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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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11/20

蟄虫啓戸 一 【戸の内】

蟄虫啓戸すごもりむしとをひらく

春の家には、音がある。


冬のあいだ閉じていた戸が、少しゆるむ。


畳が湿る。


柱が鳴る。


庭木の枝が、風にこすれる。


どの音も、たいしたものではない。


家に住んでいる者なら、すぐに慣れる。


古い家なら、なおさらである。


家というものは、黙っているようで、黙ってはいない。


夜になれば鳴る。


朝になれば軋む。


雨が近づけば、湿った息をする。


だから、多少の物音がしたところで、人はそれを家の音だと思う。


けれど。


家の音でないものが、家の音に混じりはじめた時。


人は、それを聞き分けることができない。


聞き分けられないまま、少しずつ眠れなくなる。


少しずつ、食べられなくなる。


少しずつ、部屋から出られなくなる。


和田和夫から電話があったのは、昼を過ぎた頃だった。


藤原六郎は、藤原珈琲のカウンターで、洗い終えたカップを棚へ戻していた。


客は少ない時間である。


窓の外には、薄い春の日が差していた。


春というにはまだ風が冷たい。


けれど、冬ではない。


そういう日だった。


携帯が震えた。


画面に出た名前を見て、六郎は少し手を止めた。


和田和夫。


以前、百合と共に訪ねた家の主である。


妻を亡くした男だった。


あの家では、咲くはずのない山茶花の花が、玄関に落ち続けていた。


落ちて、増えて、家の中に残っていたものを知らせていた。


六郎は、その時のことを思い出した。


玄関に落ちた花。


朝の気配。


誰もいないはずの家に残っていた生活の形。


そして、静かに立っていた百合の横顔。


電話に出る。


「もしもし」


しばらく返事がなかった。


息だけが聞こえた。


浅い息だった。


「和田さん?」


六郎が言うと、ようやく声がした。


「藤原さん」


かすれていた。


以前の和田の声ではなかった。


喉の奥を乾いた布で擦ったような声である。


「どうしました」


また沈黙。


その向こうで、何かが鳴った。


小さな音だった。


ぽとり。


何かが落ちる音。


六郎は、耳に携帯を当てたまま動けなくなった。


「今の」


「聞こえましたか」


和田の声が、急に近くなった。


「聞こえました」


「またです」


「何が落ちたんですか」


「分かりません」


「見ていないんですか」


「見られません」


和田の息が乱れる。


「見ると、向こうも気づくんです」


六郎は黙った。


店の奥から、母がこちらを見ている。


六郎は軽く手を上げ、大丈夫だと示した。


大丈夫ではなかった。


「百合さんに連絡します」


「来ていただけますか」


「はい」


「早く」


和田は、ほとんど囁くように言った。


「もう、出てきます」


「何がですか」


「分かりません」


声が震えた。


「分からないものが、出てくるんです」


通話はそこで切れた。


六郎は、しばらく携帯を見ていた。


画面はすぐに暗くなった。


暗くなった画面に、自分の顔が映る。


少し強張っていた。


「六郎」


母が言った。


「行くのね」


「うん」


「百合さん?」


「連絡する」


「そう」


母はそれ以上聞かなかった。


ただ、棚に戻しかけていたカップを受け取った。


「店はいいよ」


「ありがとう」


「気をつけて」


六郎はうなずいた。


それから、百合に連絡を入れた。


返事は短かった。


行きましょう。


それだけだった。



和田家は、以前訪ねた時と同じ場所にあった。


当たり前のことなのに、六郎には少し意外だった。


あれだけのことがあった家が、同じように門を構え、同じように庭を持ち、同じように静かに建っている。


そのことが、妙に怖かった。


家の外観は変わっていない。


古いが、手入れの行き届いた家である。


塀の内側には庭木が見えた。


山茶花の木もあった。


以前は、あの木と玄関のあいだに、花が落ちていた。


咲くはずのない時期に。


落ちるはずのない場所に。


ひとつ。


またひとつ。


誰かが、朝ごとに置いていくように。


今は、何もない。


玄関前の石畳は、きれいだった。


花びらもない。


萼もない。


葉も落ちていない。


落ち葉すら少ない。


きれいすぎるほど、きれいだった。


六郎は、それが嫌だった。


「落ちてませんね」


「ええ」


百合は門の前で立ち止まった。


「終わったんでしょうか」


「そう見える?」


六郎はもう一度、玄関の前を見た。


白い石。


濡れていない。


汚れていない。


何も落ちていない。


「見えないです」


「そう」


百合は門をくぐった。


六郎も続く。


庭は静かだった。


春の庭である。


どこかに虫がいてもよさそうだった。


鳥が鳴いてもよさそうだった。


けれど、何も聞こえない。


いや。


聞こえないのではない。


遠い。


すべての音が、遠くに押しやられている。


風の音も。


車の音も。


自分たちの足音でさえ、家へ近づくにつれて、薄くなっていくようだった。


六郎は耳の奥に圧を感じた。


水の中へ入る時に似ている。


深いところへ潜る前の、あの感じ。


「百合さん」


「なに」


「音が、遠いです」


「そう」


百合は玄関を見ていた。


「入る前から?」


「はい」


「なら、中はもっと遠いわね」


「嫌な言い方ですね」


「ええ」


百合は呼び鈴を押した。


音は鳴ったはずだった。


けれど六郎には、途中で吸われたように聞こえた。


奥まで届かない。


届く前に、廊下のどこかで落ちた。


そういう鳴り方だった。


しばらくして、玄関の向こうで音がした。


鍵が回る音。


チェーンが外れる音。


それから、戸が少しだけ開いた。


隙間から顔が出た。


和田和夫だった。


六郎は、一瞬、誰か分からなかった。


痩せていた。


頬がこけ、顎の線が浮いている。


髪は乱れ、無精髭が伸びていた。


肌は白い。


ただの白さではない。


家の中で陽に当たらずにいた者の白さである。


しかし目だけが違った。


ぎらぎらとしていた。


眠っていない目。


見すぎた目。


見たくないものを見続けた目。


「宇喜田さん」


和田は、百合を見て少しだけ息を吐いた。


それから六郎を見る。


「藤原さんも」


「和田さん」


六郎は言った。


「大丈夫ですか」


和田は笑おうとした。


笑えなかった。


口の端だけが引きつった。


「大丈夫なら、お呼びしません」


それは冗談の形をしていた。


けれど、冗談ではなかった。


戸が開く。


中から、冷えた空気が流れてきた。


外より寒い。


六郎は思わず息を止めた。


玄関は暗かった。


昼間なのに、暗い。


廊下の奥に明かりはついている。


だが、その明かりがこちらまで届いていない。


途中で弱くなっている。


「どうぞ」


和田が言った。


その声は、小さかった。


中へ入る。


玄関には、何も落ちていなかった。


山茶花の花もない。


靴もきちんと揃えられている。


けれど、生活の匂いがなかった。


人が住んでいる匂いが、薄い。


食事の匂い。


洗濯の匂い。


湯を沸かした匂い。


そういうものが、ほとんどない。


代わりに、線香の匂いがした。


古い紙の匂いもある。


それから、湿った畳の匂い。


「こちらです」


和田は廊下へ出ず、玄関脇の和室へ向かった。


襖は半分だけ開いている。


その中へ入る。


六郎は部屋を見て、言葉を失った。


和室の中央に、座布団が一枚ある。


その周囲を囲むように、塩の盛られた皿が置かれていた。


四隅。


襖の前。


障子の前。


床の間の手前。


塩は白い。


だが、いくつかは湿って固まっていた。


新聞紙が敷かれている。


古い札が壁に貼られている。


どこで手に入れたものか分からない。


神社の札。


寺の札。


民間のまじないのような紙。


そのどれもが、少し曲がっている。


焦って貼ったのだろう。


床の間には、妻の位牌があった。


小さな湯呑みもある。


湯は入っていない。


だが、湯呑みの縁だけが濡れている。


六郎は、それを見た。


「ここに、ずっと?」


「はい」


和田は座布団の横に膝をついた。


座る場所も決まっているようだった。


「この部屋だけは、まだ入ってきません」


「まだ」


六郎が言うと、和田はすぐに顔を上げた。


「ええ」


目がぎらつく。


「まだ、です」


百合は部屋の入口に立っていた。


すぐには中へ入らない。


畳を見る。


壁を見る。


床の間を見る。


それから、障子を見る。


「眠れていますか」


「眠ると、近づいてきます」


「食事は」


「台所には、昼に行きます」


「夜は」


和田は首を振った。


「夜は、廊下に出ません」


「風呂は」


「無理です」


和田は笑った。


今度は、声だけ少し笑っていた。


「風呂場に、います」


六郎は、廊下の奥を見た。


何も見えない。


ただ、暗い。


「何がいるんですか」


「分かりません」


「見たんですよね」


和田は、六郎を見た。


その目が少しだけ変わる。


「藤原さんは、聞こえるんですよね」


六郎は答えられなかった。


和田は、ゆっくり言った。


「私は、見えるんです」


百合は黙っていた。


和田は続ける。


「最初は、見えませんでした。音だけでした。歩く音。擦る音。天井を這う音。襖の前で止まる気配」


そこで言葉が切れた。


喉が詰まったようだった。


「それだけなら、まだよかった」


六郎は、聞いていた。


聞くしかなかった。


「ある夜、障子に映ったんです」


和田は障子を見た。


六郎も見る。


障子は閉まっている。


外は庭である。


今は何も映っていない。


「人の影でした」


「人」


「いいえ」


和田はすぐに否定した。


「人に見える形でした」


六郎の背中に、冷たいものが走った。


「細いんです。とても。背が高くて、天井に届いていました。でも、頭がつかえているんじゃない」


和田は、自分の背中を少し丸めた。


「折っているんです」


「何を」


「背を」


和田は囁いた。


「天井のところで、こう、折り畳んでいる」


部屋が、さらに静かになった。


「関節が、おかしいんです。首なのか、背中なのか、腰なのか分からないところで曲がっていて、腕が長くて、指が床に届きそうで」


和田の声が震える。


「障子の向こうで、じっと立っていました」


「庭に?」


「違います」


和田は、ほとんど泣きそうな顔で言った。


「家の中です」


六郎は息を呑んだ。


障子の向こうが庭ではないことに、今さら気づいた。


この障子は、縁側に面している。


その向こうは庭だ。


だが和田の言い方は違った。


家の中にいるものが、障子へ映っていた。


そう言っている。


「その時、分かったんです」


和田は言った。


「こっちを見ているって」


「顔は」


「見えません」


「影なのに?」


「影なのに、分かるんです」


六郎は何も言えなかった。


和田は、障子から目を離せない。


「見ていました。私を。ずっと」


その時だった。


廊下の奥で、音がした。


す。


六郎の耳が、その音を拾った。


小さな音。


足音ではない。


畳でもない。


床板を踏む音でもない。


何か長いものが、廊下を撫でる音。


す。


もう一度。


和田の顔から血の気が引いた。


「今のです」


六郎は廊下を見た。


何も見えない。


ただ、音が来る。


す。


止まる。


また、


す。


近づいているのか。


遠ざかっているのか。


分からない。


「見えますか」


和田が囁いた。


六郎は首を振った。


「見えません」


「いるんです」


「はい」


「見えないんですか」


「でも」


六郎は耳を澄ませた。


廊下の奥。


水回りの方。


暗い場所。


そこで、何かが止まった。


音が途切れる。


途切れたことが、何より嫌だった。


「聞こえます」


和田は目を閉じた。


「よかった」


「よかった?」


「私だけじゃない」


その言葉が、六郎には痛かった。


和田は、ずっとひとりで見ていたのだ。


誰にも分からないものを。


誰にも言えないものを。


そして、自分がおかしいのかもしれないと思いながら。


廊下の奥で、また音がした。


今度は、上だった。


天井裏。


かさ。


ではない。


ず。


湿った布を引きずるような音。


和田が両手で耳を押さえた。


「上にもいます」


百合が、初めて畳へ足を踏み入れた。


すっと入る。


塩の皿を避ける。


位牌の前に座る。


手を合わせる。


短く。


それから、顔を上げた。


「花は」


「え?」


「山茶花は、もう落ちませんか」


和田は、少し遅れて頷いた。


「落ちません」


「いつから」


「音が、始まってからです」


「そう」


百合は障子を見た。


「落ちなくなって、歩きはじめたのね」


六郎は百合を見た。


「どういう意味ですか」


百合は答えなかった。


その時。


ぽとり。


何かが落ちた。


廊下だった。


部屋の外。


襖のすぐ向こう。


畳ではない。


板の上に、小さなものが落ちる音。


和田は全身を強張らせた。


「拾わないでください」


誰も動いていないのに、そう言った。


「拾うと」


声が掠れる。


「増えます」


六郎は襖の隙間を見る。


廊下の板の上。


黒い小さな塊が落ちていた。


土の粒のようにも見える。


種のようにも見える。


虫の抜け殻が濡れて丸まったものにも見える。


だが、何であるとも言えない。


それはただ、そこに落ちていた。


ぽとり。


また落ちた。


今度は少し遠い。


廊下の奥。


ぽとり。


さらに奥。


家のどこか。


ぽとり。


和田は震えていた。


百合は立ち上がらない。


ただ、廊下を見ている。


六郎は、音の間隔を聞いていた。


落ちる。


止まる。


落ちる。


止まる。


まるで、家の奥から、少しずつ何かが近づいてくる目印のようだった。


「これは」


六郎が言いかける。


百合が静かに言った。


「もう、家の中にいるわ」


和田が目を閉じた。


六郎は、廊下の黒い粒から目を離せなかった。


家は静かだった。


静かすぎた。


その静けさの中で、天井裏から、長いものが身を折るような音がした。


ぎし。


ぎし。


そして、障子に。


細い影が、ほんの一瞬だけ映った。


和田が息を止める。


六郎には、見えたのかどうか分からなかった。


けれど、聞こえた。


障子の向こうで、何かが首を曲げる音がした。



































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