幕間 二【やろか水】
むかし、木曽の大きな川のそばに、小さな村があった。
村の名は、もう残っていない。
今では堤が築かれ、道が通り、橋がかかり、昼も夜も車が行き交っているが、むかしはそうではなかった。
川は、もっと近かった。
人の暮らしのすぐそばに、水があった。
朝になれば、川霧が田の上を這った。
昼になれば、魚を獲る者が舟を出した。
夕方になれば、子供らが土手で遊んだ。
夜になれば、川は黒い道になった。
黒い道は、月を映した。
星を映した。
灯を映した。
そして時々、人の顔を映した。
その顔が、生きている者の顔であるとは限らなかった。
村の者は、川を恵みと呼んだ。
米を育てる水であり、魚をもたらす水であり、舟を運ぶ水であったからだ。
けれど、同じ口で、川を畏れとも呼んだ。
ひとたび大雨が降れば、川は姿を変えた。
静かに見えていた水は、底の方から膨れ上がる。
音が変わる。
さらさらと流れていたものが、ごう、と鳴る。
ごう。
ごう。
夜のうちに、水は田を呑んだ。
畦を呑んだ。
家を呑んだ。
牛を呑んだ。
泣き声を呑んだ。
そういう川であった。
村には、古くから言い伝えがあった。
大雨の夜、川の方から声がする。
やろか。
やろか。
低い声である。
男の声にも聞こえる。
女の声にも聞こえる。
老人の声にも聞こえる。
子供の声にも聞こえる。
けれど、誰の声でもない。
それが聞こえたら、決して返事をしてはならぬ。
やろか、と聞かれても、ならぬ、と言ってはならぬ。
いらぬ、と言ってもならぬ。
何も言ってはならぬ。
戸を閉めよ。
火を消せ。
息をひそめよ。
声が遠ざかるまで、じっとしておけ。
もしも返事をすれば、水が来る。
川が来る。
夜が来る。
そう言われていた。
だが、子供というものは、そういう話を聞けば聞くほど、川へ近づく。
行くなと言われれば、行く。
見るなと言われれば、見る。
聞くなと言われれば、耳を澄ます。
その村にも、そういう子供がいた。
名を、清太といった。
清太は、笛がうまかった。
父親は舟を使う男であった。
母親は、村の端で小さな畑を見ていた。
家は貧しかったが、清太はよく笑う子であった。
細い竹笛を持って、朝も昼も夕方も吹いていた。
田の縁で吹く。
土手で吹く。
鎮守の森で吹く。
夜には母に叱られた。
「夜の笛は、いけないよ」
母はそう言った。
「どうして」
清太は訊いた。
「呼ぶからだよ」
「何を」
「呼ばなくていいものを」
母はそれ以上言わなかった。
清太は、母の言葉を怖いと思った。
だが、同じくらい、面白いとも思った。
笛は、何かを呼ぶ。
ならば、自分の笛は、何を呼ぶのだろう。
清太はそれを知りたくなった。
ある年、雨が多かった。
春から雨が続き、夏になる前に、田の水は濁りはじめた。
空は重かった。
雲は低く、山の方から、水を含んだ風が吹いてきた。
川は日に日に太った。
太った川は、岸をこするように流れた。
夜になると、土手の下で、何かが身じろぎをする音がした。
村の年寄りは、口数を減らした。
女たちは米を高い棚へ上げた。
男たちは舟を繋ぎ直した。
子供らは土手へ行くなと言われた。
清太も言われた。
「川へ行ってはいけないよ」
母は言った。
「見るだけでも?」
「見るだけでも」
「笛も?」
「吹いてはいけない」
「どうして」
母は答えなかった。
ただ、清太の笛を手に取り、家の梁へかけた。
清太は不満だった。
けれど、その夜は何も言わなかった。
雨が降っていた。
屋根を打つ音が、いつまでも続いていた。
とん。
とん。
とん。
雨の音である。
だが、清太には、遠くで誰かが戸を叩いている音にも聞こえた。
夜半を過ぎたころであった。
清太は、目を覚ました。
母は眠っていた。
父は川の様子を見るため、男たちと土手へ出ていた。
家の中は暗い。
炉の火は落ちていた。
雨の音だけがある。
清太は梁を見上げた。
竹笛がある。
なぜだか、笛が濡れているように見えた。
家の中に雨は入っていない。
なのに、笛の表面が、薄く光っている。
清太は起き上がった。
梁に手を伸ばす。
届かない。
踏み台を持ってくる。
笛を取る。
その時である。
外から、声がした。
やろか。
清太は、息を止めた。
雨の音ではない。
風の音でもない。
はっきりと、声であった。
やろか。
やろか。
川の方から聞こえる。
清太は戸の方を見た。
母は眠っている。
清太は笛を握った。
怖かった。
怖かったが、身体が戸へ向かった。
自分で歩いているのではなかった。
誰かに呼ばれている。
そう思った。
戸を開ける。
雨が入ってくる。
冷たい雨だった。
夜の村は暗い。
家々の灯は消えている。
川の方だけが、ぼんやり白かった。
水が光っているのだ。
清太は裸足で外へ出た。
泥が足の指の間へ入った。
冷たい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
やろか。
声がする。
清太は土手へ向かって歩いた。
竹笛を握ったまま。
土手には、誰もいなかった。
いや、誰かいたのかもしれない。
清太には、分からなかった。
雨が強く、髪が顔に張りついた。
川は、黒く膨らんでいた。
いつもの川ではない。
家ほどの大きさのものが、流れの下で身をよじっているように見えた。
水面が盛り上がる。
下がる。
また盛り上がる。
息をしている。
川が、息をしている。
やろか。
今度は、すぐ近くで聞こえた。
清太は、笛を口に当てた。
吹くつもりはなかった。
けれど、息が入った。
細い音が出た。
ひゅう。
雨の中へ、笛の音が流れた。
清太の笛は、いつもはもっと明るい音がした。
けれどその夜は違った。
濡れた音だった。
川の底をくぐってきたような音だった。
やろか。
声がした。
清太は、笛を吹いた。
返事をしてはいけない。
そう言われていた。
だが、笛ならばよいと思ったのかもしれない。
言葉ではない。
声ではない。
だから返事ではない。
そう思ったのかもしれない。
けれど、川は言葉と笛の区別などしなかった。
笛の音が、返事になった。
川が膨れた。
水面が持ち上がった。
黒い水の中から、白い手のようなものが見えた。
手ではない。
泡だったのかもしれない。
流木だったのかもしれない。
だが清太には、手に見えた。
その手が、清太の足首を掴んだ。
冷たい。
清太は叫ぼうとした。
声は出なかった。
代わりに、笛が鳴った。
ひゅう。
ひゅう。
短い音だった。
土手の草が揺れた。
川が笑ったように見えた。
清太の身体は、あっという間に水へ落ちた。
竹笛だけが、土手の上に残った。
いや、残ったのは一瞬である。
次の波が来て、それも流した。
翌朝、清太は見つからなかった。
村中で探した。
父親は川へ入り、母親は声が枯れるまで名を呼んだ。
清太。
清太。
返事はない。
川は少し落ち着いていた。
何事もなかったように流れていた。
三日後、下流の葦の間で竹笛だけが見つかった。
清太の笛であった。
笛の穴には、泥が詰まっていた。
父親はそれを洗おうとした。
だが、いくら洗っても泥は取れなかった。
母親は、その笛を見て泣いた。
「呼ばれたんだ」
誰かが言った。
それから、村の者は口を閉じた。
呼ばれた。
その言葉には、重さがあった。
ただ流されたのではない。
ただ溺れたのではない。
呼ばれて、行った。
そういうことであった。
⸻
清太が消えてから、村ではおかしなことが続いた。
夜になると、川の方から笛が聞こえる。
ひゅう。
ひゅう。
下手な笛ではない。
清太の笛であった。
母親は、それを聞くたびに外へ出ようとした。
父親が止めた。
「行くな」
「清太が吹いている」
「行くな」
「呼んでいる」
「違う」
父親はそう言った。
「呼んでいるのは、清太じゃない」
母親は泣いた。
笛は、雨の日だけ鳴るのではなかった。
晴れた夜にも鳴った。
月の明るい夜にも鳴った。
風のない夜にも鳴った。
ひゅう。
ひゅう。
川の上を、細い音が渡る。
それを聞いた子供は、熱を出した。
それを聞いた女は、夢に川を見た。
それを聞いた男は、夜中に土手へ歩いて行った。
幸い、男は途中で見つかった。
ぼんやりとした顔で、こう言った。
「呼ばれた」
誰に、と聞かれても答えなかった。
ただ、
「笛が」
と言った。
村の庄屋は、これはよくないと言った。
寺の僧を呼んだ。
僧は川辺で経を読んだ。
米を撒いた。
塩を撒いた。
酒を流した。
だが、笛は止まらなかった。
社の神主も呼ばれた。
神主は幣を振った。
祝詞をあげた。
川の神に鎮まりたまえと祈った。
だが、笛は止まらなかった。
むしろ、夜ごとに近くなった。
はじめは川の向こうから聞こえた。
それが、川岸から聞こえるようになった。
やがて、村の端から聞こえるようになった。
最後には、清太の家の軒先で鳴るようになった。
母親は痩せた。
父親は黙った。
村の者は、清太の家の前を避けて通るようになった。
そんなある日、旅の法師が村へ来た。
法師と言っても、寺にいるような僧ではなかった。
髪は短く、衣はくたびれていた。
杖をついていた。
背には、古い袋を負っていた。
年は分からない。
若いようにも見える。
老いているようにも見える。
顔は日に焼けていたが、目だけが妙に澄んでいた。
庄屋はその法師を泊めた。
夜、法師は笛の音を聞いた。
ひゅう。
ひゅう。
村の者は皆、震えた。
しかし法師は、囲炉裏の火を見たまま言った。
「これは、子供の笛ではない」
庄屋が訊いた。
「では、何でございます」
法師は答えなかった。
笛がまた鳴る。
ひゅう。
その音を聞いて、法師は少しだけ目を細めた。
「笛を吹いているものは、笛を持っておらぬ」
村の者には、意味が分からなかった。
法師は続けた。
「子供は、持っていかれたのだ」
「川に、でございますか」
「川ならまだよかった」
庄屋は顔色を変えた。
「川ではないのですか」
法師は囲炉裏の火を見ていた。
火の中で、薪がぱちりと鳴る。
「昔、この村で何をした」
誰も答えなかった。
誰も答えられなかった。
法師はゆっくり庄屋を見た。
「川が荒れるたびに、何かを沈めたはずだ」
庄屋の顔がこわばった。
村の年寄りたちも、目を伏せた。
しばらくして、一人の老婆が口を開いた。
「人柱のことかの」
その場が静かになった。
火だけが鳴っている。
ぱちり。
ぱちり。
法師は言った。
「話せ」
老婆は震える声で語り始めた。
それは、老婆が生まれる前の話であった。
この村では、たびたび洪水が起きた。
堤を築いても破れた。
土嚢を積んでも流された。
祈祷をしても効かなかった。
田は流され、人も流された。
その時、ある修験者が村へ来た。
修験者は言った。
川には、鎮めるべきものがある。
水を治めるには、柱を立てねばならぬ。
木の柱ではない。
人の柱である。
村は震えた。
だが、その年も雨は降り続いていた。
川は、今にも村を呑もうとしていた。
誰かが言った。
ひとりで済むなら。
また誰かが言った。
村が残るなら。
そして、ひとりの娘が選ばれた。
身寄りの薄い娘だった。
名は、おゆき。
器量はよかったが、家は貧しかった。
おゆきは、泣かなかったという。
泣けば、村の者が困ると思ったのか。
それとも、泣く力もなかったのか。
誰にも分からない。
修験者は、川の神へ捧げるのだと言った。
手順がある。
時刻がある。
方角がある。
唱える言葉がある。
水へ沈めるものがある。
守るべき禁がある。
しかし、村の者たちは恐れていた。
恐れすぎていた。
雨は強い。
川は近い。
早くしなければ堤が破れる。
そう思った。
手順は急がれた。
時刻はずれた。
方角は違えられた。
唱える言葉は、半ばで途切れた。
おゆきは、川へ沈められた。
その時、修験者は叫んだという。
違う。
まだだ。
それではない。
だが、声は雨に消えた。
おゆきは沈んだ。
その夜、川は鎮まった。
村は救われた。
だから村人は、正しく捧げられたのだと思った。
修験者は翌朝には姿を消した。
逃げたのか。
流されたのか。
それも分からない。
ただ、それ以来、川はしばらく荒れなかった。
人柱は効いた。
そう村では語られた。
だが、法師は首を振った。
「効いたのではない」
老婆が震えた。
「では」
「食ったのだ」
誰も声を出さなかった。
法師は低く言った。
「川の神に捧げたのではない」
火が、また鳴った。
「手順を違えたことで、別のものへ渡った」
庄屋は唇を白くした。
「別のものとは」
法師は答えた。
「名を持たぬものだ」
「神ではないのですか」
「神ではない」
法師はきっぱりと言った。
「神として祀られたものではない。名を与えられたものでもない。ただ、古くから水の底にいるものだ」
囲炉裏の火が小さくなった。
「腹を空かせたものだ」
その夜、笛は鳴らなかった。
村の者は、かえって眠れなかった。
笛が鳴らぬ夜は、静かすぎた。
静かすぎる夜は、何かが近くにいる。
そう感じさせた。
⸻
翌朝、法師は清太の家へ行った。
父親と母親は、痩せていた。
法師は何も慰めなかった。
慰めるには、遅すぎた。
ただ、清太の笛を見せてくれと言った。
母親は竹笛を出した。
泥の詰まった笛である。
法師はそれを受け取った。
笛の穴を見る。
泥は乾いていなかった。
三日も前に拾われた笛である。
囲炉裏のそばに置かれていたのに、泥は濡れていた。
法師は、笛を耳元へ近づけた。
音はしない。
だが、法師は眉をひそめた。
「まだ、息を吸っている」
母親が泣いた。
「清太は、そこにおりますか」
法師は答えなかった。
父親が拳を握った。
「返してもらえますか」
法師は、ゆっくり父親を見た。
「何を」
「清太を」
法師は何も言わない。
「何でもします」
父親は言った。
「川へでも、何へでも、頭を下げます」
「頭を下げて返すものなら、初めから取らぬ」
父親は黙った。
法師は笛を布に包んだ。
「今夜、川へ行く」
母親が顔を上げる。
「清太に会えますか」
「会えるかもしれぬ」
「本当ですか」
「会えることが、よいこととは限らぬ」
母親は、それでもうつむいた。
会えるかもしれない。
その言葉だけで、母親は立っていられなくなった。
夜になると、村の者は川辺へ集まった。
雨は降っていなかった。
雲は低かった。
川は静かだった。
静かすぎた。
水面には、月が映っている。
月は丸くない。
欠けた月だった。
法師は土手に立った。
手には、清太の笛がある。
庄屋が問う。
「何をなさる」
法師は言った。
「返す」
「笛を?」
「呼び口を」
村人は分からなかった。
法師は説明しなかった。
川へ向かって、笛を置いた。
それから、古い言葉を唱えた。
その言葉は、経ではなかった。
祝詞でもなかった。
村の者には、ただ低い声に聞こえた。
川の音と混じり、地の底へ落ちていくような声であった。
しばらくすると、川面に波が立った。
風はない。
魚でもない。
水の下で、何かが動いた。
法師は唱え続ける。
その時、川の方から声がした。
やろか。
村人が震えた。
やろか。
やろか。
法師は唱えるのをやめた。
声は続いた。
やろか。
それは、今までよりも近かった。
川の中からではない。
川そのものが口になっているようだった。
法師は言った。
「いらぬ」
庄屋が目を剥いた。
返事をしてはならぬ。
そう言い伝えられていたからだ。
だが法師は、もう一度言った。
「いらぬ」
川が膨れた。
水面が盛り上がる。
月が歪む。
笛が鳴った。
ひゅう。
誰も吹いていない。
土手に置かれた笛が、ひとりでに鳴った。
ひゅう。
ひゅう。
母親が叫びかけた。
父親が口を押さえた。
笛の音の中に、子供の息が混じっている。
清太の息だ。
誰もがそう思った。
「返せ」
父親が言った。
法師が振り返る。
「言うな」
だが遅かった。
父親は川を見ていた。
目は見開かれ、顔は濡れていた。
「清太を返せ」
川が笑った。
そう見えた。
やろか。
声がした。
父親は、はっとした。
自分が返事をしたことに気づいたのだ。
笛が激しく鳴った。
ひゅう。
ひゅう。
ひゅう。
川面が割れた。
水の中から、白いものが浮かんだ。
小さな手だった。
子供の手である。
母親が崩れ落ちる。
父親は駆け出そうとした。
法師が杖で父親の胸を突いた。
父親は倒れた。
怒って法師を見る。
法師は父親を見ていなかった。
川を見ていた。
「違う」
法師は言った。
「清太ではない」
白い手が、水面を叩いた。
ぱしゃり。
ぱしゃり。
そのたびに、笛が鳴る。
水の中から、顔が浮かんだ。
子供の顔に見えた。
清太の顔に見えた。
だが、目がなかった。
目のあるべきところに、泥が詰まっていた。
口だけが笑っている。
母親が悲鳴をあげた。
法師は笛へ手を伸ばした。
だが、その前に、川から別の声がした。
「寒い」
それは、女の声だった。
村の者が固まった。
「寒い」
声は、川底から上がってくる。
若い女の声である。
「まだ、寒い」
老婆が泣き崩れた。
「おゆきじゃ」
誰かが言った。
人柱にされた娘。
おゆき。
その名が出た瞬間、川面が一面、白く泡立った。
泡の中に、いくつもの手が見えた。
子供の手。
女の手。
男の手。
老人の手。
清太だけではない。
おゆきだけでもない。
これまで川に呼ばれたもの。
返事をしたもの。
流されたもの。
それらが、川の下にいた。
正しく弔われず、正しく神へも届かず、名を持たぬものの腹の中にいた。
法師は低く呟いた。
「多すぎる」
その声には、初めて迷いがあった。
庄屋が叫んだ。
「どうすれば」
法師は答えた。
「名を呼ぶな」
「え」
「名を呼べば、それが返ってくる」
「返ってくるなら」
「違うものが、その名を着て返ってくる」
村の者は口を閉じた。
母親は震えていた。
清太、と呼びたかった。
呼びたかったが、呼ばなかった。
父親が、母親の肩を抱いた。
その時、笛がまた鳴った。
今度は、悲しい音だった。
短く、細く、途切れそうな音。
ひゅう。
法師は目を閉じた。
「子供は、まだ奥にいる」
母親が息を呑む。
「けれど、呼んではならぬ」
「では、どうすれば」
母親は言った。
法師は、笛を持ち上げた。
「こちらから、呼ばれに行く」
父親が顔を上げる。
「どういうことです」
法師は答えなかった。
笛を口に当てる。
村の者たちは、息を止めた。
夜に笛を吹いてはならぬ。
川辺で笛を吹いてはならぬ。
呼ばれる。
そう言われてきた。
法師は、その禁を破った。
笛が鳴った。
清太の笛である。
だが、音は清太のものではなかった。
低く、深く、川底へ沈む音だった。
ひゅう。
音が川へ入る。
水面が震える。
泡が割れる。
白い手が引く。
女の声が遠ざかる。
法師は吹き続けた。
音は、悲しみでも怒りでもなかった。
ただ、道を示す音であった。
来い、と呼ぶ音ではない。
帰れ、と追う音でもない。
ここではない。
そう告げる音だった。
川面の泡が、少しずつ中央へ寄っていく。
そこに、黒い穴が開いた。
水の穴である。
底は見えない。
その穴の中から、声がした。
やろか。
法師は笛を吹いたまま、首を振った。
穴の奥で何かが動く。
大きい。
魚ではない。
蛇でもない。
人でもない。
形は見えない。
見えないが、そこにいる。
腹を空かせたもの。
神ではないもの。
名を持たぬもの。
人柱を食い、返事を食い、笛を食い、名を食ってきたもの。
それが、穴の奥から法師を見ていた。
法師は笛を吹き続けた。
音がかすれる。
唇から血が流れる。
それでも吹く。
村の者は誰も動けなかった。
やがて、穴の奥から、何かが伸びた。
水でできた腕のようなものだった。
それが、法師の足首へ絡む。
法師は笛を止めない。
もう一本、伸びる。
腰へ。
胸へ。
首へ。
法師の身体が少しずつ川へ引かれる。
庄屋が叫ぶ。
父親が走ろうとする。
だが、母親が止めた。
父親は母親を見た。
母親は泣いていた。
泣きながら、首を振った。
今、止めてはならぬ。
そう分かっていたのだ。
法師は川へ入った。
膝まで。
腰まで。
胸まで。
それでも笛は鳴っている。
ひゅう。
ひゅう。
音は、だんだん遠くなる。
川の中へ入っていく。
その時、穴の奥から、小さな影が出た。
子供の影だった。
清太であった。
泥だらけであった。
目は閉じている。
口も閉じている。
けれど、顔は穏やかだった。
母親は声を出さなかった。
父親も出さなかった。
清太の影は、法師の笛の音に導かれるように、川面の上へ浮かんだ。
それから、ふっと消えた。
母親は膝をついた。
父親も膝をついた。
笛の音は、まだ鳴っている。
法師の姿は、もう肩まで水に入っていた。
最後に、法師は笛を川岸へ投げた。
笛は土手に落ちた。
その瞬間、法師の姿が沈んだ。
水が閉じた。
穴も閉じた。
声も消えた。
川は、ただの川になった。
土手の上に、笛があった。
泥は詰まっていなかった。
洗ったように、きれいであった。
⸻
それから、村ではしばらく洪水が起きなかった。
笛の音も聞こえなくなった。
清太の母親は、竹笛を家に置かなかった。
川へ流すこともしなかった。
寺へ納めることもしなかった。
村外れの小さな塚に埋めた。
その塚は、清太の墓ではない。
法師の墓でもない。
おゆきの墓でもない。
誰の墓でもない。
ただ、呼ばれていったものたちのための塚であった。
村の者は、そこへ花を供えた。
米を供えた。
水は供えなかった。
水を供えてはいけない。
そう決めた。
水は、もう十分であったからだ。
やがて年月が経った。
村は変わった。
堤は高くなった。
橋がかかった。
家も増えた。
昔の塚は、草に埋もれた。
誰も手を合わせなくなった。
人柱の話も、だんだん語られなくなった。
おゆきの名も、清太の名も、旅の法師のことも、忘れられていった。
ただ、ひとつだけ、言葉が残った。
大雨の夜、川の方から声がする。
やろか。
やろか。
そう聞こえても、返事をしてはならぬ。
それだけは残った。
なぜ返事をしてはならぬのか。
誰が最初に呼ばれたのか。
何が川の底にいるのか。
それを知る者はいなくなった。
人は、理由を忘れても、怖さだけは残す。
怖さだけが、昔話になる。
今でも、雨の強い夜。
川の近くで、笛の音を聞いたという者がいる。
ひゅう。
ひゅう。
細い竹笛の音である。
子供が練習しているような、少し拙い音だという。
だが、夜に川辺で笛を吹く子供など、今はいない。
その音を聞いた者は、たいてい同じ夢を見る。
黒い川。
欠けた月。
土手の上の竹笛。
そして、川の中から上がる声。
やろか。
夢の中で、返事をしてはならぬ。
言葉で返してもならぬ。
泣いてもならぬ。
笑ってもならぬ。
笛を吹いてもならぬ。
ただ、目を伏せる。
耳を塞ぐ。
息を殺す。
声が遠ざかるまで、待つ。
もし、待てなかったなら。
もし、返してしまったなら。
朝、枕元に泥が落ちている。
黒い泥である。
濡れている。
雨も降っていないのに、濡れている。
その泥の中から、小さな音がする。
ひゅう。
ひゅう。
笛の音である。
そして、遠くで水が笑う。
やろか。
やろか。
いるか。
いるか。
そう聞こえる夜が、今もあるという。




