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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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19/20

雷乃発声 四【雷声】

雷乃発声かみなりすなわちこえをはっす


雷声


鞄の中で、濡れた笛が鳴った。


ひゅう。


風が通ったような音だった。


だが、風ではない。


小屋の中に、風はなかった。


雨は外にあり、雷は山の腹の奥にある。


それなのに、その音だけが、六郎の鞄の中で鳴った。


百合が、六郎を見た。


小夜も見た。


北畠も、佐伯も、日下部も、六郎の鞄を見た。


笑い声が止んでいた。


止んでいるのではない。


待っているのだ。


山が。


列が。


それから、雷声だったものが。


「六郎」


百合が言った。


いつもと同じ声だった。


籠目屋で酒を注ぐ時と、ほとんど変わらない声である。


「はい」


六郎は答えた。


自分の声が、自分の声ではないように聞こえた。


「なんでもいいから、吹いて」


小夜が、息を呑んだ。


「百合」


「ええ」


「それは」


「分からないわ」


百合は山の奥を見たまま言った。


「でも、鳴りたがっている」


六郎は、鞄を開けた。


中に、笛があった。


濡れていた。


いつものように。


布に包んでいるはずなのに、その布まで湿っている。


雨の湿りではない。


川の湿り。


夜の水の湿り。


人の手では拭えない湿り。


六郎は、それを手に取った。


冷たかった。


冷たいのに、手から離れなかった。


指に吸いつくようだった。


山の奥で、低い音がした。


ごろ。


雷ではなかった。


笑い声の前に、喉が鳴ったのだ。


小屋の外で、列が揺れる。


倉田が笑っている。


真壁が笑っている。


知らない顔が笑っている。


古い顔。


若い顔。


目のない顔。


口だけの顔。


顔をなくしても、笑いだけが残ったもの。


それらが、山道ではない場所に列を作っていた。


雨の中を濡れずに歩いている。


足音はない。


笑い声だけがある。


その列の奥が、割れた。


雷が、形を持つ。


六郎には、そう見えた。


いや、見えたのではない。


聞こえたものが、ようやく目の前に立った。


黒い影だった。


影というには大きい。


木々よりも高いように見える。


だが、次の瞬間には、老人ほどの背にも見える。


輪郭が定まらない。


角がある。


そう見えた。


けれど、それは角ではなく、稲妻が枝分かれした形かもしれない。


顔がある。


そう見えた。


けれど、顔の中で確かなのは、笑っている口だけだった。


口がある。


裂けている。


雷の光を内側に含んでいる。


笑うためにあるのではない。


鳴るためにある口だった。


「見るな」


北畠が言った。


声が震えていた。


「見るな。笑え」


けれど、誰も笑えなかった。


目の前のものが、あまりに大きい。


怖いのではない。


怖いという言葉では足りない。


山が、人の形を借りて立っている。


そういうものを前にして、人は笑えない。


佐伯の唇が震えている。


日下部は、手帳を胸に抱いていた。


小夜は笛袋を握ったまま、唇を噛んでいる。


北畠は笑おうとしている。


だが、喉から音が出ていない。


百合は、入口に置いた白い紙を見た。


一枚は黒く焦げていた。


もう一枚は、端から灰になっている。


床に引いた線は、雨で崩れかけていた。


百合は、また懐へ手を入れた。


今度は紙を出さなかった。


指先を、床へ置いた。


濡れた土の上で、何かを押さえるように。


ほんの少しだけ、彼女の指が沈んだ。


それだけだった。


けれど、小屋の中にいた者たちの足元が、わずかに重くなった。


六郎は感じた。


身体が、ここに留まった。


列の方へ行きかけていた何かが、足首のあたりで止まった。


百合が何をしたのか、六郎には分からない。


ただ、死なないようにしたのだと思った。


勝つためではない。


退けるためでもない。


ここにいる者が、まだこちら側で息をできるように。


それだけだった。


雷声だったものが笑った。


は。


その一音で、小屋の屋根が鳴った。


はは。


入口の白い紙が、もう一枚焦げた。


ははははは。


佐伯が膝をついた。


日下部の口が開いた。


笑わなければならない。


だが、笑えない。


六郎も同じだった。


喉が動かない。


笛を持つ手だけが、動いた。


「六郎」


百合の声が聞こえた。


近いのか遠いのか分からない。


「吹いて」


六郎は、笛を口に当てた。


濡れた木の味がした。


水。


川。


泥。


夜。


木曽川の風。


それから、自分の知らない誰かの息。


全部が、笛の中にあった。


吹き方など、知らない。


指も合っていない。


音階も分からない。


小夜のようには吹けない。


けれど、百合は言った。


なんでもいいから、と。


六郎は息を入れた。


最初の音は、かすれた。


ひゅ。


それは、鞄の中で鳴った時と同じ音だった。


山の笑いが、止まる。


いや、止まったのではない。


聞いた。


雷声だったものが、六郎を見た。


口だけが、こちらを向いた。


六郎は、もう一度息を入れた。


今度は、音が伸びた。


細い音だった。


笛の音と呼べるのかも分からない。


ただ、山の中に一本、細い線が引かれた。


雨の中を。


笑い声の中を。


列の間を。


倉田の横を。


真壁の横を。


名も知らない者たちの間を。


その音は、笑わなかった。


泣きもしなかった。


呼びもしなかった。


ただ、通った。


六郎の意識は、遠くなっていった。


倒れたわけではない。


目は開いている。


笛も持っている。


息もしている。


けれど、自分が小屋の中にいるのか、山の中にいるのか分からなくなる。


列の横を歩いているような気がした。


倉田がいた。


笑っていた。


真壁もいた。


笑っていた。


二人とも、こちらを見た。


助けてくれ、と言っているようには見えなかった。


戻してくれ、とも。


ただ、笑っていた。


笑うしかない顔で。


六郎は吹いた。


音は、うまくない。


途切れる。


揺れる。


息が足りない。


けれど、笛は鳴った。


鳴りながら、濡れていた。


乾かない。


山の奥で、雷声だったものが口を開けた。


笑った。


それまでよりも、ずっと大きく。


はははははははははははは。


山が揺れた。


木々が震えた。


雨が一瞬、上へ跳ねたように見えた。


小屋の壁がきしむ。


佐伯が悲鳴を飲み込む。


日下部が泣いている。


北畠が地面に手をついている。


小夜は笛袋を抱えたまま、六郎を見ていた。


百合だけが、静かに立っていた。


雷声だったものの笑い声の中に、言葉が混じった。


六郎だけに聞こえたのかもしれない。


百合にも聞こえたのかもしれない。


分からない。


ただ、その声は雷だった。


笑いだった。


山だった。


そして、言葉だった。


いづれこい。


次はこちらも笛を持つ。


六郎は、息を失った。


笛の音が切れる。


その瞬間、雷声だったものがまた笑った。


楽しそうだった。


愉快そうだった。


人を馬鹿にする笑いではない。


獲物を逃がす笑いでもない。


山の中に、面白い音を見つけたものの笑いだった。


列が動き出す。


倉田が歩く。


真壁が歩く。


知らない者たちが、笑いながら歩く。


百鬼夜行のなりそこないは、山の奥へ戻っていく。


雨の向こうへ。


木々の間へ。


道のないところへ。


笑い声は遠ざかる。


はは。


ははは。


はははは。


やがて、それは雷の音に混じった。


ごろ。


ごろごろ。


それから、ただの雨音だけが残った。


六郎は、膝をついた。


笛を握ったまま、息をしていた。


喉が痛い。


胸が痛い。


指先が冷たい。


けれど、生きていた。


「六郎」


百合が傍に来た。


「はい」


返事をしたつもりだった。


声が出たかどうかは分からない。


百合は六郎の手から笛を取らなかった。


ただ、その笛を見た。


「持っていなさい」


「これを、ですか」


「ええ」


「いいんですか」


「向こうが覚えたわ」


六郎は、濡れた笛を見た。


「僕を?」


百合は、少しだけ黙った。


「あなたと音を」


六郎は何も言えなかった。


雨はまだ降っている。


けれど、山はもう笑っていなかった。



夜明け前に、一行は山を下りた。


どうやって下りたのか、六郎にはよく覚えていない。


北畠が先頭を歩いた。


その後ろを、佐伯と日下部が支え合うように歩いた。


小夜は何も言わなかった。


百合も、ほとんど喋らなかった。


六郎は笛を鞄に戻さなかった。


手に持ったまま歩いた。


濡れた笛は、ずっと冷たかった。


だが、さっきまでとは違う。


自分から離れようとしていない。


あるいは、六郎から離れる気がない。


そういう冷たさだった。


集落の明かりが見えた時、日下部が泣き出した。


声を出さずに泣いていた。


佐伯が、その背を撫でた。


真壁も倉田もいない。


その事実は、山を下りても変わらなかった。


集会所へ着くと、北畠は何も言わずに戸を開けた。


中へ入る。


誰も座らなかった。


座ると、立てなくなりそうだった。


日下部は、ずっと手帳を抱いている。


佐伯が言った。


「書くの」


日下部は首を振った。


「今は」


「そう」


「でも、忘れたくない」


その言葉は、六郎の胸に残った。


忘れたいのではない。


忘れたくない。


消えた者がいる。


笑いながら、山の列に入った者がいる。


それを忘れることは、二度目に消すことなのかもしれなかった。


北畠が、古い棚から小さな木箱を出した。


中には、丸い石がいくつか入っていた。


どれも手のひらに乗るほどの石である。


「名前を書く」


北畠が言った。


佐伯が顔を上げる。


「誰の」


「消えた者の」


「倉田さんと、真壁さんの」


「そうだ」


日下部は手帳を開けた。


震える手で、二人の名を書いた。


倉田悠真。


真壁遼一。


その字を見て、六郎はようやく、二人が本当に戻らないのだと思った。


北畠は、その名を石に写すと言った。


すぐではない。


落ち着いてから。


山道のどこかへ置く。


戻るためのものとして。


佐伯が訊いた。


「戻れるんですか」


北畠は答えなかった。


代わりに、こう言った。


「置かんよりはいい」


それだけだった。



昼近くになって、雨は上がった。


山には霧がかかっていた。


昨日入った山道は、集落から見れば静かだった。


何もなかったように、春の山である。


鳥が鳴いている。


風が木を揺らしている。


雷はもうない。


笑い声もない。


六郎は、集会所の外で立っていた。


百合が隣に来る。


「大丈夫?」


「大丈夫ではないですね」


「そう」


「百合さんは」


「大丈夫ではないわね」


六郎は、百合を見た。


その言い方があまりに普段通りだったので、少しだけ笑いそうになった。


笑っていいのか分からず、結局笑わなかった。


「昨日」


六郎は言った。


「危なかったんですか」


百合は山を見ていた。


「ええ」


「どのくらい」


「ここで死ぬのね、と思ったくらい」


六郎は黙った。


「それ、かなり危ないですよね」


「そうね」


百合は、いつものように答えた。


「でも、死ななかったわ」


「僕が吹いたからですか」


「それもあるわ」


「それだけじゃない?」


「あなたが吹いたから、向こうが笑った」


「笑ったら、助かったんですか」


「山の作法なのでしょうね」


百合は言った。


「こちらが笑うだけでは足りなかった。向こうも笑った」


六郎は、手の中の笛を見た。


濡れている。


今も。


「また、来るんでしょうか」


「いづれ、と言っていたのでしょう」


六郎は顔を上げた。


「聞こえてたんですか」


「少し」


「百合さんにも」


「ええ」


百合は六郎を見た。


「だから、持っていなさい」


「この笛を」


「ええ」


「逃げられない感じですね」


「逃げるものではないわ」


「では」


「持つものよ」


百合はそう言った。


六郎は、笛を鞄に戻した。


肩掛けの鞄が、少し重くなった気がした。


小夜が集会所から出てきた。


「帰るの?」


「ええ」


百合が答える。


小夜は六郎の鞄を見た。


「吹いたね」


「吹きました」


「変な音だった」


「すみません」


「褒めてる」


「本当に?」


「少し」


小夜は山を見た。


「次は、向こうも笛を持つんだ」


六郎は頷いた。


「そう言ってました」


「嫌な約束」


「はい」


「でも、少しだけ羨ましい」


六郎は小夜を見た。


小夜は、それ以上言わなかった。


笛を吹く者には、六郎には分からない感情があるのだろう。


山の方から、風が来た。


湿った風だった。


春の風である。


その中に、ほんの少しだけ笑い声が混じったような気がした。


六郎は耳を澄ませる。


しかし、もう聞こえない。


ただ、山があった。


名のないものがいる山。


祀ることもできず、呼ぶこともできず、それでも昔からあるもの。


人が鬼と呼び、笑い山と呼び、神隠しと呼んだもの。


それは消えていない。


ただ、奥へ戻っただけだ。


六郎は、それを知っていた。


知らされたのだ。


音で。


「六郎」


百合が言った。


「はい」


「帰りましょう」


「はい」


集落の道を歩き出す。


背後に山がある。


振り返らなかった。


振り返らなくても、そこにあると分かる。


山は、もう笑っていなかった。


遠くで、最後の雷が鳴った。


ごろ。


それはただの雷だった。


けれど六郎には、その奥に、ほんの小さく笛の音が混じったような気がした。



その夜、籠目屋商店には灯が点いていた。


雨上がりの路地に、濡れた石の匂いが残っている。


店の奥では、百合と古書店の店主が向かい合っていた。


棚には古書があり、その隣に酒瓶が並んでいる。


店主は盃を手に取り、顔をしかめた。


「まずい酒だ」


「飲む前から言っていたわね」


「飲んだら確信した」


「なら、残せばいいでしょう」


「残すほどまずくはない」


百合は少しだけ笑った。


それから、盃を置いた。


「今回は、流石にもう駄目かと思ったわ」


店主の手が止まる。


「お前がそれを言うか」


「ええ」


「では、かなり駄目だったんだろうな」


「そうね」


しばらく、二人とも黙っていた。


外で、軒から水が落ちる。


ぽつり。


「雷声だったもの、か」


店主が言った。


「そう呼ぶしかなかったわ」


「もとは山にあったものだろうな」


「ええ」


「名はない。祀れん。祓うにも、こちらが小さい」


百合は頷いた。


「人が鬼と呼び、笑い声と呼び、神隠しと呼んだ」


「そのうちに、形を持った」


店主は酒を飲んだ。


「笑い返すという作法も、人が作ったものかもしれん」


「でも、向こうはそれを受け取った」


「だろうな」


店主は、空になった盃を見た。


「そこへ、あの笛だ」


百合は答えなかった。


「あれは面白がったぞ」


「でしょうね」


「覚えられたな」


「ええ」


「小僧をか」


百合は少しだけ間を置いた。


「六郎と、音を」


店主は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「まずいな」


「ええ」


「次は、向こうも笛を持つと言ったのだろう」


「そうね」


「笛とは限らんぞ」


「分かっているわ」


店主は、棚の古書の背を見た。


「雷かもしれん。山鳴りかもしれん。消えた者どもの喉かもしれん」


百合は静かに酒を注いだ。


「だから、六郎をひとりでは行かせない」


「当たり前だ」


店主は盃を受け取った。


「春が終わるな」


「ええ」


「次は、もっと暑くなる」


「そうね」


遠くで、雷が鳴った。


ごろ。


それはただの雷だった。


笑い声も、笛の音も混じっていない。


百合も店主も、何も言わなかった。


籠目屋商店の灯だけが、濡れた路地の奥で小さく揺れていた。

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