蟄虫啓戸 四【家を出る人】
和田和夫は、しばらく立てなかった。
玄関先に座り込んだまま、位牌を胸に抱いている。
もう片方の手には、切ったばかりの山茶花の枝があった。
花はない。
蕾もない。
葉だけの細い枝である。
それでも和田は、それを落とさなかった。
落とせないのだろう。
春の風が、庭を抜けた。
門の外では、車の音がする。
遠くで犬が吠えた。
隣家のどこかで、物干し竿が鳴った。
普通の町の音である。
家の外には、ちゃんと音があった。
六郎は、それだけで少し息がしやすくなった。
だが、和田家の中は静かだった。
静かすぎる。
さっきまで、あれほど音がしていた。
廊下を撫でる音。
天井裏で身を折る音。
畳の下で何かが爪を立てる音。
小さなものが、ぽとり、ぽとりと落ちる音。
それらが、今は何もない。
戸一枚の向こうで、すべてが息を潜めている。
そういう静けさだった。
和田は、閉じた玄関を見ていた。
目はぎらついている。
けれど、家の中にいた時のそれとは少し違っていた。
怯えはまだある。
恐怖もある。
けれど、そこに外の光が入っていた。
「宇喜田さん」
和田が言った。
声は小さい。
「私は、逃げたんでしょうか」
百合は、玄関の戸を見たまま答えた。
「いいえ」
「でも」
「出たのよ」
和田は、ゆっくり百合を見た。
「逃げるのと、違いますか」
「違うわ」
「どう違うんでしょう」
百合は少しだけ考えた。
「逃げる時は、何も持てない」
和田は、自分の腕の中の位牌を見た。
それから、手にした山茶花の枝を見る。
「出る時は、持っていくものを選ぶ」
和田の顔が、少しだけ崩れた。
泣くのかと思った。
けれど、泣かなかった。
ただ、深く息を吐いた。
長い息だった。
何日も、家の中に溜めていた息を、ようやく外へ出したようだった。
「この家は」
和田は言った。
「もう、駄目でしょうか」
百合は、すぐには答えなかった。
六郎は家を見た。
古い家である。
手入れされていた家だ。
庭もある。
山茶花の木もある。
夫婦で暮らしてきた家である。
そこに、何かがいる。
何かが入り込んだのか。
何かが育ったのか。
何かが開いたのか。
六郎には分からない。
ただ、今も戸の内側で、こちらを見ている気がした。
「ここはもう」
百合は静かに言った。
「住む場所ではないわ」
和田は目を閉じた。
頷く。
一度。
それから、もう一度。
「売ります」
声は震えていた。
けれど、はっきりしていた。
「売れるか分かりませんが」
「ええ」
「それでも、手放します」
「そう」
「妻に、悪いでしょうか」
百合は和田を見た。
「奥さんは、この家そのものではないわ」
和田の指が、位牌を抱く。
「はい」
「この枝も、家そのものではない」
「はい」
「でも、持っていけるものよ」
和田は、山茶花の枝を見た。
葉が風に揺れる。
さわ。
小さな音がした。
六郎は、その音を聞いた。
普通の葉擦れだった。
本当に、ただの葉擦れである。
そのことが、妙に胸に残った。
「根が」
和田が言った。
「根がつくでしょうか」
「つけば」
百合は言った。
「また咲くわ」
「つかなければ」
「その時は、その時よ」
和田は少しだけ笑った。
疲れ切った男の笑いだった。
それでも、ようやく人の笑いに見えた。
⸻
その日のうちに、和田は家へ戻らないことになった。
戻れなかった、と言った方が正しいかもしれない。
戸は閉まっている。
鍵は、和田の手元にある。
だが、もう一度あの戸を開けることを、誰も勧めなかった。
必要な連絡は、外で済ませた。
家の売却については、後日、しかるべきところへ相談する。
中に残したものは多い。
写真。
衣類。
家具。
妻の手帳。
食器。
布団。
生活のほとんどが、まだあの家の中にある。
だが百合は、それらを取りに行こうとは言わなかった。
和田も、言わなかった。
言えば、戻る理由ができる。
戻る理由ができれば、家はまた戸を開ける。
六郎は、そう思った。
和田は急に行く場所を失った。
親戚はいるらしい。
だが、すぐに頼れる相手ではなかった。
ホテルに泊まることもできる。
けれど百合は、それをよしとしなかった。
「ひとりにしない方がいいわ」
そう言った。
和田はそれを聞いて、顔を伏せた。
「ご迷惑を」
「迷惑かどうかを決めるのは、こちらよ」
百合はそう言った。
そして、古書店へ向かった。
六郎には、少しだけ意外だった。
籠目屋ではない。
藤原珈琲でもない。
古書店だった。
ただ、考えてみれば、それが自然なのかもしれなかった。
こういう時、あの店には行き場のないものが集まる。
本も。
人も。
話も。
厄介なものも。
古書店は、いつものように薄暗かった。
入口の戸を開けると、紙の匂いがした。
古い紙。
埃。
乾いた木。
少しだけ黴の気配。
和田は店に入った瞬間、足を止めた。
六郎はその横顔を見た。
和田の顔から、また血の気が引いていた。
「どうしました」
和田は答えない。
目が、棚の奥を見ている。
いや。
棚の奥だけではない。
天井の梁。
帳場の下。
本と本の隙間。
柱の影。
そういう場所を、目が勝手に拾っている。
「和田さん」
六郎が声をかけると、和田は小さく首を振った。
「ここにも」
「え?」
「いるんですね」
六郎の背中が冷えた。
六郎には何も見えない。
棚がある。
本がある。
帳場がある。
店の奥で、店主がこちらを睨んでいる。
それだけだった。
けれど、和田は見ていた。
見えてしまっていた。
帳場の奥から、低い声がした。
「また面倒なのを連れてきたな」
いつもの口の悪さだった。
だが、和田を見る目だけが少し違った。
百合は答える。
「ええ」
「ええ、じゃないわ。うちは避難所じゃない」
「知っているわ」
「知っとる顔か、それが」
百合は何も言わない。
六郎は、和田の横に立ったまま、店主を見た。
「すみません」
「お前が謝るな。余計に腹が立つ」
「すみません」
「謝るなと言っとるだろうが」
店主は舌打ちした。
それから、和田を見る。
「おい」
和田は、びくりと肩を揺らした。
「はい」
「何が見えた」
和田はすぐには答えなかった。
答えたくないというより、どれを言えばいいのか分からないようだった。
「棚の奥に」
「どの棚だ」
和田は、ゆっくり右手を上げた。
入口から見て左奥。
和本が積まれている棚である。
「そこに、目があります」
六郎は棚を見た。
何もない。
古い本の背が並んでいるだけだ。
「目?」
「はい」
和田の声は震えている。
「本と本の間に。こちらを見ないようにしているのに、目だけがこちらを見ています」
店主の顔から、わずかに表情が消えた。
ほんのわずかだった。
だが六郎は見逃さなかった。
「他には」
「帳場の下に、手が」
「手」
「本を掴んでいます。出ようとしているのか、戻ろうとしているのか、分かりません」
店主は、ゆっくり帳場の下を見た。
そこには何もない。
六郎には。
百合は黙っている。
和田はさらに目を動かした。
「それから」
「もういい」
店主が言った。
声が少し低くなっていた。
「見るな」
和田は、はっとしたように目を伏せた。
「すみません」
「謝らんでいい。見るなと言っとる」
「はい」
店主は百合を見た。
「開きすぎとる」
百合は頷いた。
「ええ」
「誰がこんな目にした」
「家よ」
「家が人の目を開けるか」
「開いたのは、目だけではないわ」
店主は舌打ちした。
「嫌な言い方をするな」
「あなたほどではないわ」
「やかましい」
六郎は、その会話を聞きながら、和田を見ていた。
和田は目を伏せている。
だが、まぶたの下で目が動いていた。
見ないようにしているのに、まだ見えている。
それが分かる。
この人は、あの家を出た。
けれど、見える目だけは閉じられない。
家に置いてくることができなかったのだ。
「藤原」
店主が言った。
六郎は顔を上げる。
「はい」
「お前には何か聞こえるか」
六郎は耳を澄ませた。
古書店の中は静かだった。
紙の沈む音。
木が古びていく音。
店の奥で何かが小さく身じろぎするような音。
それらは以前からあった。
この店には、普通でない音がいくつもある。
けれど今は、その中に一つ、違う音が混じっていた。
和田の呼吸の奥。
和田の持つ山茶花の枝。
その枝の葉の間から、細い音がする。
さわ。
ではない。
もっと内側の音。
切られた枝が、まだどこかへ繋がろうとしている音。
「枝から」
六郎は言った。
「音がします」
和田が、山茶花の枝を見る。
百合も見る。
店主は眉を寄せた。
「どんな音だ」
「水を探しているような」
自分で言って、六郎は少し変な言い方だと思った。
だが、それ以外に言いようがなかった。
水を探している。
根を探している。
土を探している。
そういう音だった。
店主は、鼻で笑った。
「なら、枯れてはおらん」
和田の顔が少し上がった。
「枯れていないんですか」
「まだな」
「根は」
「つくかどうかは知らん」
店主はぶっきらぼうに言った。
「ただ、今すぐ捨てる枝ではない」
和田は、山茶花の枝を見た。
両手で包むように持つ。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。鬱陶しい」
和田は少し困ったように、けれど小さく頭を下げた。
⸻
古書店の奥で、茶が出された。
誰が淹れたのか分からない。
店主が淹れたのだろう。
だが、あの手つきで茶を淹れるところを想像すると、少し妙だった。
和田は湯呑みを両手で持っていた。
湯気を見つめている。
その湯気の中にも何か見えているのかもしれない。
けれど、もう言わなかった。
百合は和田の向かいに座っている。
六郎は少し横にいた。
店主は帳場の奥で、古い帳面を開いていた。
「住むところがないんだったな」
和田が顔を上げる。
「はい」
「働けるか」
和田は、目を瞬かせた。
「私が、ですか」
「他に誰がおる」
「いえ、あの」
「働けるのか、働けんのか」
和田は少し黙った。
「働きたいです」
その言葉は、すぐには出なかった。
けれど、出たあとは消えなかった。
「働きたいです」
もう一度、和田は言った。
「家にいると、私は、見るだけになってしまいます」
店主は帳面から目を上げた。
「見えるだけの人間は、すぐ壊れる」
和田は身を固くした。
「はい」
「見るなと言っても見る。見たくないと言っても見る。見えるものに意味を探す。意味がないものにまで名前をつける」
店主の声は淡々としていた。
「そうして、あっちへ寄っていく」
和田は湯呑みを握った。
「私は」
「まだ、こっちだ」
店主は言った。
「今のところはな」
百合が静かに茶を飲んだ。
「どこを紹介するの」
「早いな」
「あなたが帳面を開いたから」
「見とるな」
「見えるもの」
店主は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「尾張の外れに、古い寺がある」
「寺」
和田が言った。
「庫裏の手伝いを探している。掃除、庭、留守番、墓の花替え。飯は出る。寝る場所もある」
「私に、できるでしょうか」
「知らん」
和田は言葉に詰まった。
店主は続ける。
「できるかどうかは、やってから決めろ」
「はい」
「ただし、そこも何もない場所ではない」
六郎は顔を上げた。
「何かあるんですか」
店主は六郎を睨んだ。
「何もない寺があるか」
「それは、まあ」
「だが、あの家よりはましだ」
和田は湯呑みを見つめた。
「寺なら、安全ですか」
店主は、少しだけ笑った。
意地の悪い笑いだった。
「安全な場所を探しとるなら、諦めろ」
和田は黙った。
「この世に、完全に安全な場所などない」
店主は言った。
「ただ、あそこには手順がある。朝起きる。掃除をする。飯を食う。花を替える。戸を閉める。火を消す。そういう手順だ」
和田は聞いていた。
「人は、手順があると壊れにくい」
その言葉は、店主のものにしては少し優しかった。
だからだろうか。
本人がすぐに顔をしかめた。
「まあ、お前が壊れようが知ったことではないが」
「知ったことではない人に、仕事を紹介するんですか」
六郎が言うと、店主は睨んだ。
「うるさい」
百合が少しだけ口元を動かした。
「そんなこと、初めてじゃないでしょう」
店主は黙った。
帳面を閉じる音が、ぱたん、と店に響いた。
「明日の朝、連絡を入れる」
「ありがとうございます」
和田は頭を下げた。
「礼はまだ早い。断られるかもしれん」
「それでも」
和田は言った。
「行く場所があると思えるだけで、今は助かります」
店主は、それには何も返さなかった。
⸻
夕方近くになって、和田は古書店を出た。
一晩は、店主の知り合いの小さな宿に泊まることになった。
そこも古い宿らしい。
ただし、人の出入りがある。
明かりもある。
食事も出る。
和田家よりは、ずっといい。
和田は、位牌を小さな風呂敷に包んでいた。
山茶花の枝は、濡れた布に包まれている。
店主が用意したものだった。
「水に浸けすぎるな」
店主が言った。
「はい」
「乾かしすぎても駄目だ」
「はい」
「土に挿す時は、斜めに切り直せ」
「はい」
「聞いとるのか」
「はい」
和田は、少しだけ笑った。
「聞いています」
その笑いはまだ弱かった。
けれど、家の中で見た笑いとは違っていた。
六郎は、それを見て少し安心した。
百合が、和田に言った。
「和田さん」
「はい。宇喜田さん」
「見えすぎる時は、目を閉じなさい」
和田は頷く。
「はい」
「それでも見える時は」
百合は少しだけ間を置いた。
「手元を見るの」
「手元」
「今、自分が持っているものを見るのよ」
和田は、自分の手を見た。
位牌。
山茶花の枝。
「見えたものではなく、持っているものを」
和田は、ゆっくり頷いた。
「はい」
「それで、少しはこちら側に戻れるわ」
和田の目が揺れた。
「私は、まだこちら側にいますか」
百合は答えた。
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
「よかった」
和田は、子供のようにそう言った。
六郎は胸が痛くなった。
普通に暮らしていた男が、自分がまだ人の側にいるかどうかを確かめなければならない。
怪異に触れるというのは、そういうことなのだろう。
完全に向こうへ行くわけではない。
けれど、こちらにいるとも言い切れなくなる。
和田は、その境目に立っていた。
「藤原さん」
和田が言った。
「はい」
「聞こえるのは、怖くありませんか」
六郎は少し考えた。
「怖いです」
「そうですか」
「でも」
「でも?」
「見えないから、まだ誤魔化せます」
和田は、少しだけ笑った。
「羨ましいです」
「僕は、和田さんが見えることが少し羨ましいです」
和田は首を振った。
「やめた方がいい」
「そうですね」
二人は、少しだけ笑った。
百合はそれを見ていた。
何も言わなかった。
和田は、最後に古書店の中を振り返った。
一瞬だけ、顔が強張る。
何かが見えたのだろう。
しかし、すぐに目を伏せた。
手元を見る。
位牌。
山茶花の枝。
和田の呼吸が、少し整った。
「行ってきます」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
百合にか。
六郎にか。
店主にか。
それとも、抱えた位牌にか。
誰も、そこを訊かなかった。
和田は歩き出した。
背中はまだ細い。
足取りも危うい。
けれど、家にいた時のように、何かへ引かれてはいなかった。
自分の足で歩いていた。
そのことが、今は大きかった。
⸻
和田家は、夕暮れの中にあった。
門は閉まっている。
玄関の戸も閉まっている。
庭には人がいない。
山茶花の木は、枝を一本失っただけで、そこに立っている。
花はない。
葉だけが、暗くなりはじめた空の下で揺れていた。
家の中は、静かだった。
誰もいない家である。
それなのに、廊下の奥で、何かが動いた。
す。
長いものが、床を撫でる音。
それから。
ぽとり。
黒い粒が、廊下に落ちた。
ひとつ。
しばらくして、もうひとつ。
ぽとり。
誰も拾わない。
誰も見ない。
誰も数えない。
玄関の内側に、細長い影が立っていた。
背を折り畳み、天井の下に収まっている。
顔はない。
顔はないのに、戸の向こうを見ていた。
外へ出るためではない。
出ていったものを見るために。
細い腕の先から、また黒い粒が落ちる。
ぽとり。
家は、しばらく黙っていた。
やがて、玄関の戸が内側から小さく鳴った。
こつ。
一度だけ。
それきり、音はなかった。
外では、春の夕暮れが深くなっていく。
どこかで虫が鳴いた。
まだ早い。
鳴くには、少し早い。
けれど、その声は確かにした。
古書店の奥で、六郎はその音を聞いた気がして顔を上げた。
「どうした」
帳場の奥から声がした。
「今、虫が」
「気のせいだ」
「でも」
「気のせいにしておけ」
六郎は黙った。
百合は、棚の前で一冊の本を手に取っていた。
その表紙は虫に食われている。
小さな穴が、いくつも空いていた。
六郎には、その穴が、どこかの戸のように見えた。
「六郎」
百合が言った。
「はい」
「今日は、帰りなさい」
「百合さんは?」
「少し、見るものがあるわ」
「手伝いますか」
「いいえ」
百合は本を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がした。
「今日は、見ない方がいいものもある」
六郎は、古書店の奥を見た。
何も見えない。
ただ、紙の匂いがする。
けれど、奥の方で、かすかな音がした。
かり。
かり。
古い本の中で、何かが戸を開けようとしているような音だった。
六郎は、それ以上聞かないようにした。
外へ出ると、空は暗くなりかけていた。
風は冷たい。
それでも、冬の冷たさではない。
春の冷たさである。
六郎は歩き出した。
耳の奥にはまだ、家の中で聞いた音が残っている。
ぽとり。
ぎし。
かり。
こつ。
それらは消えない。
ただ、少し遠くなっていた。
遠くなっているうちは、まだ帰れる。
六郎は、そう思った。
背後で、古書店の戸が閉まる音がした。
その音は、普通の戸の音だった。
普通の音がすることを、六郎は少しだけありがたいと思った。




