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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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15/20

幕間 三【手元】

古書店は、昼でも薄暗い。


犬山の路地の奥にあるその店は、陽の入り方を忘れているような場所だった。


戸を開けると、古い紙の匂いがする。


埃の匂い。


木の匂い。


乾きすぎた畳のような匂い。


藤原六郎は、戸口で少しだけ立ち止まった。


店の奥には、帳場がある。


その帳場の向こうに、店主がいた。


いつものように、こちらを見ているのか見ていないのか分からない顔をしている。


百合もいた。


棚の前で、古い本を一冊、手に取っていた。


「来たのね」


百合が言った。


「はい」


六郎は答えた。


「和田さんのことが、少し気になって」


帳場の奥で、紙をめくる音がした。


「気にしたところで、あの男の目が閉じるわけでもない」


店主が言った。


六郎は苦笑した。


「それは、そうなんですけど」


「分かっとるなら聞くな」


「聞きますよ」


「図々しくなったな」


「たぶん、ここに来るようになってからです」


店主は鼻を鳴らした。


「人のせいにするな」


六郎は店の中へ入った。


戸が閉まる。


路地の音が、少し遠くなる。


「和田さんは、もう向かわれたんですか」


「朝にな」


店主は帳面に目を落としたまま言った。


「尾張の外れだ。古い寺がある」


「住み込みの」


「そうだ」


「大丈夫でしょうか」


「大丈夫な人間を、あんなところへ送るか」


六郎は黙った。


店主は筆先で帳面の端を叩いた。


「壊れにくい場所へ送っただけだ」


「壊れにくい場所」


「寺は、手順の多い場所だ」


百合が本を閉じた。


ぱたん、と乾いた音がした。


「朝に戸を開ける」


店主は言った。


「掃く。水を替える。飯を食う。花を替える。戸を閉める。火を消す。そういうことを、毎日やる」


「それで、大丈夫になるんですか」


六郎が訊く。


店主は、じろりと見た。


「大丈夫にするためではない」


「では」


「戻ってくるためだ」


六郎は、少しだけ眉を寄せた。


「どこから」


店主は答えなかった。


百合も答えなかった。


店の奥で、どこかの棚が小さく鳴った。


紙が沈むような音だった。


六郎は、その音のした方を見る。


何もない。


古い本が並んでいるだけである。


「見るな」


店主が言った。


「見てません」


「見ようとした」


「それも駄目ですか」


「駄目な時もある」


「今日は?」


「今日は、余計なことをするな」


百合が少しだけ笑った。


本当に、少しだけだった。


その時、帳場の横に置かれた古い電話が鳴った。


黒い電話である。


今どき、あまり見ない。


その音は、店の中によく響いた。


りん。


りん。


りん。


店主は、面倒くさそうに受話器を取った。


「はい」


それだけ言って、黙った。


六郎は息をひそめた。


百合も本を棚へ戻した。


店主の声は短かった。


「着いたか」


少し間がある。


「飯は」


また間。


「食えたならいい」


店主は、帳面の端を指で押さえた。


「目は」


そこで、少し長く黙った。


六郎は、無意識に百合を見た。


百合は電話を見ていない。


棚の背を、指でなぞっていた。


「そうか」


店主は言った。


「なら、しばらく置け」


また間。


「無理はさせるな。見えたものをいちいち訊くな。言わせると、寄る」


その声だけが、少し低かった。


「山茶花は?」


さらに間。


「水に挿しておけ。根がつくかどうかは知らん」


そう言って、店主は受話器を置いた。


六郎がすぐに訊いた。


「和田さんですか」


「寺だ」


「着いたんですね」


「着いたらしい」


「目は」


店主は六郎を見た。


「開いとる」


「まだ」


「まだ、ではない」


店主は帳面を閉じた。


「開いたものは、そう簡単には閉じん」


六郎は黙った。


百合が静かに言った。


「閉じ方を覚えるしかないわ」


「覚えられますか」


六郎が訊いた。


百合は答えなかった。


代わりに、店主が言った。


「覚えなければ、向こうへ行くだけだ」


「向こう」


「お前はいちいち聞き返すな」


「すみません」


「謝るな。余計に腹が立つ」


六郎は少しだけ笑った。


笑っていいのか分からなかったが、笑った。


笑わないと、息が詰まりそうだった。



和田和夫が着いた寺は、町から少し離れたところにあった。


山寺というほど山奥ではない。


けれど、道は細く、田と雑木林のあいだを抜けていく。


境内に入ると、風の音が変わった。


家の中で聞いた音とは違う。


木の葉が鳴る。


竹箒が、壁に立てかけられている。


軒先に吊られた小さな風鐸が、時々、かすかに鳴る。


ちり。


ちり。


和田は、その音を聞いて立ち止まった。


音がある。


そう思った。


恐ろしい音ではない。


何かが落ちる音でもない。


何かがこちらへ近づいてくる音でもない。


ただ、風が金物に触れた音だった。


「和田さんですね」


庫裏の方から、年配の男が出てきた。


住職だろうか。


それとも、この寺を手伝っている者だろうか。


和田には分からなかった。


男は黒い作務衣を着ていた。


背は高くない。


顔には皺があるが、目つきは柔らかかった。


「はい」


和田は、頭を下げた。


「お世話になります」


「こちらこそ、人手が足りなくてね」


男はそう言って、和田の持っているものを見た。


風呂敷に包んだ位牌。


濡れた布に包んだ山茶花の枝。


それ以上は訊かなかった。


ただ、


「まず、中へ」


と言った。


庫裏の中は古かった。


床が鳴る。


畳の匂いがする。


味噌汁の匂いも、少しした。


それだけで、和田は胸の奥が痛くなった。


家にも昔、そういう匂いがあった。


朝になると味噌汁があった。


茶碗が鳴った。


妻が庭を見ていた。


それらは、もう家の中で別のものになってしまった。


和田は、視線を落とした。


手元を見る。


位牌。


山茶花の枝。


自分の指。


百合に言われた。


見えすぎる時は、手元を見る。


見えたものではなく、持っているものを見る。


和田は、それを思い出した。


庫裏の奥には、暗い場所がいくつもあった。


台所の隅。


廊下の曲がり角。


仏具をしまう棚の下。


古い柱の陰。


そこに、何かがいる。


和田には見えた。


はっきり見えるわけではない。


人の形をしているわけでもない。


ただ、そこだけが少し濃い。


そこだけ、目があるように感じる。


家にいたものとは違った。


和田を引き留めるものではない。


近づいてくるものでもない。


ただ、そこにいる。


古い場所には、古いものがある。


それだけのことだと言われれば、そうなのかもしれない。


けれど、和田には怖かった。


怖くないはずがなかった。


男が、振り返った。


「大丈夫ですか」


和田は、少し遅れて頷いた。


「はい」


「顔色が悪い」


「すみません」


「謝らなくていいですよ」


男は、台所の棚から古い湯呑みを出した。


「それ、水に挿しましょう」


和田は、濡れた布に包んだ山茶花の枝を見た。


「はい」


流しで水を入れる。


湯呑みに水が満ちていく。


その音は、ただの水音だった。


じゃあ。


じゃあ。


和田はそれを聞いていた。


和田家の位牌の前にも、湯呑みがあった。


空なのに、縁だけが濡れていた。


あれを思い出しそうになって、和田は目を閉じた。


そして、自分の手を見た。


今、水を入れているのは自分だった。


濡らしているのは、自分の手だった。


山茶花の枝を、そっと湯呑みに挿す。


葉が少し揺れた。


小さな揺れだった。


「しばらくは、これで」


男が言った。


「根が出るかは分かりませんが」


「はい」


「出たら、土に移しましょう」


和田は、湯呑みに挿した枝を見た。


枝は何も言わない。


葉が揺れているだけである。


それだけだった。


それだけなのに、和田は少し息ができた。



古書店では、六郎が棚の間にいた。


店主に、奥の棚の上にある箱を取れと言われたのだ。


「脚立を使えばいいんじゃないですか」


と言うと、


「若い者がいる時に、なぜ俺が登る」


と返された。


六郎は脚立に上がり、言われた箱を下ろした。


中身は古い帳面だった。


紐で束ねられている。


帳場へ持っていくと、店主は当然のように受け取った。


「ありがとうございます、は?」


六郎が言うと、店主は鼻で笑った。


「図に乗るな」


「はい」


六郎は諦めた。


そのまま店の外へ出ることになった。


向かいの店で茶菓子を買ってこいと言われたのである。


「僕、使い走りですか」


「それ以外に何ができる」


「まあ、そうですけど」


「分かっとるなら行け」


百合は何も言わずに見ていた。


六郎は少しだけ百合を見た。


百合は、


「いってらっしゃい」


とだけ言った。


「はい」


六郎は店を出た。


戸が閉まる。


路地の音が少し戻る。


六郎の足音が遠ざかっていく。


店の中に、百合と店主だけが残った。


しばらく、どちらも喋らなかった。


古い本の匂いだけがある。


店主は帳面の紐をほどいた。


「余計なことをしたかしら」


百合が言った。


店主は顔を上げない。


「どれのことだ」


「和田さん」


「放っておいたら死ぬ」


「ええ」


「なら、余計ではない」


百合は棚にもたれた。


「あなたにしては、親切ね」


「やかましい」


店主は帳面を開いた。


中には、古い名が並んでいる。


人の名。


寺の名。


地名。


日付。


そのいくつかは、黒く塗りつぶされていた。


百合は、それを見た。


「見えすぎるわね」


「見えすぎる」


店主は言った。


「だが、見えているものの意味は分かっとらん」


「意味まで分かれば?」


「もっと悪い」


百合は何も言わなかった。


「見えたものに意味をつけたがる。名をつけたがる。そうすると、向こうも寄ってくる」


「名を呼ばれたと思うから」


「そうだ」


店主は帳面を一枚めくった。


「閉じ方を覚えんと、長くはもたん」


「寺で覚えられるかしら」


「手順がある場所はいい」


「手順」


「朝に起きる。掃く。水を替える。飯を食う。花を替える。戸を閉める。火を消す」


百合は小さく頷いた。


「戻るための道ね」


「道などという立派なもんではない」


店主は言った。


「ただの癖だ」


「癖は、時々、人を助けるわ」


「そういう言い方をするな」


「嫌い?」


「嫌いだ」


百合は、少しだけ笑った。


笑った気配だけがあった。


「覚えられなければ?」


店主は答えなかった。


古い帳面の上に、指を置いている。


そこには、塗りつぶされた名前があった。


百合は、その指先を見た。


「昔も、誰かを逃がそうとしたの?」


帳場の奥が、静かになった。


外の路地から、遠く人の声が聞こえた。


古書店の中には届かない。


店主は、しばらく黙っていた。


それから、低く言った。


「逃がすつもりが、奥へやったこともある」


百合は、何も言わなかった。


訊き返さなかった。


誰を、とも。


いつ、とも。


なぜ、とも。


ただ、棚から本を一冊抜き、頁を開いた。


店主は帳面を閉じた。


「お前も、余計なことを訊く」


「ええ」


「似てきたな」


「誰に?」


店主は答えなかった。


百合も、それ以上は聞かなかった。


戸の外で、六郎の足音が近づいてきた。


店主は、すぐに不機嫌な顔へ戻った。


六郎が戸を開ける。


「買ってきました」


「遅い」


「普通です」


「口答えするな」


「はい」


六郎は茶菓子の包みを帳場に置いた。


ふと、百合と店主を見る。


二人とも、何事もなかった顔をしている。


だが、店の中の空気が少しだけ違っていた。


六郎は、それに気づいた。


気づいたが、聞かなかった。


聞いても、答えは返ってこない気がした。


「和田さん」


六郎は言った。


「本当に、大丈夫ですかね」


百合が答えた。


「大丈夫ではないでしょうね」


「ですよね」


「でも、家にはいないわ」


六郎は少し黙った。


「それだけで、違いますか」


「違うわ」


百合は言った。


「家から出た人は、まず、それだけでいいの」


店主が茶菓子の包みを開けながら言った。


「菓子が潰れとる」


「え?」


「持ち方が悪い」


「そんなに?」


「見ろ」


六郎が覗き込む。


饅頭の端が、少しだけ崩れていた。


「これくらいなら」


「これくらいが気になる」


「細かいですね」


「本を扱う人間は細かいんだ」


「本以外にも細かいですよね」


店主が睨んだ。


六郎は黙った。


百合は、やはり少しだけ笑った。



和田が寺に来てから、三日が経った。


まだ眠りは浅い。


夜中に目が覚める。


庫裏の隅に、何かがいる。


本堂の柱の影が、時々、人の顔のように見える。


雨戸の隙間に、目があるように見える。


それでも、和田家とは違っていた。


見えるものは、こちらを追ってこない。


見たからといって、すぐに近づいてくるわけではない。


ただ、古いものが古い場所にある。


そういう感じだった。


和田は、朝になると掃除をした。


竹箒を持つ。


境内を掃く。


落ち葉を集める。


水を替える。


花を替える。


最初は手順が分からず、何度も間違えた。


そのたびに、作務衣の男が教えてくれた。


怒らなかった。


急かさなかった。


ただ、


「こちらからです」


「これは朝」


「これは夕方」


「水は先に」


とだけ言った。


和田は、それを覚えた。


覚えようとした。


三日目の昼、作務衣の男が小さな鉢を持ってきた。


素焼きの鉢だった。


大きくない。


片手で持てるほどの鉢である。


「そろそろ、挿してみましょうか」


和田は、湯呑みに挿していた山茶花の枝を見た。


葉はまだ落ちていない。


元気とも言えない。


けれど、枯れてはいない。


「根は」


和田が訊いた。


男は枝を見て、首を傾げた。


「まだですね」


「まだ」


「でも、土に挿してみましょう」


「根がないのに?」


「根が出るかどうかは、土に入れてから分かることもあります」


和田は黙った。


男は、小さな鋏で枝の下を斜めに切った。


水を含ませた土に、細い穴を開ける。


そこへ、枝を挿した。


そっと。


力を入れすぎないように。


和田は、それを見ていた。


「やってみますか」


男が言った。


和田は頷いた。


鉢の縁に手を添える。


土を少し押さえる。


指先が黒くなった。


和田は、その指を見た。


黒い。


あの家で見た黒い粒を思い出しそうになった。


廊下に落ちていたもの。


畳の目に入り込んでいたもの。


指先から、ぽとり、と落ちたもの。


胸が冷たくなる。


その時、風が吹いた。


山茶花の葉が、ほんの少し揺れた。


和田は、自分の指をもう一度見た。


黒かった。


けれど、それはただの土だった。


湿った、普通の土である。


何かの殻ではない。


種でもない。


口でもない。


ただの土だった。


ただの土であることが、ありがたかった。


和田は、ゆっくり息を吐いた。


「つくでしょうか」


男は笑った。


「分かりません」


「そうですか」


「でも、水はやれます」


和田は頷いた。


「はい」


鉢を、庫裏の縁側に置いた。


陽が当たりすぎず、暗すぎないところだった。


和田は位牌を部屋の奥へ置いた。


それから、鉢を見る。


手元を見る。


自分の手を見る。


まだ、何かは見える。


寺の隅に。


柱の陰に。


戸の向こうに。


けれど、今は手元に鉢がある。


山茶花の枝がある。


土がある。


水をやるという手順がある。


和田は、小さな柄杓で水を汲んだ。


鉢の土へ、少しだけ注ぐ。


水が土に染みる。


音はほとんどしなかった。


それでも和田には、聞こえたような気がした。


何かが、ほんの少しだけ、こちら側に留まる音だった。


外では、風鐸が鳴った。


ちり。


ちり。


和田は目を閉じた。


今度は、見たくないからではない。


少しだけ、休むためだった。

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