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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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13/20

蟄虫啓戸 三【影の背】

「持つものを決めて」


百合が言った。


その声は静かだった。


静かだったが、急いでいた。


和田和夫は、位牌を抱いたまま畳の上に座っていた。


座っているというより、そこに置かれているように見えた。


痩せた身体。


震える指。


落ちくぼんだ頬。


ぎらついた目。


その目だけが、今も家の中を見ている。


見ないようにしているのに、見えてしまう。


六郎には、そう分かった。


「持つもの」


和田は呟いた。


「はい」


「必要なものだけ」


百合は言った。


「必要なもの」


和田は、部屋の中を見た。


床の間。


位牌。


湯呑み。


壁に貼られた札。


新聞紙。


塩の皿。


小さな鞄。


積まれた書類。


古い写真立て。


妻の手帳らしきもの。


そういうものが、狭い和室の中に散らばっていた。


それらの多くは、和田にとって必要なものだったのだろう。


家から出られなくなってから、この部屋へ少しずつ集めたものだ。


生きるためのもの。


守るためのもの。


忘れないためのもの。


壊れないためのもの。


「全部は」


和田は言いかけて、黙った。


全部は持てない。


自分でも分かっている。


六郎はそれを見ていた。


和田の手は、位牌を離さない。


離せるわけがない。


「通帳と、印鑑と、薬と」


和田は、言葉を並べようとした。


「写真も」


百合は首を振った。


「写真は、あと」


「あとで取りに来られますか」


和田は訊いた。


百合は答えなかった。


答えないまま、位牌を見た。


「今、持つものを選んで」


和田は、唇を噛んだ。


その意味を理解した顔だった。


あとで取りに来られるかは分からない。


だからこそ、今持つものを選ばなければならない。


けれど、今持てるものは少ない。


少なすぎる。


畳の下で、音がした。


かり。


和田の目が揺れた。


六郎は、足元を見ないようにした。


音は畳の下からだった。


すぐ近い。


薄い板一枚の下で、小さな爪のようなものが何かを引っ掻いている。


かり。


かり。


和田が息を詰める。


百合が言った。


「薬を」


「はい」


「財布と携帯を」


「はい」


「位牌を」


和田は頷いた。


「これは、持ちます」


「それから、山茶花をひと枝」


その言葉に、和田の顔が歪んだ。


「庭へ、出るんですね」


「ええ」


「家の中を、通って」


「ええ」


「宇喜田さん」


和田は、障子を見ないようにしながら言った。


「今も、そこにいます」


六郎は障子を見た。


白い。


何も映っていない。


しかし、聞こえた。


障子の上のあたりで、何かが小さく身じろぎする音。


ぎ。


それは、細い枝が折れる音に似ていた。


だが枝ではない。


骨でもない。


何か長いものが、狭い場所でさらに身を折り込んだ音だった。


六郎の喉が乾く。


「聞こえます」


和田が、六郎を見た。


「どこに」


「障子の上です」


和田の顔色が変わった。


視線が、ゆっくりと上がりかける。


「和田さん」


六郎は低く呼んだ。


「見ない方がいいです」


和田は、目を閉じた。


「はい」


声が震えていた。


「見ない方がいい」


そう言いながら、まぶたの下で目が動いている。


見ようとしているのではない。


見えてしまうのを止めようとしている。


百合は、和田の前に膝をついた。


「和田さん」


「はい」


「これから立ちます」


「はい」


「障子の方は見ないで」


「はい」


「音がしても、見ないで」


「はい」


「六郎」


「はい」


「あなたは、聞こえたものを全部言わなくていいわ」


六郎は頷いた。


「分かりました」


「必要な時だけ」


「はい」


百合は立ち上がった。


和田が位牌を胸に抱く。


六郎は小さな鞄を持った。


中には、財布、薬、携帯、印鑑が入っている。


それだけだった。


部屋の隅に、写真立てが残っている。


和田はそれを見た。


見て、目を伏せた。


「ごめん」


誰に言ったのか分からない。


妻にか。


家にか。


自分にか。


その声が畳に落ちる。


その直後、床の下で、何かが応えるように鳴った。


かり。


百合が襖へ向かった。


襖を開ける。


廊下が見える。


暗い。


昼間のはずだった。


だが、廊下は夜に近かった。


板の間に、黒い粒がいくつも落ちている。


一つ。


二つ。


三つ。


最初に落ちた時より、明らかに増えていた。


六郎は数えないようにした。


数えれば、増える気がした。


「踏まないように」


百合が言った。


和田は頷いた。


廊下へ足を出す。


その瞬間、家の奥で音がした。


ぽとり。


和田の足が止まる。


百合は振り返らない。


「見ないで」


「はい」


ぽとり。


今度は近い。


六郎には分かった。


台所の方だ。


何かが、ひとつ落ちた。


床へ。


あるいは、敷居へ。


あるいは、こちらへ続く廊下の先へ。


「六郎」


百合が言った。


「はい」


「道は」


六郎は耳を澄ませた。


廊下の奥。


台所。


洗面所。


風呂場。


天井裏。


壁の中。


音がある。


音が多すぎる。


全部を聞こうとすると、耳の奥が痛くなる。


六郎は、息を整えた。


近い音だけを拾う。


廊下。


障子。


天井。


畳の下。


今、三人が通る場所。


「右の奥は、音がします」


「左は」


「今は、ありません」


「では、左へ」


百合は迷わなかった。


六郎は、和田の背に手を添えた。


「行きましょう」


和田は頷いた。


「はい」


廊下を進む。


一歩。


二歩。


三歩。


足の裏に、板の冷たさが伝わる。


和田は位牌を抱えたまま、目を伏せて歩いた。


見るな。


見るな。


そう自分に言い聞かせているのが、背中から伝わる。


廊下の先に、庭へ出るための障子があった。


山茶花の木は、その向こうにある。


ただし、そこへ行くには、例の障子の前を通らなければならない。


和田が見たという影。


天井で背を折り畳んでいたもの。


それが映った障子である。


百合は、その前で足を止めた。


六郎も止まる。


和田も止まった。


障子は白い。


何も映っていない。


だが、音がした。


ぎ。


障子の上。


それから、


す。


障子の向こう。


何かが位置を変えた。


六郎は息を止めた。


百合は動かない。


和田は、目を伏せている。


けれど、その顔が少しずつ青くなっていく。


「映っていますか」


六郎は小さく訊いた。


和田は答えない。


答えないことが、答えだった。


六郎には見えない。


ただの白い障子にしか見えない。


けれど和田には見えている。


細く、長く、天井で折れたものが。


こちらを見ているものが。


「どのあたりですか」


六郎は訊いた。


「言わないで」


和田が、かすれた声で言った。


「言うと、近くなります」


六郎は口を閉じた。


百合が言う。


「通ります」


和田が首を振る。


「無理です」


「通ります」


「宇喜田さん」


「ここで止まる方が危ないわ」


和田は唇を噛んだ。


障子の向こうで、何かが動く。


ぎ。


ぎ。


今度は、音が低い。


身を折る音ではない。


さらに、折り畳んだものをほどく音。


六郎は、そう感じた。


長いものが、少しずつ伸びている。


伸びて、障子一枚の向こうへ近づいている。


「近いです」


六郎は言った。


百合が一度だけ頷く。


「和田さん」


「はい」


「位牌を離さないで」


「はい」


「六郎」


「はい」


「後ろを見て」


「前じゃなくて?」


「前は私が見るわ」


六郎は頷いた。


後ろを向く。


来た廊下が見える。


暗い。


さっきまで歩いてきた廊下が、もう少し遠く見える。


その床の上に、黒い粒が増えていた。


ぽとり。


六郎が見ている前で、天井からひとつ落ちた。


黒い粒。


小さい。


だが、床に落ちた瞬間、わずかに跳ねた。


生きているように。


六郎は奥歯を噛んだ。


「後ろにも落ちています」


「数は」


「数えない方がいい気がします」


「そう」


百合は短く返した。


「では、行きましょう」


三人は動いた。


百合が先。


和田が真ん中。


六郎が後ろ。


障子の前を通る。


一歩。


和田の呼吸が乱れる。


二歩。


障子の向こうで、影が動いた気がした。


六郎には見えない。


だが、音がした。


ぎ。


ぐ。


ぎ。


曲がる音。


伸びる音。


こちらへ首を向ける音。


三歩。


和田の足が止まりかける。


六郎は、背に添えた手に少し力を込めた。


「止まらないで」


和田は頷く。


「はい」


四歩。


障子の下から、黒い粒が転がってきた。


ひとつ。


ふたつ。


三つ。


和田の足元へ。


和田が叫びそうになった。


百合が低く言う。


「声を出さないで」


和田は口を閉じた。


唇を噛む。


血が滲む。


それでも、声は出さなかった。


五歩。


通り過ぎる。


その瞬間、障子の向こうで何かが大きく折れた。


ぼきり。


木ではない。


骨でもない。


もっと湿ったもの。


もっと長いもの。


和田の膝が崩れかける。


六郎が支えた。


百合が障子を見た。


「まだ」


六郎には、その一言の意味がすぐには分からなかった。


まだ出てこない。


まだ追ってこない。


まだ間に合う。


どれなのか分からない。


ただ、まだ、だった。



庭へ出る戸は、重かった。


百合が先に手をかける。


開く。


外の光が入った。


その光は、思ったより弱かった。


春の昼の光であるはずなのに、薄い。


それでも、家の中よりは明るい。


和田は目を細めた。


久しぶりに外の光を浴びたような顔だった。


庭へ出る。


空気が変わる。


湿った畳の匂いが薄れ、土と草の匂いがする。


六郎は、それだけで少し息がしやすくなった。


山茶花の木は、庭の隅にあった。


以前見た時と変わらない。


少なくとも、見た目は。


花はない。


蕾もない。


葉だけが、濃い緑で残っている。


和田は、木の前で立ち止まった。


「この木は」


声が小さくなる。


「妻が、よく見ていました」


百合は頷いた。


「ええ」


「私は、花の名前も、あまり知りませんでした」


「そう」


「山茶花と椿の違いも、あの人に教わりました」


和田は少し笑った。


疲れた笑いだった。


「忘れていました」


六郎は、枝を見た。


葉の間を、風が通る。


かすかな音がする。


さわ。


普通の音だった。


久しぶりに聞く、普通の音。


それがかえって胸に残った。


「どの枝を」


和田が訊いた。


百合は木を見た。


しばらく何も言わなかった。


それから、低い位置の細い枝を指した。


「それを」


「これでいいんですか」


「ええ」


「花のない枝です」


「今は、それでいいわ」


和田は鞄から小さな剪定鋏を取り出した。


手が震えている。


六郎は、家の方を見た。


縁側の奥。


障子。


暗い廊下。


そこに、何かがいる気配がする。


だが見えない。


聞こえる。


家の中で、音が増えている。


ぽとり。


ぽとり。


ぽとり。


あちこちで何かが落ちている。


床。


畳。


廊下。


天井裏。


押し入れ。


家全体が、小さなものを落とし続けている。


「急いだ方がいいです」


六郎は言った。


百合はうなずく。


和田は枝に鋏を当てた。


だが、切れない。


手が動かない。


「和田さん」


「切ったら」


和田は言った。


「本当に、終わる気がします」


「終わらせるために、切るんです」


六郎が言った。


自分で言って、少し驚いた。


和田も六郎を見た。


百合は何も言わなかった。


和田は、ゆっくり頷いた。


「そうですね」


鋏に力を入れる。


ぱちん。


枝が切れた。


その音は、小さかった。


庭の中では、本当に小さな音だった。


けれど、家が反応した。


一斉に、音がした。


ぽとり。


ぽとり。


ぽとり。


ぽとり。


ぽとり。


家中で、何かが落ちる。


黒い粒が。


殻のようなものが。


種のようなものが。


見えない場所で。


無数に。


和田が枝を握りしめる。


「宇喜田さん」


「走らないで」


百合は言った。


「でも」


「走ると、追われるわ」


六郎は玄関の方を見た。


家の奥から、別の音がする。


ず。


ず。


何かが廊下を進んでいる。


さっきまで障子の向こうにいたものか。


天井裏にいたものか。


畳の下にいたものか。


分からない。


ただ、来ている。


今度は、こちらへ。


「来ています」


六郎が言った。


百合は短く頷いた。


「玄関へ」


庭から玄関へ回る。


和田は位牌と山茶花の枝を抱えている。


六郎は鞄を持ち、後ろを見た。


見てしまった。


縁側の奥。


暗い廊下。


そこに、細いものがいた。


完全には見えない。


光の中に出てこない。


けれど、腕だけが見えた。


長い腕。


床に近いところまで垂れている。


指先から、黒い粒が落ちる。


ぽとり。


六郎は息を止めた。


見えた。


いや、見えたのではない。


聞こえたものに、形が追いついてしまった。


「六郎」


百合の声。


六郎は目を逸らした。


「はい」


「行くわ」


「はい」


三人は玄関へ向かった。


玄関の戸は、内側から開けた時よりも重かった。


外から入ったはずなのに、今は外から出る戸のように見えた。


和田が手をかける。


動かない。


鍵は開いている。


戸は閉まっているだけだ。


それなのに動かない。


和田が力を入れる。


開かない。


六郎が代わる。


手をかける。


引く。


動かない。


戸の向こうは外だ。


分かっている。


外の道がある。


春の空がある。


それなのに、戸のこちら側だけが家の内側に閉じられている。


「開きません」


六郎が言う。


百合が戸に手を置いた。


「出したくないのね」


和田が、位牌を抱えたまま震える。


「私をですか」


「あなたを」


百合は言った。


「それから、あなたが持っているものを」


和田は位牌と枝を見た。


「置いていけば」


「駄目よ」


百合の声が、少しだけ強くなった。


「それは、持って出るもの」


家の奥で、音がした。


ず。


近い。


廊下を進んでいる。


ず。


ず。


長いものが、身を折ったまま近づいてくる。


六郎は戸に手をかけた。


その時、胸元が熱くなった。


古書店でもらった守り袋だった。


服の下で、熱を持っている。


熱い。


だが、火傷するような熱さではない。


誰かが内側から、ここだ、と叩いているような熱さ。


六郎は息を吸った。


「開けます」


百合が六郎を見る。


「ええ」


六郎は戸を引いた。


開かない。


もう一度。


手に力を込める。


守り袋が、さらに熱くなる。


耳の奥で、音がした。


戸の向こうではない。


戸の内側でもない。


もっと古いところから。


木が開く音。


昔から何度も開け閉めされてきた戸が、自分の役目を思い出す音。


ぎ。


六郎は引いた。


戸が、ほんの少し動いた。


隙間ができる。


外の光が差す。


その瞬間、家の奥で何かが身を起こした。


ずる。


大きな音だった。


和田が悲鳴を飲み込む。


百合が言う。


「今」


六郎は戸を引いた。


一気に開く。


外の空気が入った。


三人は外へ出た。


和田が先。


百合が続く。


六郎が最後。


玄関を出た瞬間、背後で音が止まった。


ぴたりと。


六郎は振り返らないつもりだった。


だが、見てしまった。


玄関の内側。


廊下の奥。


暗がりの中。


そこに、細長い人型が立っていた。


頭は見えない。


天井の奥で折れ曲がっている。


背を畳んだまま、こちらを見ている。


顔はない。


顔がないのに、見ていると分かる。


腕は長い。


だらりと下がっている。


指先から、黒い粒が落ちた。


ぽとり。


一つ。


その音だけが、妙にはっきり聞こえた。


百合が戸へ手をかけた。


閉める。


戸が閉まる直前、和田が初めてその影を正面から見た。


顔が歪む。


それでも、声は出さなかった。


戸が閉まった。


直後。


内側から、こつ、と叩く音がした。


一度だけ。


それきりだった。


和田は、玄関先に座り込んだ。


位牌を抱え、山茶花の枝を握りしめている。


春の風が吹いた。


枝の葉が、かすかに揺れた。


家の中は、静かだった。


静かすぎた。


六郎は、まだ戸の内側から、何かがこちらを見ているような気がしていた。


百合は、閉じた戸を見ていた。


しばらくして、静かに言った。


「ここはもう、住む場所ではないわ」


和田は、うなずいた。


何度も。


何度も。


声もなく、うなずいた。

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