叱られた。


「夜の笛は、いけないよ」


母はそう言った。


「どうして」


清太は訊いた。


「呼ぶからだよ」


「何を」


「呼ばなくていいものを」


母はそれ以上言わなかった。


清太は、母の言葉を怖いと思った。


だが、同じくらい、面白いとも思った。


笛は、何かを呼ぶ。


ならば、自分の笛は、何を呼ぶのだろう。


清太はそれを知りたくなった。


ある年、雨が多かった。


春から雨が続き、夏になる前に、田の水は濁りはじめた。


空は重かった。


雲は低く、山の方から、水を含んだ風が吹いてきた。


川は日に日に太った。


太った川は、岸をこするように流れた。


夜になると、土手の下で、何かが身じろぎをする音がした。


村の年寄りは、口数を減らした。


女たちは米を高い棚へ上げた。


男たちは舟を繋ぎ直した。


子供らは土手へ行くなと言われた。


清太も言われた。


「川へ行ってはいけないよ」


母は言った。


「見るだけでも?」


「見るだけでも」


「笛も?」


「吹いてはいけない」


「どうして」


母は答えなかった。


ただ、清太の笛を手に取り、家の梁へかけた。


清太は不満だった。


けれど、その夜は何も言わなかった。


雨が降っていた。


屋根を打つ音が、いつまでも続いていた。


とん。


とん。


とん。


雨の音である。


だが、清太には、遠くで誰かが戸を叩いている音にも聞こえた。


夜半を過ぎたころであった。


清太は、目を覚ました。


母は眠っていた。


父は川の様子を見るため、男たちと土手へ出ていた。


家の中は暗い。


炉の火は落ちていた。


雨の音だけがある。


清太は梁を見上げた。


竹笛がある。


なぜだか、笛が濡れているように見えた。


家の中に雨は入っていない。


なのに、笛の表面が、薄く光っている。


清太は起き上がった。


梁に手を伸ばす。


届かない。


踏み台を持ってくる。


笛を取る。


その時である。


外から、声がした。


やろか。


清太は、息を止めた。


雨の音ではない。


風の音でもない。


はっきりと、声であった。


やろか。


やろか。


川の方から聞こえる。


清太は戸の方を見た。


母は眠っている。


清太は笛を握った。


怖かった。


怖かったが、身体が戸へ向かった。


自分で歩いているのではなかった。


誰かに呼ばれている。


そう思った。


戸を開ける。


雨が入ってくる。


冷たい雨だった。


夜の村は暗い。


家々の灯は消えている。


川の方だけが、ぼんやり白かった。


水が光っているのだ。


清太は裸足で外へ出た。


泥が足の指の間へ入った。


冷たい。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


やろか。


声がする。


清太は土手へ向かって歩いた。


竹笛を握ったまま。


土手には、誰もいなかった。


いや、誰かいたのかもしれない。


清太には、分からなかった。


雨が強く、髪が顔に張りついた。


川は、黒く膨らんでいた。


いつもの川ではない。


家ほどの大きさのものが、流れの下で身をよじっているように見えた。


水面が盛り上がる。


下がる。


また盛り上がる。


息をしている。


川が、息をしている。


やろか。


今度は、すぐ近くで聞こえた。


清太は、笛を口に当てた。


吹くつもりはなかった。


けれど、息が入った。


細い音が出た。


ひゅう。


雨の中へ、笛の音が流れた。


清太の笛は、いつもはもっと明るい音がした。


けれどその夜は違った。


濡れた音だった。


川の底をくぐってきたような音だった。


やろか。


声がした。


清太は、笛を吹いた。


返事をしてはいけない。


そう言われていた。


だが、笛ならばよいと思ったのかもしれない。


言葉ではない。


声ではない。


だから返事ではない。


そう思ったのかもしれない。


けれど、川は言葉と笛の区別などしなかった。


笛の音が、返事になった。


川が膨れた。


水面が持ち上がった。


黒い水の中から、白い手のようなものが見えた。


手ではない。


泡だったのかもしれない。


流木だったのかもしれない。


だが清太には、手に見えた。


その手が、清太の足首を掴んだ。


冷たい。


清太は叫ぼうとした。


声は出なかった。


代わりに、笛が鳴った。


ひゅう。


ひゅう。


短い音だった。


土手の草が揺れた。


川が笑ったように見えた。


清太の身体は、あっという間に水へ落ちた。


竹笛だけが、土手の上に残った。


いや、残ったのは一瞬である。


次の波が来て、それも流した。


翌朝、清太は見つからなかった。


村中で探した。


父親は川へ入り、母親は声が枯れるまで名を呼んだ。


清太。


清太。


返事はない。


川は少し落ち着いていた。


何事もなかったように流れていた。


三日後、下流の葦の間で竹笛だけが見つかった。


清太の笛であった。


笛の穴には、泥が詰まっていた。


父親はそれを洗おうとした。


だが、いくら洗っても泥は取れなかった。


母親は、その笛を見て泣いた。


「呼ばれたんだ」


誰かが言った。


それから、村の者は口を閉じた。


呼ばれた。


その言葉には、重さがあった。


ただ流されたのではない。


ただ溺れたのではない。


呼ばれて、行った。


そういうことであった。



清太が消えてから、村ではおかしなことが続いた。


夜になると、川の方から笛が聞こえる。


ひゅう。


ひゅう。


下手な笛ではない。


清太の笛であった。


母親は、それを聞くたびに外へ出ようとした。


父親が止めた。


「行くな」


「清太が吹いている」


「行くな」


「呼んでいる」


「違う」


父親はそう言った。


「呼んでいるのは、清太じゃない」


母親は泣いた。


笛は、雨の日だけ鳴るのではなかった。


晴れた夜にも鳴った。


月の明るい夜にも鳴った。


風のない夜にも鳴った。


ひゅう。


ひゅう。


川の上を、細い音が渡る。


それを聞いた子供は、熱を出した。


それを聞いた女は、夢に川を見た。


それを聞いた男は、夜中に土手へ歩いて行った。


幸い、男は途中で見つかった。


ぼんやりとした顔で、こう言った。


「呼ばれた」


誰に、と聞かれても答えなかった。


ただ、


「笛が」


と言った。


村の庄屋は、これはよくないと言った。


寺の僧を呼んだ。


僧は川辺で経を読んだ。


米を撒いた。


塩を撒いた。


酒を流した。


だが、笛は止まらなかった。


社の神主も呼ばれた。


神主は幣を振った。


祝詞をあげた。


川の神に鎮まりたまえと祈った。


だが、笛は止まらなかった。


むしろ、夜ごとに近くなった。


はじめは川の向こうから聞こえた。


それが、川岸から聞こえるようになった。


やがて、村の端から聞こえるようになった。


最後には、清太の家の軒先で鳴るようになった。


母親は痩せた。


父親は黙った。


村の者は、清太の家の前を避けて通るようになった。


そんなある日、旅の法師が村へ来た。


法師と言っても、寺にいるような僧ではなかった。


髪は短く、衣はくたびれていた。


杖をついていた。


背には、古い袋を負っていた。


年は分からない。


若いようにも見える。


老いているようにも見える。


顔は日に焼けていたが、目だけが妙に澄んでいた。


庄屋はその法師を泊めた。


夜、法師は笛の音を聞いた。


ひゅう。


ひゅう。


村の者は皆、震えた。


しかし法師は、囲炉裏の火を見たまま言った。


「これは、子供の笛ではない」


庄屋が訊いた。


「では、何でございます」


法師は答えなかった。


笛がまた鳴る。


ひゅう。


その音を聞いて、法師は少しだけ目を細めた。


「笛を吹いているものは、笛を持っておらぬ」


村の者には、意味が分からなかった。


法師は続けた。


「子供は、持っていかれたのだ」


「川に、でございますか」


「川ならまだよかった」


庄屋は顔色を変えた。


「川ではないのですか」


法師は囲炉裏の火を見ていた。


火の中で、薪がぱちりと鳴る。


「昔、この村で何をした」


誰も答えなかった。


誰も答えられなかった。


法師はゆっくり庄屋を見た。


「川が荒れるたびに、何かを沈めたはずだ」


庄屋の顔がこわばった。


村の年寄りたちも、目を伏せた。


しばらくして、一人の老婆が口を開いた。


「人柱のことかの」


その場が静かになった。


火だけが鳴っている。


ぱちり。


ぱちり。


法師は言った。


「話せ」


老婆は震える声で語り始めた。


それは、老婆が生まれる前の話であった。


この村では、たびたび洪水が起きた。


堤を築いても破れた。


土嚢を積んでも流された。


祈祷をしても効かなかった。


田は流され、人も流された。


その時、ある修験者が村へ来た。


修験者は言った。


川には、鎮めるべきものがある。


水を治めるには、柱を立てねばならぬ。


木の柱ではない。


人の柱である。


村は震えた。


だが、その年も雨は降り続いていた。


川は、今にも村を呑もうとしていた。


誰かが言った。


ひとりで済むなら。


また誰かが言った。


村が残るなら。


そして、ひとりの娘が選ばれた。


身寄りの薄い娘だった。


名は、おゆき。


器量はよかったが、家は貧しかった。


おゆきは、泣かなかったという。


泣けば、村の者が困ると思ったのか。


それとも、泣く力もなかったのか。


誰にも分からない。


修験者は、川の神へ捧げるのだと言った。


手順がある。


時刻がある。


方角がある。


唱える言葉がある。


水へ沈めるものがある。


守るべき禁がある。


しかし、村の者たちは恐れていた。


恐れすぎていた。


雨は強い。


川は近い。


早くしなければ堤が破れる。


そう思った。


手順は急がれた。


時刻はずれた。


方角は違えられた。


唱える言葉は、半ばで途切れた。


おゆきは、川へ沈められた。


その時、修験者は叫んだという。


違う。


まだだ。


それではない。


だが、声は雨に消えた。


おゆきは沈んだ。


その夜、川は鎮まった。


村は救われた。


だから村人は、正しく捧げられたのだと思った。


修験者は翌朝には姿を消した。


逃げたのか。


流されたのか。


それも分からない。


ただ、それ以来、川はしばらく荒れなかった。


人柱は効いた。


そう村では語られた。


だが、法師は首を振った。


「効いたのではない」


老婆が震えた。


「では」


「食ったのだ」


誰も声を出さなかった。


法師は低く言った。


「川の神に捧げたのではない」


火が、また鳴った。


「手順を違えたことで、別のものへ渡った」


庄屋は唇を白くした。


「別のものとは」


法師は答えた。


「名を持たぬものだ」


「神ではないのですか」


「神ではない」


法師はきっぱりと言った。


「神として祀られたものではない。名を与えられたものでもない。ただ、古くから水の底にいるものだ」


囲炉裏の火が小さくなった。


「腹を空かせたものだ」


その夜、笛は鳴らなかった。


村の者は、かえって眠れなかった。


笛が鳴らぬ夜は、静かすぎた。


静かすぎる夜は、何かが近くにいる。


そう感じさせた。



翌朝、法師は清太の家へ行った。


父親と母親は、痩せていた。


法師は何も慰めなかった。


慰めるには、遅すぎた。


ただ、清太の笛を見せてくれと言った。


母親は竹笛を出した。


泥の詰まった笛である。


法師はそれを受け取った。


笛の穴を見る。


泥は乾いていなかった。


三日も前に拾われた笛である。


囲炉裏のそばに置かれていたのに、泥は濡れていた。


法師は、笛を耳元へ近づけた。


音はしない。


だが、法師は眉をひそめた。


「まだ、息を吸っている」


母親が泣いた。


「清太は、そこにおりますか」


法師は答えなかった。


父親が拳を握った。


「返してもらえますか」


法師は、ゆっくり父親を見た。


「何を」


「清太を」


法師は何も言わない。


「何でもします」


父親は言った。


「川へでも、何へでも、頭を下げます」


「頭を下げて返すものなら、初めから取らぬ」


父親は黙った。


法師は笛を布に包んだ。


「今夜、川へ行く」


母親が顔を上げる。


「清太に会えますか」


「会えるかもしれぬ」


「本当ですか」


「会えることが、よいこととは限らぬ」


母親は、それでもうつむいた。


会えるかもしれない。


その言葉だけで、母親は立っていられなくなった。


夜になると、村の者は川辺へ集まった。


雨は降っていなかった。


雲は低かった。


川は静かだった。


静かすぎた。


水面には、月が映っている。


月は丸くない。


欠けた月だった。


法師は土手に立った。


手には、清太の笛がある。


庄屋が問う。


「何をなさる」


法師は言った。


「返す」


「笛を?」


「呼び口を」


村人は分からなかった。


法師は説明しなかった。


川へ向かって、笛を置いた。


それから、古い言葉を唱えた。


その言葉は、経ではなかった。


祝詞でもなかった。


村の者には、ただ低い声に聞こえた。


川の音と混じり、地の底へ落ちていくような声であった。


しばらくすると、川面に波が立った。


風はない。


魚でもない。


水の下で、何かが動いた。


法師は唱え続ける。


その時、川の方から声がした。


やろか。


村人が震えた。


やろか。


やろか。


法師は唱えるのをやめた。


声は続いた。


やろか。


それは、今までよりも近かった。


川の中からではない。


川そのものが口になっているようだった。


法師は言った。


「いらぬ」


庄屋が目を剥いた。


返事をしてはならぬ。


そう言い伝えられていたからだ。


だが法師は、もう一度言った。


「いらぬ」


川が膨れた。


水面が盛り上がる。


月が歪む。


笛が鳴った。


ひゅう。


誰も吹いていない。


土手に置かれた笛が、ひとりでに鳴った。


ひゅう。


ひゅう。


母親が叫びかけた。


父親が口を押さえた。


笛の音の中に、子供の息が混じっている。


清太の息だ。


誰もがそう思った。


「返せ」


父親が言った。


法師が振り返る。


「言うな」


だが遅かった。


父親は川を見ていた。


目は見開かれ、顔は濡れていた。


「清太を返せ」


川が笑った。


そう見えた。


やろか。


声がした。


父親は、はっとした。


自分が返事をしたことに気づいたのだ。


笛が激しく鳴った。


ひゅう。


ひゅう。


ひゅう。


川面が割れた。


水の中から、白いものが浮かんだ。


小さな手だった。


子供の手である。


母親が崩れ落ちる。


父親は駆け出そうとした。


法師が杖で父親の胸を突いた。


父親は倒れた。


怒って法師を見る。


法師は父親を見ていなかった。


川を見ていた。


「違う」


法師は言った。


「清太ではない」


白い手が、水面を叩いた。


ぱしゃり。


ぱしゃり。


そのたびに、笛が鳴る。


水の中から、顔が浮かんだ。


子供の顔に見えた。


清太の顔に見えた。


だが、目がなかった。


目のあるべきところに、泥が詰まっていた。


口だけが笑っている。


母親が悲鳴をあげた。


法師は笛へ手を伸ばした。


だが、その前に、川から別の声がした。


「寒い」


それは、女の声だった。


村の者が固まった。


「寒い」


声は、川底から上がってくる。


若い女の声である。


「まだ、寒い」


老婆が泣き崩れた。


「おゆきじゃ」


誰かが言った。


人柱にされた娘。


おゆき。


その名が出た瞬間、川面が一面、白く泡立った。


泡の中に、いくつもの手が見えた。


子供の手。


女の手。


男の手。


老人の手。


清太だけではない。


おゆきだけでもない。


これまで川に呼ばれたもの。


返事をしたもの。


流されたもの。


それらが、川の下にいた。


正しく弔われず、正しく神へも届かず、名を持たぬものの腹の中にいた。


法師は低く呟いた。


「多すぎる」


その声には、初めて迷いがあった。


庄屋が叫んだ。


「どうすれば」


法師は答えた。


「名を呼ぶな」


「え」


「名を呼べば、それが返ってくる」


「返ってくるなら」


「違うものが、その名を着て返ってくる」


村の者は口を閉じた。


母親は震えていた。


清太、と呼びたかった。


呼びたかったが、呼ばなかった。


父親が、母親の肩を抱いた。


その時、笛がまた鳴った。


今度は、悲しい音だった。


短く、細く、途切れそうな音。


ひゅう。


法師は目を閉じた。


「子供は、まだ奥にいる」


母親が息を呑む。


「けれど、呼んではならぬ」


「では、どうすれば」


母親は言った。


法師は、笛を持ち上げた。


「こちらから、呼ばれに行く」


父親が顔を上げる。


「どういうことです」


法師は答えなかった。


笛を口に当てる。


村の者たちは、息を止めた。


夜に笛を吹いてはならぬ。


川辺で笛を吹いてはならぬ。


呼ばれる。


そう言われてきた。


法師は、その禁を破った。


笛が鳴った。


清太の笛である。


だが、音は清太のものではなかった。


低く、深く、川底へ沈む音だった。


ひゅう。


音が川へ入る。


水面が震える。


泡が割れる。


白い手が引く。


女の声が遠ざかる。


法師は吹き続けた。


音は、悲しみでも怒りでもなかった。


ただ、道を示す音であった。


来い、と呼ぶ音ではない。


帰れ、と追う音でもない。


ここではない。


そう告げる音だった。


川面の泡が、少しずつ中央へ寄っていく。


そこに、黒い穴が開いた。


水の穴である。


底は見えない。


その穴の中から、声がした。


やろか。


法師は笛を吹いたまま、首を振った。


穴の奥で何かが動く。


大きい。


魚ではない。


蛇でもない。


人でもない。


形は見えない。


見えないが、そこにいる。


腹を空かせたもの。


神ではないもの。


名を持たぬもの。


人柱を食い、返事を食い、笛を食い、名を食ってきたもの。


それが、穴の奥から法師を見ていた。


法師は笛を吹き続けた。


音がかすれる。


唇から血が流れる。


それでも吹く。


村の者は誰も動けなかった。


やがて、穴の奥から、何かが伸びた。


水でできた腕のようなものだった。


それが、法師の足首へ絡む。


法師は笛を止めない。


もう一本、伸びる。


腰へ。


胸へ。


首へ。


法師の身体が少しずつ川へ引かれる。


庄屋が叫ぶ。


父親が走ろうとする。


だが、母親が止めた。


父親は母親を見た。


母親は泣いていた。


泣きながら、首を振った。


今、止めてはならぬ。


そう分かっていたのだ。


法師は川へ入った。


膝まで。


腰まで。


胸まで。


それでも笛は鳴っている。


ひゅう。


ひゅう。


音は、だんだん遠くなる。


川の中へ入っていく。


その時、穴の奥から、小さな影が出た。


子供の影だった。


清太であった。


泥だらけであった。


目は閉じている。


口も閉じている。


けれど、顔は穏やかだった。


母親は声を出さなかった。


父親も出さなかった。


清太の影は、法師の笛の音に導かれるように、川面の上へ浮かんだ。


それから、ふっと消えた。


母親は膝をついた。


父親も膝をついた。


笛の音は、まだ鳴っている。


法師の姿は、もう肩まで水に入っていた。


最後に、法師は笛を川岸へ投げた。


笛は土手に落ちた。


その瞬間、法師の姿が沈んだ。


水が閉じた。


穴も閉じた。


声も消えた。


川は、ただの川になった。


土手の上に、笛があった。


泥は詰まっていなかった。


洗ったように、きれいであった。



それから、村ではしばらく洪水が起きなかった。


笛の音も聞こえなくなった。


清太の母親は、竹笛を家に置かなかった。


川へ流すこともしなかった。


寺へ納めることもしなかった。


村外れの小さな塚に埋めた。


その塚は、清太の墓ではない。


法師の墓でもない。


おゆきの墓でもない。


誰の墓でもない。


ただ、呼ばれていったものたちのための塚であった。


村の者は、そこへ花を供えた。


米を供えた。


水は供えなかった。


水を供えてはいけない。


そう決めた。


水は、もう十分であったからだ。


やがて年月が経った。


村は変わった。


堤は高くなった。


橋がかかった。


家も増えた。


昔の塚は、草に埋もれた。


誰も手を合わせなくなった。


人柱の話も、だんだん語られなくなった。


おゆきの名も、清太の名も、旅の法師のことも、忘れられていった。


ただ、ひとつだけ、言葉が残った。


大雨の夜、川の方から声がする。


やろか。


やろか。


そう聞こえても、返事をしてはならぬ。


それだけは残った。


なぜ返事をしてはならぬのか。


誰が最初に呼ばれたのか。


何が川の底にいるのか。


それを知る者はいなくなった。


人は、理由を忘れても、怖さだけは残す。


怖さだけが、昔話になる。


今でも、雨の強い夜。


川の近くで、笛の音を聞いたという者がいる。


ひゅう。


ひゅう。


細い竹笛の音である。


子供が練習しているような、少し拙い音だという。


だが、夜に川辺で笛を吹く子供など、今はいない。


その音を聞いた者は、たいてい同じ夢を見る。


黒い川。


欠けた月。


土手の上の竹笛。


そして、川の中から上がる声。


やろか。


夢の中で、返事をしてはならぬ。


言葉で返してもならぬ。


泣いてもならぬ。


笑ってもならぬ。


笛を吹いてもならぬ。


ただ、目を伏せる。


耳を塞ぐ。


息を殺す。


声が遠ざかるまで、待つ。


もし、待てなかったなら。


もし、返してしまったなら。


朝、枕元に泥が落ちている。


黒い泥である。


濡れている。


雨も降っていないのに、濡れている。


その泥の中から、小さな音がする。


ひゅう。


ひゅう。


笛の音である。


そして、遠くで水が笑う。


やろか。


やろか。


いるか。


いるか。


そう聞こえる夜が、今もあるという。

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