幕間 四【外へ出るもの】
若い祓い屋がいた。
年は、十二ほどであった。
顔立ちはまだ幼い。
頬にも、肩にも、子どもの薄さが残っている。
けれど、目だけが妙に静かだった。
子どもがしてよい目ではない。
大人がしていれば、冷たいと言われる目である。
その子の家は、代々、祓い屋であった。
父も。
母も。
叔父も。
伯母も。
従兄も。
家に連なる者の多くが、怪異に関わって生きていた。
人が死ぬ場所へ行く。
人が泣く家へ行く。
人が隠したものの前に立つ。
そういうことを、幼い頃から見てきた。
だから、その子は、あまり驚かない。
血を見ても。
人形が動いても。
誰もいない部屋から声がしても。
驚かないようにしているのではない。
驚く前に、見てしまうのだ。
何がそこに残っているのか。
誰がそれを見ないふりをしているのか。
その日の依頼は、山際の古い家から来ていた。
大きな家だった。
門があり、土蔵があり、奥に長い座敷が続いている。
庭には古い梅の木があった。
花の時期はもう過ぎている。
枝には、青い実がいくつかついていた。
春が終わりかけていた。
家の者たちは、若い祓い屋たちを座敷へ通した。
当主は初老の男である。
背筋は伸びていたが、目の下に濃い隈があった。
その妻は、隣で俯いている。
ほかにも、家の者が数人。
使用人らしい女もいる。
誰も、奥座敷の方を見ようとしなかった。
「毎夜、濡れた足跡が出ます」
当主が言った。
「玄関から、奥へ」
祓い屋の一族の男が、うなずいた。
その子の叔父にあたる男だった。
大柄で、声が太い。
「足跡だけか」
「はい」
「姿は」
「見えません」
「声は」
「しません」
「では、弱い」
叔父はそう言った。
当主の顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。
弱い。
そう言われたことで、救われたような顔だった。
若い祓い屋は、その顔を見ていた。
弱い怪異。
強い怪異。
そう分けることはできる。
できるが、正しいとは限らない。
弱いものほど、長く残ることがある。
「亡くなった子の霊でしょう」
家の女が、小さく言った。
当主の妻だった。
声が、ひどく乾いていた。
「末の子が、幼い頃に」
叔父は、その女を見た。
「その子の足跡か」
「たぶん」
「たぶん?」
女は口を閉じた。
当主が代わりに答えた。
「昔のことです。もう、名も位牌も整えてあります」
若い祓い屋は、当主の手を見た。
膝の上に置かれた指が、少しだけ曲がっている。
嘘をついている手ではなかった。
けれど、全部を言っている手でもなかった。
座敷の端で、老人が黙っていた。
一族の者たちは、その老人を「ご隠居」と呼んでいた。
背は曲がっていない。
髪は白い。
目つきは悪い。
口を開けば、たいてい人を不愉快にさせる。
けれど、その子だけは、その老人を「師匠」と呼んでいた。
「見た顔をしておるな」
ご隠居が言った。
その子へ向けてである。
若い祓い屋は、答えなかった。
「黙っていれば賢く見えると思うな」
「見ているだけです」
「見て分かるなら、阿呆はおらん」
「阿呆はいます」
ご隠居は鼻を鳴らした。
「生意気だ」
叔父が顔をしかめた。
「ご隠居。子どもの口を許しすぎです」
「許しておらん。聞き流しとるだけだ」
「同じことでしょう」
「違う」
ご隠居は酒も飲んでいないのに、不機嫌そうだった。
「許すには、価値が要る」
叔父は、さらに顔をしかめた。
若い祓い屋は、何も言わなかった。
家の奥から、湿った匂いがした。
雨は降っていない。
それなのに、座敷の奥だけが少し濡れているような匂いだった。
⸻
夜になるのを待った。
祓い屋たちは、玄関から奥座敷へ続く廊下に控えた。
当主とその妻は、別室にいた。
使用人も下がっている。
家の者は、誰も廊下へ出ないように言われていた。
叔父たちは、祓う準備を整えていた。
紙。
火。
水。
鈴。
塩。
いくつかの道具が並ぶ。
若い祓い屋は、廊下の端に座っていた。
ご隠居は、その隣にいる。
「怖いか」
ご隠居が訊いた。
「いいえ」
「嘘をつくな」
「少し」
「少しで済むなら、怖がっておけ」
「怖がると、見えなくなります」
「怖がらんと、余計なものまで見る」
若い祓い屋は、少しだけご隠居を見た。
「師匠は、どちらですか」
「俺は見ん」
「見ない?」
「見たもの全部に責任を持てるほど、俺は暇ではない」
それは、いつものような悪態だった。
しかし、若い祓い屋は黙った。
その言葉が、ただの悪態ではないことを、何となく分かっていた。
夜が深くなる。
家の中から、人の気配が薄れていく。
古い柱が鳴った。
畳が息を吸う。
庭の梅の実が、風もないのにひとつ揺れた。
その時。
玄関の方で、音がした。
ぴた。
小さな音だった。
濡れた足が、板に触れる音。
廊下の端に、足跡が現れた。
小さい。
子どもの足跡だった。
右。
左。
右。
左。
濡れている。
水を踏んできたように、板の上に薄く残っている。
叔父が低く言った。
「来た」
一族の者たちが身構える。
足跡は、玄関から廊下を進み、奥座敷へ向かっているように見えた。
ぴた。
ぴた。
姿はない。
足跡だけが増えていく。
叔父が、紙を手にした。
「今なら断てる」
若い祓い屋は、足跡を見ていた。
小さな足。
幼い足。
けれど、ひとつではない。
濡れた跡の大きさが、少しずつ違う。
大きいもの。
小さいもの。
片方だけ深いもの。
爪先を引きずったようなもの。
一人の子の足跡ではない。
若い祓い屋は、顔を上げた。
「待ってください」
叔父が振り返る。
「何だ」
「これは、ひとりではありません」
「足跡が乱れることはある」
「違います」
「何が違う」
「向きが」
叔父の目が細くなった。
「玄関から奥へ入っている」
「そう見えます」
「そう見えるなら、そうだ」
若い祓い屋は、廊下の板を見た。
足跡の水は、爪先の方に多く残っている。
だが、板の沈みは踵の方が深い。
水の跳ね方も、逆だった。
入ってきたのではない。
奥から外へ出ようとしている。
それなのに、家の中の誰もそう見ていない。
玄関から来た。
奥へ入った。
死んだ子が戻ってきた。
そう思いたがっている。
「外へ」
その子は言った。
「出ようとしています」
叔父の顔が強張った。
「勝手なことを言うな」
「足跡が、外へ向いています」
「家の者は、奥へ向かうと言った」
「家の者が、そう見たかっただけです」
その言葉に、叔父が立ち上がった。
「子どもが」
ご隠居が、低く言った。
「最後まで見ろ」
叔父はご隠居を睨んだ。
「ご隠居」
「祓うのは、それからでも遅くない」
「遅くなれば、奥へ入ります」
若い祓い屋が言った。
「入るのではありません」
叔父が振り返る。
その子は、奥座敷を見ていた。
「出られないのです」
ぴた。
ぴた。
足跡は、奥座敷の前で止まっていた。
そこから先へ進めない。
何度も、何度も、敷居のところで濡れた跡が重なっている。
奥座敷から出ようとして、敷居で止まる。
それを繰り返している。
玄関から奥へ入っているように見えるのは、その跡が積み重なり、反対に読めるからだった。
若い祓い屋は立ち上がった。
奥座敷へ向かう。
叔父が腕を掴んだ。
「行くな」
「そこにあります」
「何が」
「出したいものが」
「お前が決めることではない」
「では、誰が決めるのですか」
叔父は答えなかった。
「依頼人か」
別の一族の男が言った。
「祓い屋が依頼人を越えるな」
「怪異に情を入れるな」
「未熟だ」
「見たものに引きずられている」
「それは祓いではない」
若い祓い屋は、黙っていた。
言い返さない。
ただ、叔父の手を見た。
掴んでいる。
強い手だった。
その手も、怖がっている。
若い祓い屋には、それが分かった。
「離して」
「命令するな」
「離してください」
「その奥へ行けば、引かれるぞ」
「もう、引かれています」
叔父の手が止まった。
若い祓い屋は、奥座敷の敷居を見た。
濡れた足跡が重なっている。
何人もの小さな足が、出ようとして、出られず、そこで濡れ続けている。
「これを見た時から」
その子は言った。
「もう、引かれています」
ご隠居が笑った。
いや、笑ったように見えただけかもしれない。
「離してやれ」
叔父は言った。
「ご隠居、本気ですか」
「本気でなければ、こんな辛気臭い家に夜中までおるか」
「しかし」
「行かせろ」
ご隠居の声は、低かった。
「その代わり、しくじれば自分で背負わせる」
若い祓い屋は、ご隠居を見た。
ご隠居は、こちらを見ない。
「師匠」
「行け」
それだけだった。
若い祓い屋は、奥座敷へ入った。
⸻
奥座敷は、暗かった。
灯はある。
けれど、光が隅まで届かない。
床の間には、古い掛け軸がかかっている。
その下に、花のない花入れがあった。
畳は乾いている。
しかし、部屋の奥にある長持の下だけが、少し湿っていた。
若い祓い屋は、そこへ向かった。
長持は重かった。
子どもの力では動かない。
だが、動かす必要はなかった。
蓋に手をかける。
鍵はかかっていない。
開ける。
中には、布が入っていた。
古い着物。
使わなくなった帯。
紙包み。
そして、その底に、小さな草履がいくつも入っていた。
一足ではない。
二足でもない。
五つ。
六つ。
もっとある。
小さな草履。
幼い子の草履。
片方だけのものもある。
紐が切れたものもある。
泥が固まったものもある。
どれも、ひどく古かった。
若い祓い屋は、息を止めた。
その背後で、叔父たちが部屋へ入ってくる気配がした。
当主も来ていた。
妻も。
誰も、すぐには喋らなかった。
「これは」
叔父が言った。
「何だ」
当主の顔は青白かった。
妻は、草履を見た瞬間、膝から崩れた。
「違います」
当主が言った。
「それは」
若い祓い屋は、草履を見ていた。
違う。
その言葉だけが、家の中で長く残った。
何が違うのか。
誰に向けて違うと言ったのか。
それは分からない。
けれど、草履はそこにあった。
小さな足跡は、ひとり分ではなかった。
「昔」
妻が言った。
声が、掠れていた。
「この家では、子どもがよく死にました」
当主が妻を見た。
「やめなさい」
「病で」
妻は続けた。
「川で。熱で。生まれてすぐに。奉公に来た子もいました。身寄りのない子も」
「やめろ」
当主の声が強くなる。
「この家の恥だ」
妻は泣かなかった。
涙も出ない顔で、草履を見ていた。
「亡くなった子のものを、外へ出してはいけないと」
「誰が」
若い祓い屋が訊いた。
妻は、少しだけ顔を上げた。
「この家が」
家が。
人ではなく。
この家が。
若い祓い屋は、奥座敷を見た。
長持。
掛け軸。
床の間。
花のない花入れ。
閉じられた障子。
この家では、子どもの死が奥へしまわれてきた。
名前も。
声も。
草履も。
外へ出さない。
語らない。
弔ったことにする。
整えたことにする。
けれど、奥座敷の中で、ずっと足は濡れていた。
外へ出ようとしていた。
「祓います」
叔父が言った。
「ここまで溜まっているなら、なおさら」
若い祓い屋は、草履の中から一足を取った。
小さい。
まだ新しい方だった。
布の鼻緒が、少しだけ赤い。
「触るな」
叔父が言った。
「それは穢れだ」
「違います」
「違わん」
「これは、外へ出るものです」
「外道めいたことを」
一族の女が言った。
「怪異を残す気か」
「残しません」
「なら、祓え」
「消すものではありません」
叔父が苛立ったように息を吐いた。
「お前は、依頼の意味が分かっていない」
「分かっています」
「この家の者は、消してくれと言っている」
「消せば終わるのは」
若い祓い屋は、草履を抱えた。
「見ている側だけです」
叔父の顔が怒りに染まった。
「生意気を」
ご隠居が、入口から言った。
「生意気ではあるな」
若い祓い屋は、ご隠居を見た。
「師匠」
「勝手をするな」
ご隠居は言った。
「祓い屋が依頼人より、怪異の都合を見るな」
若い祓い屋は黙った。
「お前のそれは、優しさではない」
ご隠居の声は、冷たかった。
「癖だ」
部屋が静かになる。
「見えたものを、見えなかったことにできん。残ったものを、残ったままにしておけん。そういう癖だ」
若い祓い屋は、草履を抱えたまま立っていた。
「その癖で」
ご隠居は続けた。
「いつか死ぬぞ」
「はい」
若い祓い屋は答えた。
「分かっています」
「分かっておらん」
ご隠居は、吐き捨てるように言った。
「子どもが、死ぬことを分かった顔で言うな」
その言葉に、若い祓い屋は初めて少しだけ目を伏せた。
ほんの少し。
「それでも」
その子は言った。
「これは、外へ出したいのです」
ご隠居は、しばらく黙った。
それから、叔父たちへ言った。
「祓いは止めるな」
若い祓い屋が顔を上げる。
「師匠」
「全部は出せん」
ご隠居は言った。
「お前にそんな腕はない」
若い祓い屋は、黙った。
「一つ出すなら、早くしろ」
叔父が声を荒げた。
「ご隠居!」
「祓えと言ったろうが」
ご隠居は叔父を睨んだ。
「こいつが一つ持ち出す。それ以外は、お前らが断て」
「そんな半端な」
「半端だ」
ご隠居は言った。
「人のやることは、たいてい半端だ」
若い祓い屋は、草履を抱え直した。
長持の中には、まだいくつもの草履が残っている。
全部は持てない。
全部は出せない。
それが分かった。
それでも、その一足だけを持った。
小さな赤い鼻緒の草履。
名前はない。
誰のものかも分からない。
でも、その草履だけが、少し濡れていた。
⸻
庭へ出た。
夜明け前だった。
空はまだ暗い。
けれど、東の端が少しだけ青くなっている。
春の終わりの風が、庭を抜けた。
梅の青い実が揺れる。
若い祓い屋は、草履を土の上に置いた。
座敷の中では、祓いが始まっていた。
鈴の音。
紙の擦れる音。
叔父の声。
一族の者たちの声。
それらが、家の奥から響いてくる。
奥座敷に残った草履たち。
外へ出られなかった足跡たち。
それらがどうなるのか、若い祓い屋には分からなかった。
分からないのではなく、分かりたくなかった。
しかし、耳は聞いている。
家の奥で、何かが消されていく音がした。
泣き声はない。
叫び声もない。
ただ、水が乾いていくような音だった。
若い祓い屋は、庭の土を見ていた。
置いた草履の周りに、湿りが広がっていく。
ぽつり。
土に水が落ちた。
雨ではない。
空は降っていない。
ぽつり。
もう一つ。
草履の前に、小さな足跡がついた。
右。
左。
右。
左。
足跡は、庭の奥へ向かった。
梅の木の下へ。
それから、さらに先へ。
塀の方へ。
若い祓い屋は、それを追わなかった。
ただ見ていた。
足跡は、塀の手前で止まった。
その先には出られないのかもしれない。
あるいは、そこでよかったのかもしれない。
梅の木から、青い実がひとつ落ちた。
ころ、と土の上を転がった。
足跡は、そこで消えた。
完全に。
何かが救われたようには見えなかった。
成仏したとも思えなかった。
ただ、奥座敷にあったものが一つ、外の土に触れた。
それだけだった。
若い祓い屋は、草履を拾わなかった。
そのまま、梅の木の下へ置いた。
家の中から、叔父の声が聞こえた。
祓いが終わったのだろう。
濡れた足跡は、もう出ない。
たぶん。
けれど、出なければよいというものでもなかった。
若い祓い屋は、そのことを知っていた。
知っていて、一つしか出せなかった。
⸻
朝になった。
家の者は、礼を言った。
当主は、顔色が戻っていた。
妻は、何も言わなかった。
ただ、庭の梅の木を見ていた。
その目が、草履を見ているのか、梅を見ているのか、若い祓い屋には分からなかった。
一族の者たちは、不機嫌だった。
叔父ははっきりと言った。
「未熟だ」
若い祓い屋は、黙っていた。
「依頼の外へ出るな」
「はい」
「怪異に情をかけるな」
「はい」
「外道に寄るぞ」
「はい」
返事だけはした。
けれど、その声を聞いて、叔父はさらに顔をしかめた。
聞いているようで、聞いていない。
そう思ったのだろう。
「一つしか出せなかった」
ご隠居が言った。
その声に、若い祓い屋は顔を上げた。
「はい」
「残りは消えた」
「はい」
「お前が選んだ」
「はい」
「なら、忘れるな」
ご隠居は言った。
「出した一つだけを覚えるな」
若い祓い屋は、何も言わなかった。
「出せなかったものも覚えろ」
風が吹いた。
春の匂いの中に、少しだけ夏が混じっていた。
草の匂いが濃くなる。
水の匂いも変わる。
季節が移ろうとしていた。
「師匠」
若い祓い屋は言った。
「私は、間違えましたか」
ご隠居は、すぐには答えなかった。
門の外へ向かって歩きながら、面倒くさそうに言った。
「間違えた」
若い祓い屋は、目を伏せた。
「そうですか」
「だが」
ご隠居は、足を止めずに続けた。
「見えてしまったものを、見なかったことにするよりはましだ」
若い祓い屋は、ご隠居の背を見た。
「それは、褒めていますか」
「阿呆か」
ご隠居は吐き捨てた。
「褒めるところなど一つもない」
「では」
「残したなら、責任を持て」
そう言って、ご隠居は振り返った。
目つきは悪い。
声も悪い。
けれど、その目は、若い祓い屋が見ていたものを、少しだけ見ていた。
「消すだけなら、阿呆でもできる時がある」
若い祓い屋は、黙って頷いた。
ご隠居は、また歩き出した。
一族の者たちも続く。
若い祓い屋は、最後にもう一度だけ庭を見た。
梅の木の下に、小さな草履がある。
朝の光の中で、それはただの古い草履に見えた。
濡れてもいない。
動きもしない。
もう、足跡もない。
それでも、そこにあった。
外に。
家の外に。
そのことだけが、確かだった。
「行くぞ」
叔父が言った。
若い祓い屋は頷いた。
門を出る。
山際の道には、初夏の風が吹いていた。
ご隠居が、少し先で立ち止まる。
振り返らないまま、その名を呼んだ。
「百合」




