土脉潤起 三【言葉の根】
水谷修平は、記録をつけ始めた。
最初の一行を書くまでに、ずいぶん時間がかかったという。
いつ。
どこで。
誰に。
何を言われたか。
それだけを書けばよい。
六郎はそう伝えた。
一臣が言った通りだった。
感情ではなく、事実で。
けれど、事実を書くというのは、思ったより難しい。
特に、自分が傷ついた事実を書くのは難しい。
書いた瞬間、それは本当にあったことになる。
曖昧に笑って流していたものが、形を持ってしまう。
水谷は、それが怖かったのだろう。
夜遅く、六郎の携帯に短いメッセージが届いた。
書いてみた。
思ったより多かった。
それだけだった。
六郎は画面を見て、しばらく返事を考えた。
よく書いた。
そう打って、消した。
頑張った。
それも消した。
結局、
無理に全部書かなくていい。
でも、書けた分は残しておいた方がいいと思う。
と送った。
既読はついた。
返事はなかった。
六郎は携帯を伏せた。
藤原珈琲の店内は、閉店後の静けさに沈んでいた。
カウンターの照明だけがついている。
母は奥で明日の仕込みをしている。
コーヒー豆の匂いと、洗ったカップの匂いが混じっていた。
春の夜は、冬ほど冷えない。
けれど、妙に湿っている。
窓の外には、街灯に照らされた道が見えた。
路面は乾いている。
雨は降っていない。
それなのに、六郎には、町の下の方だけが湿っているように思えた。
百合の言葉を思い出す。
人の下にあるものの話よ。
下。
足元。
言葉の裏。
表情の奥。
職場の空気。
そういう見えない場所に、何かが水を吸っている。
六郎は、鞄の中の守り袋に触れた。
古い布は、少しだけ温かい。
それが落ち着かない。
守られているというより、見張られている。
その感じは、まだ消えなかった。
翌朝、水谷から送られてきたメモを読んだ。
日時。
発言。
その場にいた人。
短い文章が、いくつも並んでいる。
三月八日 九時二十分。
坂部さんより、発注確認漏れについて注意。
自分の担当ではないと説明したが、「そうやってすぐ人のせいにする」と言われる。
野末さん、同席。
「水谷くんも焦っていたんだと思います」と発言。
三月九日 十四時十分。
共有メールが自分にだけ届いていなかった。
坂部さんに確認したところ、「見落としたんじゃないの」と言われる。
送信先には自分の名前が入っていなかった。
野末さん、「まあ、次から気をつければ」と発言。
三月十日 十一時四十分。
電話メモが机に置かれていなかった。
折り返しが遅れ、取引先から苦情。
坂部さんより、「机くらいちゃんと見なさい」と言われる。
電話を取ったのは坂部さん。
メモは坂部さんの机の上にあった。
六郎は、画面を見たまま黙った。
ひとつひとつは、小さい。
小さいから、言い返しにくい。
小さいから、周りも大げさだと言う。
小さいから、された方が自分を責める。
その小さなものが、毎日、少しずつ水谷の背中へ落ちていた。
水滴のように。
同じ場所へ落ち続ける水は、石を削る。
人も同じだ。
六郎は、ようやくそう思った。
⸻
昼前、一臣から電話があった。
「今日、三倉へ行く」
声はいつも通りだった。
「今日?」
「午後一時。別件の打ち合わせがある」
「早いね」
「ちょうど予定が動いた」
そう言ったが、たぶん動かしたのだろう。
六郎は聞かなかった。
「水谷のメモ、兄さんに送ってもいい?」
「本人の了承は」
「取る」
「なら送れ」
「分かった」
「六郎」
「うん」
「お前も来るのか」
六郎は少し黙った。
「行った方がいい?」
「行きたいなら来い」
「邪魔じゃない?」
「邪魔になるなら、俺が止める」
一臣はそう言った。
「ただし、感情で割り込むな」
「分かってる」
「分かってない時の返事だな」
「それ、昨日も言ってた」
「昨日も分かってなかった」
六郎は少し笑った。
「行くよ」
「百合さんも?」
「たぶん」
電話の向こうで、一臣が少し黙った。
「そうか」
「知ってるの?」
「名前だけは」
「母さんから?」
「少しな」
それ以上、一臣は言わなかった。
六郎も聞かなかった。
聞けば、また別のものが開きそうだった。
今は、水谷の話だ。
百合に連絡すると、返事は短かった。
行きましょう。
それだけだった。
⸻
午後、三倉文具卸株式会社の前で、一臣と合流した。
六郎は、少しだけ緊張した。
一臣に会うのは久しぶりだった。
スーツ姿の一臣は、以前より少し細く見えた。
けれど、立ち方は変わらない。
背筋が伸びている。
顔つきは穏やかだが、目はよく動く。
周囲を見る。
人の表情を見る。
建物を見る。
場の空気を見る。
六郎は、その目が少し苦手だった。
見透かされる感じがする。
「久しぶり」
一臣が言った。
「久しぶり」
「痩せたか」
「それ、水谷にも言った」
「お前も似たような顔をしてる」
「そうかな」
「そうだ」
一臣の視線が、百合へ向いた。
百合は静かに頭を下げる。
「宇喜田です」
「藤原一臣です。六郎が世話になっています」
「こちらこそ」
その挨拶は、普通だった。
普通すぎるほど普通だった。
けれど、六郎には、その一瞬だけ二人の間に何かが通ったように見えた。
探るでもない。
警戒するでもない。
互いに、相手が何かを見ていることだけを知ったような間だった。
一臣は先に視線を外した。
「行くぞ」
三倉文具卸の受付で、一臣は名刺を出した。
対応した社員の表情が、少し変わる。
一臣の会社名を見たからだろう。
すぐに二階の応接へ通された。
六郎と百合は、一臣の同行者として扱われた。
六郎は少し居心地が悪かった。
百合は、何も気にしていないように見えた。
応接室は狭かった。
白い壁。
古いテーブル。
パイプ椅子。
窓際に観葉植物の鉢が置かれている。
土は乾いている。
そう見えた。
六郎は、そこから目を逸らせなかった。
少しして、野末圭吾が入ってきた。
「藤原様、お待たせしました」
柔らかい声だった。
一臣は立ち上がり、名刺を交換する。
六郎と百合にも軽く会釈した。
「昨日の」
野末は六郎を見て笑った。
「水谷くんのお友達でしたよね」
「はい」
「偶然ですね」
「そうですね」
野末は笑っている。
その笑い方は、昨日と同じだった。
人当たりがいい。
敵を作らない。
場を和ませる。
それだけなら、良い人なのだろう。
けれど、六郎には足元が見えていた。
野末の靴の下。
床の影から、細い根のようなものが伸びている。
昨日よりも細い。
いや、細く見える。
その分、色が濃い。
黒いというより、濡れている。
水を含んだ糸のようだった。
一臣が資料を出す。
本来の打ち合わせは、淡々と進んだ。
物流倉庫の契約更新。
備品管理。
関連会社間の納品ルート。
六郎にはよく分からない話だった。
野末は、よく相槌を打った。
「おっしゃる通りです」
「たしかに」
「そこは弊社でも課題でして」
一臣は、相手に合わせて穏やかに話している。
だが、六郎には分かった。
一臣は、話しながら野末を見ている。
資料ではなく、野末の返事を見ている。
どこで頷くか。
どこで曖昧にするか。
どこで責任を薄めるか。
それを見ている。
打ち合わせが終わりかけた頃、一臣が資料を閉じた。
「ところで」
野末が顔を上げる。
「御社の営業事務に、水谷修平さんという方がいらっしゃいますね」
野末の笑顔が、ほんの少し固まった。
本当に、ほんの少しだけだった。
「はい。おります」
「先日、別件で名前を拝見しました」
「そうでしたか」
「社内での評価はいかがですか」
野末は少し困ったように笑った。
「真面目な子ですよ」
「真面目」
「ええ。ただ、少し抜けているところはありますね」
六郎は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
同じ言葉だ。
坂部も言っていた。
少し抜けている。
根はいい。
疲れている。
それらは全部、水谷を庇う形をして、水谷を下げる言葉だった。
一臣は表情を変えない。
「具体的には?」
「具体的に、ですか」
「はい。業務上、どのような不備がありますか」
野末は、少しだけ視線を泳がせた。
「いえ、大きなものではありません。細かい確認漏れとか、周囲との連携不足とか」
「記録はありますか」
「記録、ですか」
「はい。業務上の不備として評価されるなら、日時と内容が残っているはずです」
野末は笑った。
「そこまで大げさな話では」
「大げさではないなら、本人の評価として口に出すべきではありません」
一臣の声は静かだった。
野末の笑顔が、少しだけ薄くなる。
「いえ、私は別に悪く言うつもりでは」
「そのつもりがなくても、そう聞こえます」
応接室が静かになった。
六郎は、一臣を見た。
一臣は怒っていない。
怒っていないからこそ、怖い。
野末は、指先で資料の端を揃えた。
「申し訳ありません。言い方が悪かったです」
「言い方の問題ではありません」
一臣は言った。
「野末さんは、いつもそうやって少しだけ退くのですか」
野末の目が、一瞬だけ変わった。
「どういう意味でしょう」
「直接は言わない。決めつけもしない。ただ、相手がそう受け取るだけの言葉を置く」
一臣は、野末を見ていた。
「それは便利です。責任が残りにくい」
野末は黙った。
笑顔は、もう半分ほど消えていた。
その時、応接室の外で足音がした。
扉が開く。
坂部理恵が顔を出した。
「失礼します。野末さん、次の——」
そこで言葉が止まった。
六郎と百合を見る。
それから一臣を見る。
「失礼しました。お客様中でしたか」
「坂部さん」
野末が言った。
少しだけ、救われたような声だった。
「ちょうどよかった」
一臣が言った。
「少し、お時間をいただけますか」
坂部は戸惑った顔をした。
「私ですか」
「はい」
野末が口を開く。
「藤原様、坂部はこの後」
「五分で構いません」
一臣は言った。
「水谷さんの件です」
坂部の顔が固まった。
野末の指が、資料の端を強く押さえた。
六郎は、二人の足元を見た。
坂部の足元から、昨日見た黒い根が出ている。
野末の足元からも、細い根が出ている。
二つは床の下で絡み合い、水谷のいない方へ伸びていた。
水谷の背中へ。
そう思った。
だが、その時、百合が小さく言った。
「違うわ」
六郎だけに聞こえる声だった。
「水谷さんの方へ伸びているのではない」
「え?」
「ここへ戻ってきている」
六郎はもう一度見る。
黒い根は、水谷の方へ伸びているように見えた。
しかし、違った。
坂部から出たものは、野末へ。
野末から出たものは、坂部へ。
それぞれが相手を通り、最後に自分へ戻っている。
輪のようになっていた。
水谷は、その輪の中央に置かれていただけだった。
「水をやっていると思っていたものに」
百合は言った。
「自分も飲まれているの」
坂部が応接室に入った。
扉が閉まる。
狭い部屋に、五人がいる。
一臣。
坂部。
野末。
六郎。
百合。
空気が重くなった。
一臣は、坂部に椅子を勧めた。
坂部は座らなかった。
「水谷が、何かしましたか」
その言い方は、反射に近かった。
まず、水谷が何かしたことになる。
六郎には、そう聞こえた。
一臣も、それを聞き逃さなかった。
「今の言い方です」
坂部が眉を寄せる。
「はい?」
「私が水谷さんの件と言った時、坂部さんは、まず『水谷が何かしたか』とおっしゃった」
坂部は黙った。
「何かされたか、とは言わなかった」
「それは」
「癖ですか」
坂部の顔に、うっすら血が上った。
「藤原様、何を」
野末が口を挟もうとする。
一臣は野末を見た。
「今は坂部さんに伺っています」
野末は口を閉じた。
坂部は、一臣を見ていた。
「私は、あの子のためを思って」
「はい」
一臣は頷いた。
「そうかもしれません」
坂部は一瞬、言葉を失った。
否定されると思っていたのだろう。
一臣は続けた。
「最初は」
坂部の顔が変わる。
「最初は、ですか」
「ええ」
一臣は静かに言った。
「最初は、水谷さんのためだったのかもしれません」
坂部は黙っている。
「ただ、途中から変わったのではありませんか」
部屋の空気が、少し湿った。
六郎はそう感じた。
比喩ではなかった。
本当に、喉の奥が湿るような空気だった。
坂部の足元の根が、ぬるりと動く。
野末の足元の根も、わずかに震えた。
一臣は言った。
「人に向けた言葉は、相手だけに刺さるわけではありません」
坂部の指が、わずかに動いた。
「言った本人の中にも残ります」
野末の笑顔が消えていた。
百合は黙っている。
六郎は、息を浅くした。
「毎日少しずつ、人を責める言葉を吐いていると、その言葉に自分の形が似てくる」
坂部は、一臣から目を逸らせなかった。
「……私は」
声が、少し掠れていた。
「指導のつもりでした」
「そうだと思います」
一臣は頷いた。
「最初は」
坂部は唇を結んだ。
「でも、人を叱るのは、気持ちがいいんです」
その言葉に、坂部の顔色が変わった。
六郎も、息を止めた。
一臣の声は、静かだった。
「相手が黙る。反論できない。自分が正しい側に立てる。職場のため、本人のため、という言葉も使える」
坂部の目が揺れる。
「気づかないうちに、叱っている相手ではなく、叱っている自分を守るようになる」
野末が小さく息を吐いた。
それは、馬鹿にしたようにも聞こえた。
焦ったようにも聞こえた。
一臣は見ない。
坂部だけを見ている。
「坂部さんは、水谷さんを育てているつもりだったのかもしれません」
坂部の肩が、少し落ちた。
「でも実際には」
一臣は言った。
「ご自身の怒りを育てていたんだと思います」
沈黙が落ちた。
重い沈黙だった。
六郎は、坂部の足元を見た。
黒い根が、少しずつ膨らんでいる。
まるで、水を吸っているようだった。
いや。
逆だった。
何かが、そこから抜けている。
坂部の中に溜まっていたものが、形を失いかけている。
坂部は、何か言おうとした。
けれど、言えなかった。
唇だけが少し震えた。
やがて、ぽつりと言った。
「……分かっていました」
六郎は、顔を上げた。
坂部は、水谷を見ていない。
ここにはいない水谷ではなく、自分の手元を見ている。
「途中から、少しだけ」
一臣は何も言わなかった。
「水谷さんが悪いから言っているんじゃないって」
坂部の声は、小さかった。
「私が、言いたいから言っているんだって」
野末が、わずかに身じろぎした。
坂部は続けた。
「分かっていたのに、やめられなかった」
その瞬間、坂部の足元の根が、ぶつりと音を立てた。
音は聞こえなかった。
けれど、六郎にはそう見えた。
根の一本が切れた。
黒い汁のようなものが、床に落ちる。
誰にも見えていない。
百合だけが、少し目を伏せた。
野末が口を開いた。
「坂部さん、あまりご自分を責めすぎるのも」
一臣が、初めて野末をまっすぐ見た。
「野末さん」
野末は黙った。
「今、その言葉は坂部さんを助けるようで、助けていません」
野末の顔から、笑みが消えた。
「あなたは、そういう言い方が多い」
部屋の空気が、さらに重くなった。
野末の足元の根が、細く震える。
坂部は泣いていなかった。
だが、顔は崩れていた。
「私は」
坂部は言った。
「誰にも助けられなかったんです」
一臣は、ただ聞いている。
「入ったばかりの頃、毎日怒られて、聞いても教えてもらえなくて、失敗したら全部私のせいで」
坂部の声に、少しずつ湿りが混じる。
「でも、我慢しました。そういうものだと思って。そうやって覚えるものだと思って」
六郎は、水谷のことを思った。
坂部も、かつて水谷だったのかもしれない。
だから許されるわけではない。
けれど、そうだったのだろう。
「今の若い人は、すぐ助けてもらえる」
坂部が言う。
「少し言われただけで、傷ついた顔をする」
言葉に棘が戻りかける。
その時、一臣が静かに言った。
「傷ついた顔をできる方が、まだ健全です」
坂部は黙った。
「坂部さんは、傷ついた顔をすることも許されなかったのでしょう」
その一言で、坂部の顔が崩れた。
今度は、本当に。
涙が落ちた。
声は出なかった。
ただ、涙だけが落ちた。
六郎は、何も言えなかった。
百合も、何も言わなかった。
野末だけが、視線を逸らしていた。
その視線の先に、観葉植物があった。
鉢の土が、黒く濡れている。
水をやった形跡はない。
土の表面に、小さな泡が浮いた。
ぷつ。
野末の喉が、小さく動いた。
一臣が言った。
「水谷さんに、謝れますか」
坂部は涙を拭いた。
「はい」
声は掠れていた。
「謝ります」
「許してもらえるとは限りません」
「分かっています」
「それでも?」
「はい」
坂部は、ようやく顔を上げた。
「謝ります」
その時、水谷の背中にあった顔が、遠くで少しだけ薄くなった気がした。
水谷はこの場にいない。
それなのに、六郎には分かった。
どこかで、あの泥の顔が、形を保てなくなっている。
まだ消えてはいない。
けれど、輪郭が崩れ始めている。
百合が小さく言った。
「ひとつ、乾いたわね」
六郎は、百合を見た。
「ひとつだけですか」
「ええ」
百合の視線は、野末の足元に向いていた。
「まだ、残っているわ」
野末は、何も言わなかった。
ただ、笑みを作り直そうとしていた。
けれど、その笑みは、さっきよりもずっと薄かった。
応接室の外で、電話が鳴った。
普通の会社の、普通の音だった。
誰かが受話器を取る。
誰かが書類をめくる。
誰かがキーボードを叩く。
何事もなかったように、会社は動いている。
その足元で、何かが育っていた。
今も。
ゆっくりと。
水を吸いながら。




