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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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18/20

雷乃発声 三【百鬼夜行のなりそこない】

倉田悠真が消えたあと、山道には、しばらく雨の音だけがあった。


真壁遼一は、空になった自分の腕を見ていた。


ついさっきまで、そこには倉田の身体があった。


肩を貸していた。


重さがあった。


息があった。


震えがあった。


それが、雷の一つで消えた。


人間が消える時に、もっと音がするものだと六郎は思っていた。


叫び声とか。


足音とか。


枝の折れる音とか。


けれど、何もなかった。


ただ、倉田のカメラだけが泥の上に落ちている。


雨に濡れて、黒く光っていた。


「倉田」


真壁が言った。


北畠が振り返る。


「呼ぶな」


声は低かった。


真壁は顔を上げた。


「でも」


「呼ぶな」


「名前くらい」


「名前は、こちらへ戻るためのものだ」


北畠は言った。


「向こうへ入ったばかりの者に投げるな」


真壁の顔が歪んだ。


「では、どうすれば」


「歩け」


北畠は山道の下を指した。


「ここにいたら、次はお前だ」


真壁は何も言えなかった。


佐伯千尋が、落ちたカメラを拾おうとした。


北畠が鋭く言った。


「触るな」


佐伯の手が止まる。


「でも、記録が」


「もう記録されとる」


「どこに」


北畠は、山の奥を見た。


「向こうに」


その時だった。


山の奥から、笑い声がした。


ははは。


さっきよりも近い。


その中に、確かに倉田の声が混じっていた。


軽い笑い。


調子のいい笑い。


少し怯えた時にごまかすような笑い。


それが、ほかのいくつもの笑い声に混じっている。


真壁が膝をついた。


「倉田……」


北畠が、真壁の肩を掴んだ。


「立て」


「私が連れてきた」


「立て」


「私が」


「山は、謝罪を聞かん」


北畠は言った。


「笑えん者を連れていくだけだ」


雨が強くなる。


木々の葉が、ざわざわと鳴った。


風ではない。


山全体が、喉を鳴らしているような音だった。


百合は、真壁を見ていた。


「真壁さん」


声はいつも通りだった。


「今は、立って」


真壁は百合を見た。


その顔は、何かにすがる者の顔だった。


「助けられますか」


百合は、少しだけ黙った。


「今のままでは、無理ね」


真壁は唇を噛んだ。


「そうですか」


「でも、あなたがまだこちらにいるなら、歩けるわ」


「こちら」


「ええ」


百合は、山の奥を見た。


「向こうを見すぎないこと」


真壁は、ゆっくり立った。


佐伯が支える。


日下部円は、手帳を抱きしめていた。


もう書いていない。


書けないのだろう。


小夜は、笛袋を抱えたまま動かなかった。


「百合」


小夜が言った。


「笑い声が近い」


「ええ」


「下りられる?」


「道があれば」


北畠が先頭に立った。


「道はある」


そう言って歩き出す。


だが、その声に確信はなかった。



下りているはずだった。


焼けた杉を過ぎ、祠を過ぎ、集落へ戻る。


そういう道のはずだった。


しかし、いくら歩いても、焼けた杉から遠ざからない。


振り返ってはいけないと分かっていた。


それでも、六郎は何度か横目で後ろを見そうになった。


見なかった。


見れば、後ろができる。


北畠の言葉が耳に残っていた。


「おかしい」


佐伯が言った。


「この道、さっき通りました」


北畠は答えない。


「北畠さん」


「黙って歩け」


「でも」


「分かっとる」


北畠の声は荒かった。


「道が戻らん」


「戻らない?」


日下部が震えた声で言った。


「私たちが間違えたんですか」


「山が間違えとる」


北畠は言った。


「いや、違うな」


少しだけ言葉を切る。


「山にとっては、こっちが間違いだ」


雷が鳴った。


ごろ。


今度は近い。


北畠が、振り返らずに言った。


「笑え」


全員が笑った。


もう、笑い声というより、息だった。


「はは」


「は、はは」


「ははは」


六郎も笑った。


喉が痛い。


笑うたびに、自分の声が自分のものではなくなるようだった。


山の奥から、笑い声が返る。


いや。


返るのではない。


加わる。


こちらの笑いを拾い、山の中にある列へ挿し込んでいく。


そんな感じだった。


その笑いの中に、倉田がいた。


六郎には分かった。


倉田はもう、こちらにいない。


けれど、消えていない。


山の中を歩いている。


笑いながら。


「小屋がある」


北畠が言った。


少し先に、黒い影が見えた。


古い炭焼き小屋だった。


屋根は歪み、壁板のいくつかは外れている。


それでも、雨を少しはしのげそうだった。


「入る」


「大丈夫なんですか」


真壁が訊いた。


「外よりは」


北畠は短く答えた。


一行は小屋へ入った。


中は狭かった。


土間があり、奥に古い炉の跡がある。


炭の匂いがまだ残っていた。


湿った木。


古い灰。


雨。


人の息。


それらが混ざっている。


六郎は、入口に立ったまま外を見た。


雨が斜めに降っている。


木々の間は暗い。


まだ夕方のはずなのに、夜のようだった。


百合は、入口の内側に立った。


懐から、細長い紙を何枚か取り出す。


六郎には、それが何か分からない。


ただ、白い紙に黒い線が走っている。


文字のようにも見えた。


絵のようにも見えた。


百合はそれを入口の左右に置いた。


貼るのではない。


置く。


雨に濡れそうな場所に、そっと置いた。


紙は濡れなかった。


雨がそこだけ避けているように見えた。


六郎は目を凝らした。


やはり、濡れていない。


百合は次に、床の灰を指で少し取った。


入口の土に、短い線を引く。


一本。


二本。


三本。


それだけだった。


何かの形にも見えない。


けれど、その線が引かれたあと、小屋の中の空気が少し重くなった。


重くなったというより、沈んだ。


外へ流れ出そうとしていたものが、床に留められたような感じだった。


「百合さん」


六郎が言った。


「何を」


「出ていかないように」


「何がですか」


百合は、六郎を見た。


「私たちが」


六郎は黙った。


それは、外のものを入れないためではない。


中の人間が向こうへ行かないようにするための線なのだ。


百合は、小屋の中央に立った。


指を少し曲げる。


六郎の知らない形だった。


祈る形ではない。


拒む形でもない。


何かを、ほどけないように結んでいるような形だった。


唇が動く。


声は聞こえない。


ただ、六郎の耳の奥に、細い糸を張られたような感覚があった。


小夜が、息を吐いた。


「これで?」


「少しだけ」


百合は言った。


「少し?」


「ええ」


「止められない?」


「止めるものではないわ」


百合の声は変わらない。


「流れに、爪を立てただけ」


小夜は黙った。


六郎は、小屋の外を見た。


雨が強い。


その向こうで、山が笑っている。


はは。


ははは。


はははは。


列が近づいている。


六郎には、音で分かった。


何人もいる。


いや、何人という数え方が合わない。


列なのだ。


人の形をしたものたちが、列をなして歩いている。


笑いながら。


木々の間を。


道ではないところを。


沢の上を。


斜面を。


根の間を。


それらが、こちらへ近づいている。


「来ます」


六郎が言った。


北畠は、入口を睨んでいた。


「見えるか」


「見えません」


「なら、まだいい」


その時、日下部が小さく声を上げた。


「見えます」


全員が彼女を見た。


日下部は、小屋の壁板の隙間を見ていた。


顔が青い。


「木の間に」


六郎は、その隙間を見ないようにした。


だが、日下部の目が動かない。


「人が、歩いています」


佐伯が震えた声で言った。


「円さん、見ないで」


「並んでる」


日下部の声は、記録を読み上げる時のようだった。


「古い服の人。登山服の人。子ども。お爺さん。女の人。倉田さん」


真壁が息を呑んだ。


「倉田が」


「見ないでください」


佐伯が言った。


「真壁さん」


しかし、真壁はもう壁の隙間へ顔を向けていた。


百合が言った。


「真壁さん」


声は静かだった。


「見ない方がいいわ」


「倉田がいるんですか」


日下部は答えられない。


「倉田が」


真壁は、壁の隙間を覗いた。


その瞬間、雷が鳴った。


ごろ。


山の笑い声が、小屋のすぐ外で弾けた。


はははははは。


北畠が叫ぶ。


「笑え!」


全員が笑った。


百合も。


小夜も。


佐伯も。


日下部も。


六郎も。


北畠も。


「はは」


「ははは」


「は、はは」


真壁だけが、壁の隙間を覗いたままだった。


顔が歪んでいる。


目の前に、倉田がいるのだろう。


列の中に。


笑いながら。


「すまない」


真壁が言った。


笑いではなかった。


「私が」


百合の声がした。


「真壁さん」


変わらない声だった。


「笑って」


真壁の口が開く。


笑おうとした。


だが、出てきたのは、また謝罪だった。


「すまない」


雷が鳴った。


今度は、近すぎた。


音ではなく、光だった。


小屋の中が白くなる。


六郎は、反射的に目を閉じた。


その一瞬、百合の手が動いたのが見えた。


速かった。


六郎が追うより早く、白いものが宙にひらめいた。


けれど、雷の方が早かった。


音が落ちた。


真壁のいた場所から、重さが抜けた。


六郎は目を開けた。


真壁はいなかった。


壁の隙間だけが、黒く開いている。


そこから雨が吹き込んでいた。


「真壁さん」


佐伯が言った。


北畠が低く言う。


「呼ぶな」


佐伯は両手で口を塞いだ。


泣いている。


声を出さないように。


小屋の外で、笑い声が増えた。


ははは。


はははは。


その中に、真壁の声が混じっていた。


真壁遼一の、いつも丁寧で、少し緊張したような笑い声。


それが、倉田の声の隣にあった。


日下部が膝から崩れた。


佐伯が抱き止める。


小夜は笛袋を握りしめている。


百合は、入口の線を見ていた。


線はまだ残っている。


だが、灰が雨に濡れて、少しずつ崩れていた。


「百合」


小夜が言った。


「これ以上は」


「ええ」


百合は答えた。


「長くはもたないわね」


「どうするの」


百合は、小屋の外を見た。


「下りる」


「道は?」


「なくても」


六郎は、鞄の紐を握った。


中の笛が冷たい。


さっきよりも、ずっと冷たい。


濡れた木の冷たさ。


川底の石の冷たさ。


誰かの手のような冷たさ。


「六郎」


百合が言った。


「はい」


「鞄、持っていて」


「え?」


「離さないで」


「はい」


百合の目は、いつもと同じだった。


静かで、変わらない。


けれど六郎は、少しだけ分かった。


これは、危ないのだ。


かなり。


いや、おそらく、もう危ないという段階を過ぎている。



小屋の外を、列が通った。


誰も、はっきり見ようとはしなかった。


けれど、見えてしまうものはあった。


壁の隙間。


入口の暗がり。


雨の向こう。


木と木の間。


そこを、人の形が通る。


古い蓑を着た者。


学生服のようなものを着た者。


登山靴の者。


裸足の者。


子ども。


老婆。


顔のない者。


顔が笑いだけになった者。


それらが列をなして歩いている。


笑いながら。


はは。


ははは。


はははは。


歩いているのに、足音はしない。


笑い声だけがある。


その列の中に、倉田がいた。


カメラを首から下げていた。


ただし、カメラは泥に落ちたはずだった。


それでも、列の中の倉田はカメラを持っている。


笑っていた。


楽しそうではなかった。


怖そうでもなかった。


ただ、笑っていた。


その少し後ろに、真壁がいた。


眼鏡をかけたまま、笑っていた。


目から涙が出ていた。


それでも笑っていた。


佐伯が、声を殺して泣いている。


日下部は目を閉じ、両手で耳を塞いでいた。


だが、笑い声は塞げない。


六郎には分かった。


耳を塞いでも、入ってくる。


山の笑いは、耳から入るものではない。


喉に入る。


胸に入る。


笑え、と内側から言う。


「これは」


六郎は、やっと声を出した。


「百鬼夜行、なんですか」


百合は、列を見ていた。


「なりそこないね」


「なりそこない」


「形がない。名もない。けれど列だけがある」


百合は言った。


「人が、向こうへ行くための形を借りている」


「止められますか」


「無理ね」


即答だった。


「無理なんですか」


「ええ」


「じゃあ」


「死なないようにはするわ」


百合は、それだけ言った。


その声に、悲壮さはなかった。


勝つつもりも。


諦めも。


ただ、そうするというだけの声だった。


六郎は、喉の奥が冷たくなった。


外の列が、止まった。


笑い声も止まる。


いや。


止まったのではない。


奥に引っ込んだ。


次に来るもののために、道を空けた。


山の奥で、雷が鳴った。


ごろ。


ごろごろ。


今度の音は、空からではなかった。


山の腹の中からだった。


木々が震える。


小屋の屋根が鳴る。


地面が、わずかに沈む。


雨が、一瞬だけ斜めではなく、真下へ落ちた。


北畠が、初めて後ずさった。


「来る」


小夜が言った。


笛袋を抱えたまま。


「何が」


六郎が訊く。


小夜は答えなかった。


百合が、入口の外を見た。


「雷声だったもの」


「らいせい」


六郎の声が掠れる。


「雷が声を持ったもの」


百合は静かに言った。


「あるいは、声が雷になったもの」


山の奥で、笑い声が起きた。


これまでの笑いとは違った。


大きい。


深い。


ひとつの声なのに、山全部が笑っている。


は。


はは。


はははははははは。


小屋の壁が震えた。


入口に置かれた白い紙が、一枚、黒く焦げた。


灰で引かれた線が、雨で崩れる。


百合は、少しだけ前へ出た。


六郎はその背を見た。


細い背だった。


いつも通りの背だった。


その向こうに、山が笑っている。


列が、頭を下げるように揺れた。


百鬼夜行のなりそこないが、道を開ける。


その奥から、何かが来る。


六郎には、まだ見えない。


けれど、聞こえた。


雷が、喉を持つ音。


笑いが、姿を持つ音。


そして。


鞄の中で、濡れた笛が、ひゅう、と小さく鳴った。

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