雷乃発声 二【笑えぬ者】
山が笑ったあと、しばらく誰も動けなかった。
雷は遠ざかったわけではない。
山の奥へ入り込んだように聞こえた。
ごろ。
ごろ。
空ではなく、木々の根の下を転がっているような音だった。
それに混じって、笑い声がした。
はは。
ははは。
短く。
遠く。
近い。
その距離が、六郎にはうまく掴めなかった。
山の奥から聞こえるのに、耳のすぐそばで笑われているようでもある。
笑ったのは、ひとりではない。
かといって、大勢とも言い切れない。
ひとつの喉が、何人分もの声を出しているようでもあった。
「今の」
倉田悠真が、カメラを胸に抱えたまま言った。
「録れましたかね」
声が震えていた。
震えているのに、笑おうとしている。
それがかえって痛々しかった。
「やめておけ」
北畠宗吾が言った。
「確認は下りてからにしろ」
「でも」
「山の中で、今の声を聞き直すな」
倉田は口を閉じた。
日下部円は手帳を開いていた。
けれど、ペン先が止まっている。
書きたいのだろう。
記録しなければ落ち着かない人間だと、六郎は思っていた。
その日下部が、書けずにいる。
佐伯千尋は祠を見ていた。
崩れかけた祠。
中には何もない。
空洞だけがある。
「反響、ではないですね」
佐伯が言った。
「反響なら、倉田さんの声と同じ形で返るはずです」
「今のは違いましたか」
真壁遼一が訊いた。
「はい」
佐伯は山の奥を見る。
「返った、というより、増えました」
六郎は、その言葉に少しだけ顔を上げた。
増えた。
それは、かなり近かった。
倉田が笑った。
山が笑った。
そのあと、倉田の笑い声が返ったのではない。
そこへ別の笑いが重なり、増えた。
あの音は、そういうものだった。
百合は、祠の前に立っていた。
祠の中を見ている。
何もない場所を、何かがあるように見ている。
小夜はその横にいた。
笛袋には触れていない。
ただ、指先が少し曲がっていた。
いつでも触れられる位置で止まっている。
「北畠さん」
百合が言った。
「この祠は、何のために?」
北畠は少し黙った。
「知らん」
「知らない?」
「子どもの頃からあった」
「祀っていないのね」
「祀れんと言ったはずだ」
百合は頷いた。
「ええ」
北畠は、祠を見た。
「昔の連中は、どうにかしたかったんだろう」
「どうにか」
「山で笑うものを、祠に入れようとした」
「入らなかった」
「入るわけがない」
北畠の声には、怒りに似たものがあった。
「名もないものを、こんな箱に入れられると思った。馬鹿な話だ」
「だから、空なのね」
百合が言った。
北畠は答えなかった。
六郎は祠を見た。
空の祠。
何も祀られていない祠。
それは、何かがいない場所ではなかった。
何かを入れ損ねた場所に見えた。
「ここから先は」
北畠が言った。
「戻るなら今だ」
真壁が振り返る。
「予定では、もう少し上まで」
「予定は人間が作る」
北畠は短く言った。
「山は予定を知らん」
倉田が小さく笑いかけて、すぐ口を押さえた。
笑っていいのか。
いけないのか。
もう、分からなくなっているのだ。
「笑い声が聞こえたら、笑う」
北畠は全員を見た。
「それ以外で、余計に笑うな。呼ぶな。真似るな。録るな。あとから聞き返すな」
倉田が顔をしかめる。
「録るな、まで言います?」
「言う」
「でも、今回の調査の目的って」
北畠は倉田を見た。
「消えたやつの声が、次に録れるかもしれんぞ」
倉田は黙った。
日下部のペン先が、紙に触れた。
かり、と小さな音がする。
彼女はそれを書いた。
消えたやつの声。
文字になった途端、六郎は少し寒くなった。
言葉は、時々、ものをこちら側へ呼ぶ。
「行くの?」
小夜が百合に訊いた。
百合は山道の先を見た。
「ええ」
「戻る選択もあるけど」
「そうね」
「戻らないの」
「まだ、戻るところではないわ」
「そう」
小夜はそれ以上言わなかった。
六郎は、肩掛けの鞄の紐を握った。
中の笛は、何も言わない。
けれど、そこにある。
それだけが分かった。
⸻
祠を過ぎると、山道は急に細くなった。
木の根が道に浮き出ている。
湿った土に、足が少し沈む。
道の両側には、背の低い笹が茂っていた。
風がないのに、時々、笹の葉が揺れる。
誰かが触れたように。
六郎は何度か振り返った。
後ろには誰もいない。
ただ、通ってきた道がある。
その道も、振り返るたびに少し違って見えた。
「振り返るな」
北畠が言った。
六郎は、はっとした。
「すみません」
「謝らんでいい。振り返るな」
「はい」
「後ろにいると思うと、人は後ろを見る」
北畠は前を向いたまま言った。
「後ろを見ると、後ろができる」
六郎は、その意味をすぐには理解できなかった。
けれど、分からないまま背中が冷えた。
「北畠さん」
佐伯が訊いた。
「この伝承は、いつごろから記録があるんですか」
「記録は古くない」
「古くない?」
「紙に残したのは、せいぜい江戸の終わりだ」
「では、それ以前は」
「口だ」
北畠は言った。
「言うて伝えた。言うてはいけないことまで、言うて伝えた」
「矛盾していますね」
佐伯が言う。
「伝承は矛盾する」
北畠は返した。
「矛盾しとるから残る」
佐伯は少し黙った。
メモを取りたい顔をしていた。
でも、歩きながら書くことはできない。
日下部が代わりに、録音機を握っている。
録音はしていない。
ただ、握っているだけだった。
「昔は」
真壁が言った。
「笑えなかった人を、どう理解していたんでしょうか」
北畠は答えない。
「山に選ばれた、とか。鬼に魅入られた、とか」
「そんな綺麗なものじゃない」
「では」
「笑えなかったんだ」
北畠の声は低かった。
「それだけだ」
六郎は、前を歩く北畠の背を見た。
笑えなかった。
それだけ。
けれど、それだけで人が消える。
怖い時に笑えないのは、当たり前ではないのか。
恐怖で喉が固まる。
歯が鳴る。
息が詰まる。
その時に笑えと言われる。
笑えなければ消える。
あまりにも理不尽だった。
だが、山のものに理不尽という言葉は通じないのだろう。
「人を試しているんでしょうか」
六郎が言った。
北畠は振り返った。
「違う」
「違う?」
「試すには、考えが要る」
北畠は山の奥を見た。
「これは、そういうものじゃない」
百合が、静かに続けた。
「雨が濡らすように」
北畠は、少しだけ百合を見た。
「そうだ」
百合は言った。
「雷が鳴る。山が笑う。笑えなければ、消える」
「それだけだ」
北畠は頷いた。
「それを、神と言う者もいた。鬼と言う者もいた。山の癖だと言う者もいた」
「北畠さんは、何と呼ぶんですか」
六郎が訊いた。
北畠はしばらく黙った。
「呼ばん」
その答えに、六郎は何も返せなかった。
呼ばない。
呼べば、向こうが振り向くのかもしれない。
⸻
道の途中に、焼けた杉があった。
根元から半分ほどが黒くなっている。
落雷の跡だと、すぐに分かった。
幹は裂け、内側が白く見えている。
ただ、完全には枯れていない。
上の方には、細い枝が残っていた。
枝先に、若い葉がついている。
日下部が、それを見て小さく息を呑んだ。
「生きてる」
「雷に打たれても、残る木は残る」
北畠が言った。
「この木も、目印ですか」
真壁が訊いた。
「そうだ」
「何の」
「ここから先で聞こえたら、笑え」
倉田が顔を上げる。
「またですか」
「ここからが本当だ」
その言葉のあと、誰も喋らなかった。
焼けた杉の根元には、石がいくつも置かれていた。
小さな石。
丸い石。
平たい石。
誰かが拾って置いたものだろう。
そのいくつかに、名前が彫られていた。
彫られているというより、傷つけられている。
年月で、ほとんど読めなくなっていた。
佐伯が膝をつく。
「行方不明者の?」
北畠は答えなかった。
「慰霊ですか」
「慰霊なら、寺でやる」
「では」
「戻るためだ」
六郎はまた、その言葉を聞いた。
戻るため。
祠の前にも、石があった。
この道のあちこちに、戻るためのものが置かれている。
だが、それは道しるべではないのかもしれない。
人が人の側に戻るためのもの。
消えた者が、消えたままにならないようにするためのもの。
そう思ったが、口には出さなかった。
倉田が、焼けた杉を撮っていた。
北畠は止めなかった。
ただ、見ていた。
「これはいいんですか」
六郎が小さく訊く。
北畠は言った。
「木は怒らん」
「山は?」
「山は撮られたくらいでは怒らん」
「じゃあ、何で」
「怒るんじゃない」
北畠は言った。
「連れていくんだ」
その時、空が低く鳴った。
ごろ。
遠くではない。
今度は近い。
木々の上で、空が震えた。
六郎は息を止める。
北畠がすぐに言った。
「笑え」
山の奥から、笑い声がした。
はは。
今度は、はっきりしていた。
ひとりの声ではない。
子どもの声が混じっている。
老人の声も。
若い女の声も。
喉の奥で乾いた男の声も。
はは。
ははは。
真壁が、声を出した。
「はは」
佐伯も続く。
「はは」
日下部は目を閉じて笑った。
「は、はは」
倉田はカメラを構えたまま、笑い損ねた。
口は開いている。
けれど、声が出ない。
六郎はそれに気づいた。
「倉田さん」
百合が言った。
声はいつも通りだった。
「笑って」
倉田は、目を見開いていた。
カメラのレンズは、山の奥へ向いている。
何かを見ている。
六郎には見えない。
ただ、聞こえた。
山の奥で、誰かが笑っている。
その笑いが、倉田の喉へ指を入れているような気がした。
「倉田」
真壁が言った。
「笑え」
倉田の唇が震える。
「いや」
ようやく声が出た。
笑いではなかった。
「今、いた」
「何が」
佐伯が訊く。
「人が」
倉田は山の奥を指した。
「木の間に、人が並んでた」
北畠の顔が変わった。
「見るな」
倉田は、まだ見ていた。
「笑ってた」
山が、また鳴った。
ごろ。
雷の音が、焼けた杉の幹を震わせた。
山の奥から、笑い声が近づく。
ははは。
はははは。
倉田は笑おうとした。
「は」
そこまでは出た。
だが、続かない。
喉が詰まったように、口だけが開いたままになる。
小夜が息を吸った。
笛袋に手が伸びる。
その手を、百合が見た。
「まだ」
小夜は止まった。
百合が、懐から紙を一枚取り出した。
白い紙だった。
そこに、墨で何かが書かれている。
文字のようにも見えたが、六郎には読めなかった。
百合はその紙を倉田の背へ向けた。
それから、指を組んだ。
祈る形ではない。
印を結ぶ、という言葉を六郎は知らなかった。
ただ、その指の形が、何かを閉じるためのものだということだけは分かった。
百合の唇が、小さく動く。
声はほとんど聞こえない。
言葉なのか、息なのかも分からない。
けれど、その音を聞いた瞬間、六郎の耳の奥が少しだけ痛んだ。
倉田の身体が、大きく震えた。
「は、はは」
笑いが出た。
引きつった笑い。
泣き声に近い笑い。
それでも、笑いだった。
山の奥の笑い声が、少しだけ遠のいた。
倉田は、その場に崩れ落ちた。
カメラが地面に当たる。
「倉田!」
真壁が駆け寄る。
倉田は生きていた。
肩で息をしている。
顔は真っ青だった。
「今の」
倉田は震えていた。
「今の、俺の後ろに」
「見たのか」
北畠が訊いた。
倉田は頷こうとして、首を振った。
どちらなのか分からない。
「見たくない」
それだけ言った。
六郎は百合を見た。
「百合さん」
「死なないようにしただけよ」
百合は、札を下ろした。
その札の端が、黒く焦げていた。
焦げた匂いがした。
「祓ったわけではないんですね」
「ええ」
「止めたわけでも」
「ええ」
「じゃあ」
「今はまだ、こちらにいる」
百合は倉田を見た。
「それだけ」
その声は、いつも通りだった。
だからこそ、六郎はぞっとした。
百合が何をしたのか、六郎には分からなかった。
紙を向けた。
指を組んだ。
ほとんど聞こえない声で、何かを唱えた。
それだけだった。
北畠は、焼けた杉の奥を見ている。
「戻る」
真壁が顔を上げた。
「まだ予定地点まで」
「戻る」
北畠の声は硬かった。
「今のを見て、まだ行くなら、ここから先は案内せん」
真壁は唇を噛んだ。
佐伯も何か言いかけたが、倉田の顔を見て黙った。
日下部は手帳を握っている。
手が震えていた。
「戻りましょう」
日下部が言った。
「記録は、できました」
その声は小さかった。
けれど、真壁には届いた。
「分かりました」
真壁は言った。
「戻ります」
その時。
山の奥から、また笑い声がした。
はは。
短い。
遠い。
けれど、さっきよりもはっきりしていた。
倉田の声が、そこに混じっていた。
倉田本人は、目の前で息をしている。
六郎は、その声を聞いた。
笑い声の中に、倉田の声が少しだけ混じっている。
ほんの少し。
まだ、全部ではない。
「百合さん」
六郎が言った。
「今」
「ええ」
百合は山の奥を見ていた。
「覚えられたわね」
「倉田さんが?」
「ええ」
小夜が低く言った。
「次は、笑い損ねたら終わりかも」
倉田は、それを聞いていたのかいないのか、地面に座ったまま震えていた。
北畠が言った。
「立て」
「無理です」
倉田が言う。
「無理でも立て」
「足が」
「足があるうちに立て」
その言葉に、倉田は泣きそうな顔をした。
真壁と佐伯が両側から支える。
倉田は立った。
山道を下り始める。
六郎は最後尾近くを歩いた。
後ろを見ないように。
しかし、聞こえていた。
山の奥で、列が動くような音がする。
足音ではない。
葉擦れでもない。
人が何人も、笑いながら歩く時の、喉と息と衣擦れが混じった音。
はは。
ははは。
それはまだ遠い。
だが、確かに、こちらの後をついてきていた。
⸻
下山の途中で、雨が降り出した。
細い雨だった。
山道の土が、すぐに黒くなる。
落ち葉が濡れる。
石が滑る。
一行は、ほとんど喋らなかった。
倉田は真壁に肩を借りている。
佐伯は何度も後ろを振り返りそうになり、そのたびに自分で止めていた。
日下部は手帳をしまっている。
記録係が記録をやめる。
そのことが、六郎にはかえって怖かった。
小夜が、六郎の横へ来た。
「聞こえる?」
「はい」
「どんな」
六郎は少し迷った。
「列です」
「列」
「人が、歩いてます」
小夜は黙った。
「笑いながら」
「見える?」
「見えません」
「よかった」
「よかったんですか」
「見えたら、たぶん笑えない」
六郎は何も言えなかった。
その時、日下部が足を止めた。
「どうしました」
六郎が訊く。
日下部は、山道の脇を見ていた。
そこには、小さな石があった。
苔に覆われている。
他の石と同じように見えた。
けれど、日下部は動けなくなっている。
「名前が」
彼女は言った。
「名前?」
佐伯が近づく。
石の苔を、指で少しだけ払う。
そこに、かすかに文字が見えた。
倉田。
六郎は、一瞬、息を止めた。
倉田悠真が、真壁の肩から顔を上げる。
「俺?」
石には、確かに倉田と読める傷があった。
古い。
今日刻まれたものではない。
何年も、何十年も前からそこにあったように見える。
だが、倉田という文字だった。
倉田の顔が崩れた。
「何で」
北畠が言った。
「見るな」
「何で俺の名前が」
「見るな」
「何でだよ」
倉田の声が大きくなる。
その時、雷が鳴った。
近い。
ごろ。
山の奥で、笑い声が起きる。
はは。
ははは。
北畠が叫ぶ。
「笑え!」
全員が笑った。
真壁。
佐伯。
日下部。
小夜。
六郎。
百合。
北畠。
皆、無理に笑った。
「はは」
「ははは」
「は、はは」
倉田だけが、石を見ていた。
自分の名前を見ていた。
口が開く。
だが、笑いではない。
「いやだ」
その声は、山に吸われた。
百合の手が動いた。
速かった。
六郎がそれを目で追うより早く、白いものが雨の中にひらめいた。
百合の口元が、何かを言いかける。
けれど、雷の方が早かった。
ごろ。
音が落ちた。
倉田の身体が、そこから抜けた。
六郎は、瞬きをした。
次の瞬間、倉田はいなかった。
真壁の腕が、空を抱えている。
肩を貸していた相手が、消えていた。
カメラだけが、泥の上に落ちた。
誰も声を出せなかった。
ただ、山の奥から、笑い声がした。
ははは。
はははは。
その中に、倉田の声があった。
今度は、はっきりと。
倉田悠真の笑い声が、山の奥で、他の声に混じっていた。
日下部が口を押さえた。
佐伯は膝をついた。
真壁は、空になった腕を見ている。
北畠が、低く言った。
「走るな」
誰も動けなかった。
「走れば、追われる」
雨が強くなった。
山は、笑っていた。
六郎は、鞄の中の笛が、ほんの少し冷たくなったのを感じた。




