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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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16/20

雷乃発声 一【鬼笑い】

雷乃発声かみなりすなわちこえをはっす

雷は、声である。


そう言ったのは、古書店の店主だった。


犬山の路地の奥にある古書店で、六郎はその言葉を聞いた。


店の外は、まだ昼だった。


薄曇りの空である。


雨は降っていない。


風もない。


けれど、店の中だけが、少し湿っていた。


古い紙は、雨の前に湿る。


紙だけではない。


柱も。


畳も。


人の喉も。


何かを言う前に、そこだけが先に湿ることがある。


帳場の奥で、店主が一枚の紙を広げていた。


古い地図である。


和紙に墨で山道が引かれている。


山の名。


谷の名。


峠の名。


それらのいくつかは、もう今の地図には残っていないのだろう。


百合は、帳場の横に立っていた。


静かに地図を見ている。


六郎は、その少し後ろにいた。


小夜は棚の前に腰かけ、膝の上に笛袋を置いている。


「雷は、声である」


店主はもう一度言った。


「神鳴りという字を当てることもある。神が鳴る。つまり、声だ」


「雷の話ですか」


六郎が訊いた。


「耳があるなら、聞いとけ」


「聞いてます」


「聞いている顔ではない」


「どんな顔ですか」


「面倒ごとに巻き込まれる前の顔だ」


「それは、だいたい当たってますね」


店主は鼻を鳴らした。


百合は何も言わない。


地図に視線を落としたままである。


店主は、地図の山中にある一点を指で叩いた。


「近畿の山だ。大和と紀伊の境に近い。今は、ほとんど人が入らん」


「山の名前は?」


六郎が訊いた。


店主は、少しだけ間を置いた。


「地元では、笑い山と呼ぶ者がいる」


「笑い山」


「正式な名ではない」


「どうして、そんな名に?」


「笑うからだ」


六郎は黙った。


小夜が、顔を上げた。


「山が?」


店主は、小夜を見た。


「そう聞いとる」


「誰から」


「昔、そっちを歩いた者からだ」


「生きて戻ったの」


小夜が訊く。


店主は、すぐには答えなかった。


「戻った者もいる」


「戻らなかった者もいるのね」


百合が言った。


店主は百合を見た。


「そうだ」


地図の上で、店主の指が動く。


山道から外れたところに、小さな丸が描かれている。


祠の印かもしれない。


塚かもしれない。


ただの目印かもしれない。


「この山には、古い言い伝えがある」


店主は言った。


「春雷の頃、山の奥から笑い声が聞こえる」


六郎は、思わず耳を澄ませた。


今、聞こえるはずがない。


ここは犬山の古書店である。


近畿の山ではない。


それでも、笑い声という言葉を聞いただけで、耳の奥が少し冷えた。


「鬼の笑い声、と言うらしい」


「鬼ですか」


「人がそう呼んだだけだ」


店主は、指で地図を叩いた。


「そこに昔からあったものに、後から鬼という名を貼った」


百合が静かに言った。


「名のないもの」


「そうだ」


店主は言った。


「名前はない。祀られた神でもない。祠に納められたものでもない。ただ、昔からそこにある」


「神なんですか」


六郎が訊く。


「神と言えば神だ」


「鬼ではなく?」


「鬼と言えば鬼だ」


「どっちですか」


「人が決めることではない」


店主は不機嫌そうに言った。


「ただの現象だ。山に雷が鳴る。山が笑う。聞いた者は、笑い返さねばならん」


六郎は顔を上げた。


「笑い返す?」


「そうだ」


「笑い返さないと?」


店主は、地図から指を離した。


「消える」


店の中が静かになった。


外の路地から、誰かの自転車が通る音がした。


それは普通の音だった。


普通の音だからこそ、店内の静けさが際立った。


「死ぬ、ではないんですか」


六郎が訊いた。


「死体が出るなら、まだ分かりやすい」


店主は言った。


「消えるんだ。山の中で、ふっといなくなる。同行者が隣を歩いていても、雷が鳴った次の瞬間にはいない。足跡も途切れる。叫び声もない。ただ、少し離れた山の奥から、笑い声が増える」


小夜が笛袋に触れた。


指先だけで。


「笑えなかった人が、向こうに入る」


「そう伝わっている」


「百鬼夜行みたいね」


六郎が言うと、百合が首を振った。


「違うわ」


「違うんですか」


「百鬼夜行には、形がある」


百合は地図を見ていた。


「これは、なりそこないでしょうね」


「なりそこない」


「鬼でもなく、人でもなく、列だけがあるもの」


店主は何も言わなかった。


否定しない。


それが肯定に近かった。


「それで」


六郎は訊いた。


「どうして、その山へ?」


店主は、帳場の下から封筒を取り出した。


中には、数枚の印刷物と、手書きの手紙が入っていた。


百合がそれを受け取る。


六郎も横から覗いた。


表題には、こうある。


雨声会 春季調査計画


「雨声会?」


「民俗と怪異伝承の調査をしている連中だ」


店主が言った。


「大学のサークル崩れみたいなものかと思ったが、そうでもないらしい。趣味にしては、いくつか記録が正確だ」


「怪しいですね」


六郎が言うと、店主は六郎を見た。


「お前が言うな」


「僕は一般人です」


「一般人は、こんな地図を覗き込んでおらん」


六郎は何も言えなかった。


百合は手紙を読んでいる。


「調査に同行してほしい、と」


「そうだ」


「なぜ私たちに?」


「以前、あちらの古い寺の住職に本を流したことがある。その筋から話が回ってきた」


「相変わらず、妙な繋がりがありますね」


六郎が言うと、店主は面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「長く生きていると、嫌でも繋がる」


「雨声会は、何を調べたいんですか」


「鬼笑いの伝承だ」


店主は言った。


「過去に神隠しが何件もある。近年でも、二十年前に大学生が一人、十年前に登山者が一人、五年前に地元の男が一人消えた。いずれも春雷の頃だ」


「警察は?」


「山の事故だ」


「本当に?」


「本当に山の事故だったものもあるだろうな」


店主の声は淡々としていた。


「全部が怪異ではない。全部が人のせいでもない。ただ、いくつかは、そうでない」


六郎は手紙を見た。


そこには、今回の調査日程と参加者の名前が書かれていた。


真壁遼一。


佐伯千尋。


倉田悠真。


日下部円。


その他数名。


代表の真壁という男の文章は、丁寧だった。


丁寧すぎるほどである。


自分たちはあくまで民俗調査を目的としており、無謀な肝試しではないこと。


現地の案内人を立てること。


雷雨が予想される場合は撤退すること。


危険があれば中止すること。


それらが整った文章で書かれていた。


だが、六郎はなぜか少し嫌だった。


整いすぎた言葉というのは、時々、怖い。


整っているほど、そこから外れたものを見落とす。


「行くのね」


小夜が百合に訊いた。


百合は手紙を畳んだ。


「ええ」


「わたしも?」


「来る?」


「笛が要るかもしれない」


「そうね」


百合は短く答えた。


店主が小夜を見た。


「吹くなよ」


小夜は眉を上げた。


「まだ何も言ってない」


「言う前に言っとる」


「必要なら吹く」


「必要と思ってからでは遅い時もある」


小夜は黙った。


六郎は、小夜の笛袋を見た。


それから、自分の肩掛けの鞄を見る。


中には、あの笛が入っている。


木曽川から戻ってきた、濡れている笛。


拭いても乾かない。


置いても、どこかでまた戻ってくる。


それを持ち歩くことにも、六郎は少しずつ慣れてしまっていた。


慣れてしまっていることが、怖かった。


「六郎」


百合が言った。


「はい」


「持っているのね」


「はい」


「笛」


六郎は頷いた。


「置いてきた方がよかったですか」


百合は少しだけ考えた。


「いいえ」


「いいんですか」


「持っていなさい」


店主が低く言った。


「持たされとるだけかもしれんがな」


六郎は、鞄の紐を握った。


その中で、笛が少しだけ冷たい気配を放っている気がした。


「山で笑うものに」


店主は言った。


「笑い返せ」


「本当に?」


「本当にだ」


「怖くても?」


「怖ければ、なおさらだ」


「笑えなかったら」


「消える」


店主は六郎を見た。


「怖い時ほど、人は笑えん。だから連れていかれる」


六郎は黙った。


百合は地図を畳んだ。


「行きましょう」


その言い方は、いつも通りだった。


だからこそ、六郎は少しだけ嫌な予感がした。



近畿へ向かう道中、雨は降らなかった。


曇り空だった。


空は低く、灰色だった。


列車の窓から見える山は、春の色をしている。


芽吹きはじめた木々。


淡い緑。


ところどころに残る枯れた枝。


山肌は柔らかく見えた。


けれど、遠くへ行くほど、その柔らかさが嘘に見えてくる。


山は近づくと、いつも違う顔を見せる。


遠くでは美しくても、入れば暗い。


六郎は窓の外を見ていた。


向かいには小夜が座っている。


百合は通路側で、目を閉じていた。


眠っているのかどうかは分からない。


「六郎」


小夜が小さく言った。


「はい」


「笑う練習をした方がいいかもしれない」


六郎は、小夜を見た。


「今ですか」


「今」


「列車の中で?」


「変な人だと思われるくらいで済む」


六郎は困った。


「笑えと言われると、笑えないですね」


「でしょう」


小夜は真面目だった。


「怖い時に笑うのは、もっと難しい」


「小夜さんは、笑えるんですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「怖い時は、笑うより吹く方が楽」


そう言って、小夜は笛袋に目を落とした。


「でも今回は、吹いていいものか分からない」


「どうしてですか」


「笑い声に笛で返すのは、返事になるかもしれない」


「笑うのも返事ですよね」


「そう」


小夜は窓の外を見る。


「だから、嫌なの」


百合が目を閉じたまま言った。


「返事ではなく、作法なのかもしれないわ」


「作法」


六郎が言う。


「山へ入る時の」


「笑うことが?」


「ええ」


百合は目を開けた。


「人が決めた礼ではなく、向こうが決めた礼」


六郎は黙った。


礼。


笑うことが、礼。


怖くても、笑わなければならない。


そうしなければ、山は人を通さない。


そんな理屈があるのだろうか。


あるのだろう。


これまで見てきた怪異の中にも、人の理屈では測れないものはいくつもあった。


ただ、今回はそれが山そのもののようで、六郎には余計に怖かった。



駅からさらに車で一時間ほど走った。


迎えに来たのは、雨声会の代表、真壁遼一だった。


四十代半ば。


細身で、眼鏡をかけている。


穏やかな顔をしていた。


服装は山歩きに慣れている者のそれで、靴もきちんとしている。


「宇喜田さんですね」


真壁は丁寧に頭を下げた。


「この度は、無理なお願いをしまして」


「いいえ」


百合は短く答えた。


真壁は六郎と小夜にも挨拶した。


「藤原さんと、小夜さんですね」


「はい」


六郎が答える。


小夜は軽く頭を下げただけだった。


車の中には、ほかに二人いた。


助手席の女性が振り返る。


「佐伯千尋です」


三十代半ばくらい。


髪を後ろで結び、落ち着いた目をしている。


「民俗資料の整理を担当しています」


後部座席の奥で、若い男が片手を上げた。


「倉田悠真っす。撮影やってます」


軽い口調だった。


首からカメラを提げている。


六郎より少し年上だろう。


「撮影は」


百合が言った。


「場所によっては控えて」


倉田は少し笑った。


「もちろんです。無断で回したりしませんよ」


佐伯が横から言った。


「回します。この人は」


「千尋さん、信用ないなあ」


「過去の行動から判断しています」


真壁が苦笑した。


「すみません。撮影については私からも注意します」


車は山へ向かって走った。


途中、もう一人の参加者と合流した。


日下部円。


二十代後半の女性で、元図書館司書だという。


大きめのリュックを背負い、手帳と録音機を持っていた。


「記録係です」


日下部は言った。


「怖いのは苦手ですが、記録しない方がもっと落ち着かないので」


「それは分かる気がします」


六郎が言うと、日下部は少しだけ笑った。


「藤原さんも、記録する方ですか」


「いえ、僕は聞こえる方です」


言ってから、六郎は少し後悔した。


日下部は目を瞬かせた。


「聞こえる」


六郎は慌てて言った。


「いや、今のは、そういう意味では」


「あとで詳しく聞いても?」


「詳しくは、ちょっと」


百合が横から言った。


「聞かなくていいわ」


日下部はすぐに頷いた。


「分かりました」


本当に分かったのかは分からない。


ただ、彼女はそれ以上聞かなかった。


山の麓には、小さな集落があった。


家は少ない。


古い石垣。


細い道。


ところどころに畑がある。


春の草が伸び始めていた。


集会所のような建物の前で、地元の案内人が待っていた。


北畠宗吾。


六十代の男である。


背はあまり高くない。


けれど、体つきはしっかりしている。


顔は日に焼け、目だけが妙に鋭かった。


「真壁さん」


北畠は言った。


「本当に行くのか」


「天候を見て、無理なら戻ります」


真壁が答える。


北畠は百合たちを見た。


「そちらが?」


「宇喜田です」


百合が名乗った。


「藤原です」


「小夜です」


北畠は小夜の笛袋を見た。


一瞬だけ、目が細くなる。


「山で笛は吹くな」


小夜は静かに言った。


「必要なければ」


「必要でもだ」


北畠の声は硬かった。


「音は、山に残る」


その言葉に、六郎は鞄の中の笛を思った。


濡れている笛。


乾かない音。


北畠は、全員を集会所へ案内した。


中には、古い地図と写真が広げられていた。


過去の調査資料である。


山道。


古い祠。


落雷で裂けた杉。


使われなくなった炭焼き小屋。


そして、行方不明者の記事の切り抜き。


真壁が言った。


「今回は、鬼笑いの伝承を記録することが目的です。無理な夜間行動はしません」


北畠は鼻で笑った。


「記録したがる連中は、みなそう言う」


「過去にも?」


佐伯が訊いた。


「あった」


「消えた方が?」


北畠はすぐには答えなかった。


「山で笑い声を聞いたら」


彼は言った。


「笑い返せ」


倉田が、少し笑った。


「ほんとにそのルールなんですね」


北畠は倉田を見た。


「笑ったな」


倉田の笑みが止まる。


「今のも駄目ですか」


「ここではいい」


北畠は言った。


「山で聞いた時に、笑えん奴から消える」


集会所が静かになった。


日下部が、手帳に何かを書いている。


ペン先が小さく音を立てた。


「笑い返す理由は?」


佐伯が訊いた。


北畠は言った。


「知らん」


「知らない?」


「そういうものだ」


「鬼の機嫌を取るためですか」


「鬼ではない」


北畠は短く言った。


「では」


「鬼と呼ぶ者がいただけだ」


百合が、北畠を見た。


「名前は」


北畠は首を振った。


「ない」


「祀ってはいない?」


「祀れん」


「なぜ」


「祀るには、名が要る」


百合は小さく頷いた。


六郎は、北畠の言葉を聞いていた。


名がない。


祀れない。


それでも山にある。


そういうもの。


「昔からあるんですね」


六郎が言った。


北畠は六郎を見た。


「昔からある」


「いつから?」


「人が山に入る前からだ」


その言葉には、妙な重みがあった。


人より古いもの。


人が名前をつけるより前からあるもの。


それを、人が鬼と呼んだ。


笑い声と呼んだ。


神隠しと呼んだ。


「山で聞こえる笑い声は」


日下部が訊いた。


「どんな声ですか」


北畠は少し黙った。


「ひとりの時もある」


「はい」


「大勢の時もある」


「男ですか、女ですか」


「どちらにも聞こえる」


「子供の声は」


北畠は、日下部を見た。


「聞こえる」


日下部の手が止まった。


「子供も、消えたんですか」


北畠は答えなかった。


答えないことが、答えだった。


倉田が、気まずそうにカメラを触った。


「これ、撮影は本当にやめた方がいい感じですか」


北畠は言った。


「好きにしろ」


「いいんですか」


「山は、撮ったくらいで怒らん」


「じゃあ」


「笑えなければ連れていく。それだけだ」


倉田は口を閉じた。


百合は、窓の外を見ていた。


山が見える。


低い雲が、山の上にかかっている。


まだ雷は鳴っていない。


けれど、空は少しずつ暗くなっていた。



午後遅く、一行は山へ入った。


北畠を先頭に、真壁、佐伯、倉田、日下部。


その後ろに百合、六郎、小夜が続く。


山道は狭かった。


春の山である。


足元には湿った落ち葉が残っている。


新しい草が、その間から出ている。


木々の枝はまだ細く、葉は十分に茂っていない。


それなのに、山の中は暗かった。


道の脇には、小さな石がいくつか置かれている。


道祖神ではない。


墓でもない。


ただ、誰かがそこに置いた石である。


「目印ですか」


六郎が訊くと、北畠は振り返らずに言った。


「戻るためのものだ」


「道しるべ?」


「そう思っていればいい」


六郎はそれ以上聞かなかった。


小夜は黙って歩いている。


笛袋には触れていない。


百合は、道の左右を見ていた。


「百合さん」


六郎が小さく言った。


「はい」


「嫌な感じですか」


「ええ」


即答だった。


「どのくらい」


「笑えなくなるくらい」


六郎は返事に困った。


百合は、わずかに口元を動かした。


冗談なのかどうか分からない。


山道をしばらく進むと、古い祠が見えてきた。


崩れかけている。


扉はない。


中には何も祀られていない。


ただ、空洞だけがある。


倉田がカメラを構えた。


北畠が言った。


「中は撮るな」


「外からなら?」


「中は撮るな」


倉田は肩をすくめた。


「分かりましたよ」


佐伯は祠の前でしゃがんだ。


「何も入っていませんね」


「入れられなかったんだろう」


北畠が言った。


「何を?」


「名のないものを」


佐伯は黙った。


日下部はメモを取る。


真壁は、少し興奮しているようだった。


「すごいですね。資料にあった祠そのものだ」


「浮かれるな」


北畠が言った。


「山は、浮かれた足音を覚える」


その時だった。


遠くで、雷が鳴った。


ごろ。


低い音だった。


まだ遠い。


だが、山の中では、その音が妙に大きく聞こえた。


全員が足を止めた。


六郎は耳を澄ませた。


雷の音が、谷の向こうへ転がっていく。


ごろ。


ごろ。


その奥に。


ほんのかすかに。


は。


と、誰かが息を漏らしたような音がした。


六郎は顔を上げた。


百合がこちらを見る。


小夜も、笛袋に指をかけていた。


真壁が言った。


「今のは」


北畠が低く言った。


「聞こえたか」


誰も答えなかった。


また雷が鳴る。


今度は少し近い。


ごろ。


その後に、山の奥から声がした。


は。


短い。


笑い声の、初めの一音。


それは男の声のようでもあり、女の声のようでもあった。


老人のようでもあり、子供のようでもあった。


ひとりのようでもあり、大勢のようでもあった。


倉田が、ひきつった顔で笑った。


「はは」


軽い笑いだった。


怖さをごまかすための笑い。


山の奥から、同じ声が返った。


はは。


今度は、少し大きかった。


全員が動けなくなった。


北畠が言った。


「笑え」


誰もすぐには笑えなかった。


北畠が振り返る。


「笑え」


その声は怒鳴り声ではなかった。


しかし、怒鳴るより怖かった。


真壁が、無理に笑った。


「はは」


佐伯も、口元を引きつらせた。


「はは」


日下部の声は震えていた。


「は、はは」


倉田は、すでに笑っていた。


笑いが途中から変になっていた。


六郎は、喉が詰まった。


笑わなければならない。


分かっている。


けれど、笑い声が出ない。


怖い時に笑うのは難しい。


小夜が横で、短く笑った。


「は」


それは笑いというより、息だった。


しかし、山はそれを受け取ったようだった。


百合は、静かに笑った。


「ふ」


本当に小さな笑いだった。


冗談を聞いた時のようでもあり、何かを見切った時のようでもあった。


六郎は、その音を聞いて、ようやく息を吐いた。


「はは」


乾いた笑いだった。


山の奥で、笑い声が重なった。


はは。


ははは。


はははは。


雷が鳴る。


笑い声が、谷を渡っていく。


六郎の背中を、冷たい汗が伝った。


それは、こちらを馬鹿にしている笑いではなかった。


楽しんでいる笑いでもなかった。


ただ、山が口を開けた。


そんな笑いだった。


百合は、山の奥を見ていた。


「始まったわね」


いつもの声だった。


六郎は、何も言えなかった。


山はまだ、笑っていた。

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