幕間 三【手元】
古書店は、昼でも薄暗い。
犬山の路地の奥にあるその店は、陽の入り方を忘れているような場所だった。
戸を開けると、古い紙の匂いがする。
埃の匂い。
木の匂い。
乾きすぎた畳のような匂い。
藤原六郎は、戸口で少しだけ立ち止まった。
店の奥には、帳場がある。
その帳場の向こうに、店主がいた。
いつものように、こちらを見ているのか見ていないのか分からない顔をしている。
百合もいた。
棚の前で、古い本を一冊、手に取っていた。
「来たのね」
百合が言った。
「はい」
六郎は答えた。
「和田さんのことが、少し気になって」
帳場の奥で、紙をめくる音がした。
「気にしたところで、あの男の目が閉じるわけでもない」
店主が言った。
六郎は苦笑した。
「それは、そうなんですけど」
「分かっとるなら聞くな」
「聞きますよ」
「図々しくなったな」
「たぶん、ここに来るようになってからです」
店主は鼻を鳴らした。
「人のせいにするな」
六郎は店の中へ入った。
戸が閉まる。
路地の音が、少し遠くなる。
「和田さんは、もう向かわれたんですか」
「朝にな」
店主は帳面に目を落としたまま言った。
「尾張の外れだ。古い寺がある」
「住み込みの」
「そうだ」
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫な人間を、あんなところへ送るか」
六郎は黙った。
店主は筆先で帳面の端を叩いた。
「壊れにくい場所へ送っただけだ」
「壊れにくい場所」
「寺は、手順の多い場所だ」
百合が本を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がした。
「朝に戸を開ける」
店主は言った。
「掃く。水を替える。飯を食う。花を替える。戸を閉める。火を消す。そういうことを、毎日やる」
「それで、大丈夫になるんですか」
六郎が訊く。
店主は、じろりと見た。
「大丈夫にするためではない」
「では」
「戻ってくるためだ」
六郎は、少しだけ眉を寄せた。
「どこから」
店主は答えなかった。
百合も答えなかった。
店の奥で、どこかの棚が小さく鳴った。
紙が沈むような音だった。
六郎は、その音のした方を見る。
何もない。
古い本が並んでいるだけである。
「見るな」
店主が言った。
「見てません」
「見ようとした」
「それも駄目ですか」
「駄目な時もある」
「今日は?」
「今日は、余計なことをするな」
百合が少しだけ笑った。
本当に、少しだけだった。
その時、帳場の横に置かれた古い電話が鳴った。
黒い電話である。
今どき、あまり見ない。
その音は、店の中によく響いた。
りん。
りん。
りん。
店主は、面倒くさそうに受話器を取った。
「はい」
それだけ言って、黙った。
六郎は息をひそめた。
百合も本を棚へ戻した。
店主の声は短かった。
「着いたか」
少し間がある。
「飯は」
また間。
「食えたならいい」
店主は、帳面の端を指で押さえた。
「目は」
そこで、少し長く黙った。
六郎は、無意識に百合を見た。
百合は電話を見ていない。
棚の背を、指でなぞっていた。
「そうか」
店主は言った。
「なら、しばらく置け」
また間。
「無理はさせるな。見えたものをいちいち訊くな。言わせると、寄る」
その声だけが、少し低かった。
「山茶花は?」
さらに間。
「水に挿しておけ。根がつくかどうかは知らん」
そう言って、店主は受話器を置いた。
六郎がすぐに訊いた。
「和田さんですか」
「寺だ」
「着いたんですね」
「着いたらしい」
「目は」
店主は六郎を見た。
「開いとる」
「まだ」
「まだ、ではない」
店主は帳面を閉じた。
「開いたものは、そう簡単には閉じん」
六郎は黙った。
百合が静かに言った。
「閉じ方を覚えるしかないわ」
「覚えられますか」
六郎が訊いた。
百合は答えなかった。
代わりに、店主が言った。
「覚えなければ、向こうへ行くだけだ」
「向こう」
「お前はいちいち聞き返すな」
「すみません」
「謝るな。余計に腹が立つ」
六郎は少しだけ笑った。
笑っていいのか分からなかったが、笑った。
笑わないと、息が詰まりそうだった。
⸻
和田和夫が着いた寺は、町から少し離れたところにあった。
山寺というほど山奥ではない。
けれど、道は細く、田と雑木林のあいだを抜けていく。
境内に入ると、風の音が変わった。
家の中で聞いた音とは違う。
木の葉が鳴る。
竹箒が、壁に立てかけられている。
軒先に吊られた小さな風鐸が、時々、かすかに鳴る。
ちり。
ちり。
和田は、その音を聞いて立ち止まった。
音がある。
そう思った。
恐ろしい音ではない。
何かが落ちる音でもない。
何かがこちらへ近づいてくる音でもない。
ただ、風が金物に触れた音だった。
「和田さんですね」
庫裏の方から、年配の男が出てきた。
住職だろうか。
それとも、この寺を手伝っている者だろうか。
和田には分からなかった。
男は黒い作務衣を着ていた。
背は高くない。
顔には皺があるが、目つきは柔らかかった。
「はい」
和田は、頭を下げた。
「お世話になります」
「こちらこそ、人手が足りなくてね」
男はそう言って、和田の持っているものを見た。
風呂敷に包んだ位牌。
濡れた布に包んだ山茶花の枝。
それ以上は訊かなかった。
ただ、
「まず、中へ」
と言った。
庫裏の中は古かった。
床が鳴る。
畳の匂いがする。
味噌汁の匂いも、少しした。
それだけで、和田は胸の奥が痛くなった。
家にも昔、そういう匂いがあった。
朝になると味噌汁があった。
茶碗が鳴った。
妻が庭を見ていた。
それらは、もう家の中で別のものになってしまった。
和田は、視線を落とした。
手元を見る。
位牌。
山茶花の枝。
自分の指。
百合に言われた。
見えすぎる時は、手元を見る。
見えたものではなく、持っているものを見る。
和田は、それを思い出した。
庫裏の奥には、暗い場所がいくつもあった。
台所の隅。
廊下の曲がり角。
仏具をしまう棚の下。
古い柱の陰。
そこに、何かがいる。
和田には見えた。
はっきり見えるわけではない。
人の形をしているわけでもない。
ただ、そこだけが少し濃い。
そこだけ、目があるように感じる。
家にいたものとは違った。
和田を引き留めるものではない。
近づいてくるものでもない。
ただ、そこにいる。
古い場所には、古いものがある。
それだけのことだと言われれば、そうなのかもしれない。
けれど、和田には怖かった。
怖くないはずがなかった。
男が、振り返った。
「大丈夫ですか」
和田は、少し遅れて頷いた。
「はい」
「顔色が悪い」
「すみません」
「謝らなくていいですよ」
男は、台所の棚から古い湯呑みを出した。
「それ、水に挿しましょう」
和田は、濡れた布に包んだ山茶花の枝を見た。
「はい」
流しで水を入れる。
湯呑みに水が満ちていく。
その音は、ただの水音だった。
じゃあ。
じゃあ。
和田はそれを聞いていた。
和田家の位牌の前にも、湯呑みがあった。
空なのに、縁だけが濡れていた。
あれを思い出しそうになって、和田は目を閉じた。
そして、自分の手を見た。
今、水を入れているのは自分だった。
濡らしているのは、自分の手だった。
山茶花の枝を、そっと湯呑みに挿す。
葉が少し揺れた。
小さな揺れだった。
「しばらくは、これで」
男が言った。
「根が出るかは分かりませんが」
「はい」
「出たら、土に移しましょう」
和田は、湯呑みに挿した枝を見た。
枝は何も言わない。
葉が揺れているだけである。
それだけだった。
それだけなのに、和田は少し息ができた。
⸻
古書店では、六郎が棚の間にいた。
店主に、奥の棚の上にある箱を取れと言われたのだ。
「脚立を使えばいいんじゃないですか」
と言うと、
「若い者がいる時に、なぜ俺が登る」
と返された。
六郎は脚立に上がり、言われた箱を下ろした。
中身は古い帳面だった。
紐で束ねられている。
帳場へ持っていくと、店主は当然のように受け取った。
「ありがとうございます、は?」
六郎が言うと、店主は鼻で笑った。
「図に乗るな」
「はい」
六郎は諦めた。
そのまま店の外へ出ることになった。
向かいの店で茶菓子を買ってこいと言われたのである。
「僕、使い走りですか」
「それ以外に何ができる」
「まあ、そうですけど」
「分かっとるなら行け」
百合は何も言わずに見ていた。
六郎は少しだけ百合を見た。
百合は、
「いってらっしゃい」
とだけ言った。
「はい」
六郎は店を出た。
戸が閉まる。
路地の音が少し戻る。
六郎の足音が遠ざかっていく。
店の中に、百合と店主だけが残った。
しばらく、どちらも喋らなかった。
古い本の匂いだけがある。
店主は帳面の紐をほどいた。
「余計なことをしたかしら」
百合が言った。
店主は顔を上げない。
「どれのことだ」
「和田さん」
「放っておいたら死ぬ」
「ええ」
「なら、余計ではない」
百合は棚にもたれた。
「あなたにしては、親切ね」
「やかましい」
店主は帳面を開いた。
中には、古い名が並んでいる。
人の名。
寺の名。
地名。
日付。
そのいくつかは、黒く塗りつぶされていた。
百合は、それを見た。
「見えすぎるわね」
「見えすぎる」
店主は言った。
「だが、見えているものの意味は分かっとらん」
「意味まで分かれば?」
「もっと悪い」
百合は何も言わなかった。
「見えたものに意味をつけたがる。名をつけたがる。そうすると、向こうも寄ってくる」
「名を呼ばれたと思うから」
「そうだ」
店主は帳面を一枚めくった。
「閉じ方を覚えんと、長くはもたん」
「寺で覚えられるかしら」
「手順がある場所はいい」
「手順」
「朝に起きる。掃く。水を替える。飯を食う。花を替える。戸を閉める。火を消す」
百合は小さく頷いた。
「戻るための道ね」
「道などという立派なもんではない」
店主は言った。
「ただの癖だ」
「癖は、時々、人を助けるわ」
「そういう言い方をするな」
「嫌い?」
「嫌いだ」
百合は、少しだけ笑った。
笑った気配だけがあった。
「覚えられなければ?」
店主は答えなかった。
古い帳面の上に、指を置いている。
そこには、塗りつぶされた名前があった。
百合は、その指先を見た。
「昔も、誰かを逃がそうとしたの?」
帳場の奥が、静かになった。
外の路地から、遠く人の声が聞こえた。
古書店の中には届かない。
店主は、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「逃がすつもりが、奥へやったこともある」
百合は、何も言わなかった。
訊き返さなかった。
誰を、とも。
いつ、とも。
なぜ、とも。
ただ、棚から本を一冊抜き、頁を開いた。
店主は帳面を閉じた。
「お前も、余計なことを訊く」
「ええ」
「似てきたな」
「誰に?」
店主は答えなかった。
百合も、それ以上は聞かなかった。
戸の外で、六郎の足音が近づいてきた。
店主は、すぐに不機嫌な顔へ戻った。
六郎が戸を開ける。
「買ってきました」
「遅い」
「普通です」
「口答えするな」
「はい」
六郎は茶菓子の包みを帳場に置いた。
ふと、百合と店主を見る。
二人とも、何事もなかった顔をしている。
だが、店の中の空気が少しだけ違っていた。
六郎は、それに気づいた。
気づいたが、聞かなかった。
聞いても、答えは返ってこない気がした。
「和田さん」
六郎は言った。
「本当に、大丈夫ですかね」
百合が答えた。
「大丈夫ではないでしょうね」
「ですよね」
「でも、家にはいないわ」
六郎は少し黙った。
「それだけで、違いますか」
「違うわ」
百合は言った。
「家から出た人は、まず、それだけでいいの」
店主が茶菓子の包みを開けながら言った。
「菓子が潰れとる」
「え?」
「持ち方が悪い」
「そんなに?」
「見ろ」
六郎が覗き込む。
饅頭の端が、少しだけ崩れていた。
「これくらいなら」
「これくらいが気になる」
「細かいですね」
「本を扱う人間は細かいんだ」
「本以外にも細かいですよね」
店主が睨んだ。
六郎は黙った。
百合は、やはり少しだけ笑った。
⸻
和田が寺に来てから、三日が経った。
まだ眠りは浅い。
夜中に目が覚める。
庫裏の隅に、何かがいる。
本堂の柱の影が、時々、人の顔のように見える。
雨戸の隙間に、目があるように見える。
それでも、和田家とは違っていた。
見えるものは、こちらを追ってこない。
見たからといって、すぐに近づいてくるわけではない。
ただ、古いものが古い場所にある。
そういう感じだった。
和田は、朝になると掃除をした。
竹箒を持つ。
境内を掃く。
落ち葉を集める。
水を替える。
花を替える。
最初は手順が分からず、何度も間違えた。
そのたびに、作務衣の男が教えてくれた。
怒らなかった。
急かさなかった。
ただ、
「こちらからです」
「これは朝」
「これは夕方」
「水は先に」
とだけ言った。
和田は、それを覚えた。
覚えようとした。
三日目の昼、作務衣の男が小さな鉢を持ってきた。
素焼きの鉢だった。
大きくない。
片手で持てるほどの鉢である。
「そろそろ、挿してみましょうか」
和田は、湯呑みに挿していた山茶花の枝を見た。
葉はまだ落ちていない。
元気とも言えない。
けれど、枯れてはいない。
「根は」
和田が訊いた。
男は枝を見て、首を傾げた。
「まだですね」
「まだ」
「でも、土に挿してみましょう」
「根がないのに?」
「根が出るかどうかは、土に入れてから分かることもあります」
和田は黙った。
男は、小さな鋏で枝の下を斜めに切った。
水を含ませた土に、細い穴を開ける。
そこへ、枝を挿した。
そっと。
力を入れすぎないように。
和田は、それを見ていた。
「やってみますか」
男が言った。
和田は頷いた。
鉢の縁に手を添える。
土を少し押さえる。
指先が黒くなった。
和田は、その指を見た。
黒い。
あの家で見た黒い粒を思い出しそうになった。
廊下に落ちていたもの。
畳の目に入り込んでいたもの。
指先から、ぽとり、と落ちたもの。
胸が冷たくなる。
その時、風が吹いた。
山茶花の葉が、ほんの少し揺れた。
和田は、自分の指をもう一度見た。
黒かった。
けれど、それはただの土だった。
湿った、普通の土である。
何かの殻ではない。
種でもない。
口でもない。
ただの土だった。
ただの土であることが、ありがたかった。
和田は、ゆっくり息を吐いた。
「つくでしょうか」
男は笑った。
「分かりません」
「そうですか」
「でも、水はやれます」
和田は頷いた。
「はい」
鉢を、庫裏の縁側に置いた。
陽が当たりすぎず、暗すぎないところだった。
和田は位牌を部屋の奥へ置いた。
それから、鉢を見る。
手元を見る。
自分の手を見る。
まだ、何かは見える。
寺の隅に。
柱の陰に。
戸の向こうに。
けれど、今は手元に鉢がある。
山茶花の枝がある。
土がある。
水をやるという手順がある。
和田は、小さな柄杓で水を汲んだ。
鉢の土へ、少しだけ注ぐ。
水が土に染みる。
音はほとんどしなかった。
それでも和田には、聞こえたような気がした。
何かが、ほんの少しだけ、こちら側に留まる音だった。
外では、風鐸が鳴った。
ちり。
ちり。
和田は目を閉じた。
今度は、見たくないからではない。
少しだけ、休むためだった。




