蟄虫啓戸 二【畳の下】
蟄虫啓戸
ぽとり。
また、落ちた。
今度は、廊下ではなかった。
もっと奥である。
台所の方か。
洗面所の方か。
あるいは、もっと遠い部屋の中か。
音は小さい。
小さいのに、家の中ではやけに響いた。
和田和夫は、そのたびに肩を震わせた。
六郎は、襖の隙間から廊下を見ていた。
廊下は暗い。
昼間である。
外には春の光がある。
庭の木々にも、門の外の道にも、陽は落ちているはずだった。
それなのに、廊下だけが暗い。
暗いというより、光がそこへ入ることを嫌がっているように見える。
百合は、廊下へ出ようとはしなかった。
ただ、畳の上に座り、床の間の位牌を見ている。
位牌の前には、湯呑みが一つ。
湯は入っていない。
けれど、縁だけが濡れている。
六郎はそれが気になった。
「その湯呑み」
言いかけると、和田がすぐに顔を上げた。
「触らないでください」
声が鋭かった。
六郎は手を止める。
「すみません」
「いえ」
和田は、すぐに目を伏せた。
「すみません。強く言うつもりは」
「大丈夫です」
「触ると、濡れるんです」
「濡れる?」
「指が」
和田は、自分の手を見た。
指先は細く、爪の周りが荒れている。
「水ではないんです」
六郎は聞き返さなかった。
和田も、それ以上言わなかった。
百合が静かに訊いた。
「いつから、ここに?」
「二週間ほど前からです」
「ずっと?」
「ほとんど」
和田は、少し恥じるように笑った。
笑いになっていなかった。
「食事は、昼に台所へ行きます」
「夜は?」
「行きません」
「水は」
「この部屋に置いています」
「風呂は」
和田は首を振った。
「風呂場には、行けません」
「いるの?」
百合の声は変わらなかった。
和田は、その言葉に喉を鳴らした。
「はい」
「何が」
「見ました」
「どこで」
「鏡に」
六郎は、思わず和田の顔を見た。
和田は話しながら、どこかを見ている。
ここではない。
自分の記憶の中にある風呂場を見ているようだった。
「最初は、湯気だと思いました」
「湯気」
「はい。鏡が曇っていたので」
和田の指が、膝の上で小さく動く。
「でも、湯を張っていなかったんです」
六郎の耳の奥で、何かが鳴ったような気がした。
「風呂場に入ると、鏡だけが曇っていました。そこに、こう」
和田は指で、空中に細い線を描いた。
縦に。
長く。
「人の形が」
「映ったんですか」
六郎が訊く。
「いいえ」
和田は首を振った。
「映らなかったんです」
「どういうことですか」
「私の後ろに立っているなら、鏡に映るでしょう」
和田は六郎を見た。
目が、濡れたように光っている。
「でも、鏡には私しか映っていなかった」
「それなら」
「なのに、鏡の曇りだけが、指でなぞられたみたいに消えていくんです」
和田は、また空中をなぞった。
「頭の形。肩。腕。長い腕。首のところで、一度、折れて」
言葉が止まる。
「そこに、いる形だけが、鏡の曇りを消していました」
六郎は、何も言えなかった。
百合は、ただ聞いていた。
「それから、風呂場には行っていません」
和田は言った。
「行くと、鏡が曇っています」
「毎回?」
「はい」
「水を使っていなくても?」
「はい」
百合は、湯呑みを見た。
「水が好きなのかしら」
「やめてください」
和田が言った。
声が、少しだけ震えていた。
「すみません。宇喜田さん」
「いいえ」
百合は静かに返した。
「嫌なら、言っていいわ」
和田は、かすかにうなずいた。
⸻
和室は、和田が作った小さな砦だった。
塩。
札。
新聞紙。
線香。
湯呑み。
位牌。
それらが、部屋の境目を示すように置かれている。
ただし、守られているという感じは薄い。
むしろ、包囲されているように見えた。
六郎は畳の目を見ていた。
畳は古い。
しかし、傷んではいない。
和田がきちんと暮らしてきた家だ。
掃除もされていたのだろう。
以前来た時には、そういう家だった。
妻のいない家に、妻の習慣だけが残っていた。
庭を整える気配。
玄関を掃く気配。
朝の準備をする気配。
和田は、それを怖がりながらも、どこかで手放せずにいた。
だが、今は違う。
残っていたものは、暮らしの形ではなくなっている。
もっと別のものになっている。
六郎は、そう感じた。
「この黒いものは」
百合が言った。
畳の端に、黒い粒がひとつ挟まっていた。
和田の顔が変わった。
「入ってきた」
声が小さくなる。
「ここにも」
百合は手を伸ばさなかった。
六郎も、触らなかった。
黒い粒は、畳の目の間に入り込んでいる。
廊下に落ちていたものより小さい。
土の粒のようである。
けれど、土にしては黒すぎる。
種にも見える。
虫の糞にも見える。
何かが生まれた後の殻にも見える。
見れば見るほど、何であるか分からなくなる。
「これも、落ちてくるんですか」
六郎が訊いた。
和田はうなずいた。
「はじめは廊下だけでした」
「はい」
「それから、台所。洗面所。仏間。寝室」
「この部屋は?」
「なかったんです」
和田は黒い粒を見つめた。
「昨日までは」
百合が、畳の目を見たまま言った。
「境目が薄くなっているのね」
「境目?」
六郎が訊く。
百合は答えなかった。
和田は、両手を膝の上で握っている。
「宇喜田さん」
「ええ」
「これは、妻ですか」
部屋の空気が止まった。
六郎は、百合を見た。
百合はすぐには答えなかった。
和田の目は、百合を見ている。
怖がっている。
だが、答えを欲しがってもいる。
もし妻なら。
もし妻が残っているなら。
その恐怖の中にも、すがる場所がある。
六郎には、そう思えた。
百合は静かに言った。
「奥さんではないわ」
和田の表情が、わずかに崩れた。
安堵ではない。
悲しみでもない。
両方が混じっていた。
「では」
「奥さんがいた形に、別のものが入ったのかもしれない」
「別のもの」
「ええ」
「何ですか」
「まだ、名はないわ」
和田の喉が動いた。
「名がないものは、どうすればいいんですか」
「近づかないこと」
百合の声は、いつもより少し早かった。
六郎はそれに気づいた。
百合は、まだ祓うとも鎮めるとも言っていない。
ただ、近づかないこと、と言った。
「この部屋からも?」
和田が訊く。
「ええ」
「でも、ここしか」
「ここも、もう駄目よ」
和田は黙った。
百合の言葉は、きつくはなかった。
けれど、退路を断つ言い方だった。
「宇喜田さん」
和田は、位牌の方を見た。
「私は、ここを出たら、あの人を置いていくことになりますか」
百合は、和田の視線を追った。
位牌がある。
小さく、静かに。
湯呑みの縁だけが濡れている。
「全部は持っていけないわ」
百合は言った。
「そうですね」
和田は小さく笑った。
「家ですから」
「でも」
百合は続けた。
「持っていっていいものはある」
和田が顔を上げる。
「位牌を」
「はい」
「それから、山茶花をひと枝」
和田の目が揺れた。
「山茶花を」
「ええ」
「持っていって、いいんですか」
「いいわ」
「また、何かが」
「起きるかもしれない」
百合はそう言った。
和田の顔がこわばる。
「それでも?」
「置いていく方が、よくない」
六郎は百合を見た。
その言い方は、百合らしかった。
怪異だから捨てるのではない。
怖いから遠ざけるのでもない。
持っていけるものと、置いていかなければならないものを分ける。
その分け方を間違えると、人は壊れる。
百合はたぶん、それを見ている。
和田は位牌を見た。
それから、障子の向こうを見た。
庭に山茶花がある。
花はない。
けれど、木はある。
妻が手入れしていた木。
和田も、それを知っている。
「外へ、出るんですか」
「ええ」
「庭へ」
「ええ」
和田は、何か言おうとした。
その時だった。
廊下の奥で、音がした。
ず。
何かを引きずる音。
重い。
湿っている。
長い。
和田の身体が固まった。
百合は障子を見た。
六郎は耳を澄ませた。
ず。
また音がする。
廊下ではない。
もっと上だ。
天井裏。
ず。
ず。
音が移動している。
和室の上へ。
六郎は、思わず天井を見た。
古い木目。
薄い染み。
何も見えない。
けれど、音はそこにある。
ず。
止まった。
和田が、かすかに首を振った。
「上にいます」
六郎は言った。
「見えるんですか」
「見えません」
「でも」
「見える前が、一番怖いんです」
和田は、そう言った。
次の瞬間。
天井のどこかで、小さな音がした。
ぽとり。
何かが落ちた音。
部屋の中だった。
六郎は、音のした方を見る。
畳の上。
百合のすぐ近く。
黒い粒が落ちている。
和田が息を止めた。
百合は、その粒を見た。
「この部屋に落ちたわね」
声は静かだった。
静かすぎた。
和田は、位牌の前へにじり寄った。
「宇喜田さん」
「ええ」
「出ます」
その声は震えていた。
けれど、はっきりしていた。
百合はうなずいた。
「今夜は待たない方がいいわ」
「今ですか」
「ええ」
「準備を」
「必要なものだけ」
百合は言った。
「持ちすぎると、掴まれる」
和田は顔を上げた。
「何に」
百合は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
⸻
荷物は少なかった。
いや、少なくしなければならなかった。
和田は最初、通帳や印鑑、衣類、薬、写真、妻の手帳、古いアルバム、家の権利書、いくつものものを持ち出そうとした。
そのたびに百合が、これは後で、と言った。
「後で、取りに来られますか」
和田が訊く。
百合は答えない。
代わりに、
「今、持つものを選んで」
と言った。
和田はその意味を理解した。
今、持って出られるもの。
今、手放してはいけないもの。
それは、多くない。
位牌。
財布。
携帯。
薬。
小さな鞄。
それから、山茶花の枝を包むための布。
和田は、位牌を両手で持った。
手が震えている。
六郎は玄関までの廊下を見た。
暗い。
さっきより暗い。
外の光はまだあるはずなのに、廊下だけが夜に近い。
「水を」
和田が言った。
六郎は振り返る。
「水?」
「薬を飲む水を、持っていきたいんです」
座卓の上に小さなペットボトルがある。
空だった。
和田は台所へ行けない。
六郎はそれを見て言った。
「僕が行きます」
和田の顔が強張った。
「やめた方が」
「すぐ戻ります」
百合が六郎を見た。
「六郎」
「はい」
「見ないこと」
「聞くのは?」
百合は少しだけ目を細めた。
「聞こえるでしょうね」
「ですよね」
「でも、追わないこと」
六郎はうなずいた。
ペットボトルを手に取り、廊下へ出る。
廊下は冷たかった。
空気が違う。
和室の中よりも、薄い。
息を吸うと、喉の奥に畳の埃のようなものが入る。
台所は廊下の先にある。
何度か来た家だ。
道順は分かる。
だが、今は家の形が少し違って感じられた。
廊下が長い。
角が遠い。
台所までの距離が、以前より伸びている。
六郎は足音を立てないように歩いた。
板が鳴る。
ぎし。
小さな音。
その音に、家が反応したような気がした。
廊下の奥で、何かが止まる。
六郎も止まった。
聞こえる。
す。
す。
どこかを撫でる音。
床ではない。
壁でもない。
もっと近い。
天井の端。
長いものが、天井と壁の境目を這っているような音。
六郎は見なかった。
百合に言われたからではない。
見るのが怖かった。
す。
音が移動する。
六郎の頭上を通った。
冷たいものが、首筋に落ちる。
水滴かと思った。
触らない。
六郎はそのまま歩いた。
台所へ着く。
蛇口をひねる。
水が出た。
普通の水の音。
じゃあ。
じゃあ。
その音だけが、妙に現実的だった。
ペットボトルに水を入れる。
半分ほど入った時、背後で音がした。
ぽとり。
六郎は振り返らなかった。
水を止める。
キャップを閉める。
また音がする。
ぽとり。
今度は、少し近い。
床に何かが落ちたのだ。
六郎は見ない。
見ないまま、和室へ戻ろうとした。
その時、廊下の先の障子に、影が映った。
見ないつもりだった。
だが、視界の端に入った。
細い。
長い。
人の形に似ている。
しかし、頭が天井のところで折れている。
折れているというより、畳まれている。
狭い箱の中に、無理やり長いものを押し込んだような形。
腕が下がっている。
長い腕だった。
指先が床に近い。
六郎は息を止めた。
影も止まった。
廊下の空気が、急に重くなる。
耳の奥で、自分の血の音がした。
どく。
どく。
それに混じって、別の音がする。
障子の向こう。
影の首が、ゆっくり曲がる音。
ぎ。
ぎ。
木が軋むような音。
骨ではない。
骨なら、まだましだと思った。
あれは骨でできていない。
六郎は、そう思った。
「六郎」
遠くから、百合の声がした。
静かな声。
だが、いつもより少しだけ強い。
「戻って」
六郎は返事をしなかった。
返事をすると、影に気づかれるような気がした。
もう気づかれているのかもしれない。
それでも、声を出せなかった。
六郎は一歩下がった。
影は動かない。
二歩。
まだ動かない。
三歩。
その時、影の腕が少しだけ伸びた。
障子の上で、腕の影が長くなる。
実際に伸びたのか。
光の加減なのか。
分からない。
分からないが、長くなった。
六郎は背を向けなかった。
横を向いたまま、ゆっくり戻る。
和室の襖が見えた。
百合が立っている。
和田は、部屋の奥で位牌を抱えて震えていた。
六郎が和室に入った瞬間、廊下の方で音がした。
ぽとり。
また落ちた。
今度は、襖のすぐ前だった。
六郎はペットボトルを和田に渡した。
手が冷たくなっていることに、その時気づいた。
「見ましたか」
和田が訊いた。
声はかすれていた。
六郎は、少し間を置いた。
「見た、というより」
「影を?」
六郎はうなずいた。
和田は目を閉じた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「宇喜田さん」
和田は百合を見た。
「さっきより、近いです」
百合は廊下を見た。
廊下には、黒い粒がひとつ落ちている。
襖のすぐ外。
境目のところ。
「ええ」
百合は言った。
「もう、待てないわ」
「どうしますか」
六郎が訊いた。
百合は、和田を見た。
「庭へ出ます」
和田は、位牌を抱えたまま固まった。
「今から?」
「ええ」
「庭へ」
「山茶花を持っていくのでしょう」
和田の顔が歪んだ。
怖いのだ。
それでも行かなければならない。
六郎にも分かった。
この部屋は、もう砦ではない。
畳の下から、黒い粒がひとつ。
また、顔を出した。
和田はそれを見た。
六郎には、音が聞こえた。
畳の下で、何か小さなものが戸を開ける音。
かり。
かり。
かり。
百合が言った。
「行きましょう」
和田は、位牌を胸に抱いた。
六郎は水の入ったペットボトルを鞄に入れた。
廊下の奥で、長いものが身を折る音がした。
ぎし。
ぎし。
家が、聞いていた。




