土脉潤起 二【水をやる人】
古書店を出たあと、六郎はしばらく黙っていた。
春の風は、朝よりも少しだけぬるくなっている。
道端の草は、いつの間にか背を伸ばし始めていた。
冬のあいだ、そこにあるとも思わなかったものが、気づくと地面の隙間から顔を出している。
六郎は、掌の中の守り袋を見た。
古い布でできている。
色は、もとは紺だったのだろう。
けれど今は、何度も手に触れられ、日に晒され、暗いところに置かれたもののように、黒に近くなっている。
指で触れると、少しだけ温かい。
温かいのに、安心する感じではなかった。
守られている、というより、見張られている。
そんな感じがした。
「それ」
百合が言った。
「持っておきなさい」
「そうした方がいいんですか」
「ええ」
「何が入っているんでしょう」
「開けない方がいいわ」
六郎は守り袋を見下ろした。
「そう言われると、余計に気になりますね」
「気になるだけにしておきなさい」
「開けたらまずいものですか」
「まずいかどうかは、開けてから分かるでしょうね」
「それは、開けない方がいいですね」
百合は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
六郎は守り袋を鞄へ入れた。
布越しの温かさが、まだ掌に残っている。
「さっきの木札」
「ええ」
「何なんですか」
「まだ分からないわ」
「百合さんが持ってきたのに?」
「持ってきたから分かるとは限らないでしょう」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
六郎は、古書店の方を振り返った。
戸は閉まっている。
帳場の奥には、まだあの人がいるのだろう。
そう分かっているのに、外から見ると、あの店は誰もいないように見えた。
「何か知っているんでしょうね」
「知っているでしょうね」
「僕にこれを渡したのも」
六郎は、鞄の中の守り袋を思った。
「何か、理由があるんですか」
百合は歩く足を止めなかった。
「あるでしょうね」
「百合さんは知ってるんですか」
「少しだけ」
「少しだけ」
「ええ」
六郎は、もう一度だけ古書店を振り返った。
なぜ自分に渡したのか。
なぜ、あんな顔をしたのか。
なぜ百合は、そんなこと初めてじゃない、などと言ったのか。
分からないことばかりだった。
ただ、守り袋を受け取った時、胸の奥が少しだけざわついた。
それは、怖さとは違っていた。
懐かしさでもない。
見たことのない場所で、自分の名前だけが呼ばれたような、落ち着かない感じだった。
「六郎」
百合が言った。
「はい」
「今は、水谷さんの話よ」
六郎は、はっとした。
「……そうですね」
「気になるものは、あとで気になればいいわ」
「便利な言い方ですね」
「ええ」
百合は前を見たまま言った。
「人は、いっぺんに全部は見られないもの」
春の町は、普通だった。
車が通る。
人が歩く。
犬が吠える。
どこかの家から、昼食の匂いがする。
その普通の町の中で、六郎の鞄には古い守り袋が入っている。
古書店には、字のかすれた木札が預けられている。
友人の背中には、顔が育っている。
普通というものは、思ったより薄い。
少し濡れると、下のものが透けて見える。
六郎は、そう思った。
⸻
藤原珈琲へ戻ると、母が仕込みをしていた。
玉ねぎを切る音がしている。
とん、とん、とん。
まな板の音は、店の中に小さく響いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「早かったね」
「うん」
六郎はカウンターの中に入る。
「伝票、あとで見る」
「急がなくていいよ」
「うん」
母は包丁を置き、六郎を見た。
「何かあった?」
六郎は鞄に手を置いた。
守り袋のことを言おうか迷う。
迷ったが、言わなかった。
「水谷が、ちょっと大変そうで」
「修平くん?」
「うん」
「仕事?」
「たぶん」
母は眉を少し寄せた。
「無理してそうだったものね」
「分かった?」
「分かるよ」
母は手を洗い、布巾で拭いた。
「昔から、笑ってごまかす子だったでしょう」
「そうだったかな」
「そうだったよ」
六郎は少し黙った。
自分より母の方が、水谷のことをよく見ていたのかもしれない。
「会社の名前が、三倉文具卸って言ってた」
母は少し考えた。
「三倉……」
「知ってる?」
「名前だけ。たしか、一臣が関わってるところじゃなかった?」
その名前を聞いて、六郎はようやく思い出した。
一臣。
長兄である。
東京で不動産の営業をしている。
ただ、担当している法人の中に、名古屋や中部圏の取引先もあると聞いたことがあった。
三倉文具卸は、その関連会社か何かだったはずだ。
「兄さんに聞いてみる」
「そう」
母はそれだけ言った。
「変に首を突っ込みすぎないようにね」
「分かってる」
「分かってても、突っ込む時あるでしょう」
「あるかな」
「あるよ」
六郎は少しだけ笑った。
「気をつける」
「そうして」
母はまた包丁を持った。
とん、とん、とん。
まな板の音が戻る。
六郎は店の隅へ行き、スマートフォンを取り出した。
一臣の名前を開く。
しばらく画面を見ていた。
用事もなく電話をする相手ではない。
仲が悪いわけではない。
ただ、兄弟というのは、近いようで遠い。
特に長兄は、六郎にとって少し遠い人だった。
小さい頃から、しっかりしていた。
正しいことを言う。
厳しいことも言う。
けれど、冷たいわけではない。
そういう人である。
六郎は、メッセージを打った。
三倉文具卸って、兄さんの仕事で関わりある?
すぐには返ってこないと思った。
しかし、数分後に返信があった。
ある。どうした。
六郎は少し迷った。
友人が勤めてる。職場の人間関係で少し困ってるみたい。
すぐに既読がついた。
電話していいか。
六郎は店の奥を見た。
母が軽く頷く。
六郎は通話ボタンを押した。
数回鳴って、一臣が出た。
「六郎か」
「うん。仕事中?」
「移動中だ。五分なら話せる」
声は昔とあまり変わらない。
落ち着いていて、少し低い。
「三倉文具卸に、水谷修平っているんだけど」
「部署は」
「営業事務みたいなことをしてるって」
「三倉の名古屋本社か」
「たぶん」
「知ってるかもしれない。直接話したことは少ないが、名前は見たことがある」
「そうなんだ」
「何があった」
六郎は少し言葉を選んだ。
「坂部さんって人に、嫌がらせみたいなことをされてるらしい」
電話の向こうで、少し間があった。
「坂部理恵か」
「知ってるの?」
「知ってる」
一臣の声は変わらなかった。
だが、少しだけ温度が下がった気がした。
「どういう人?」
「仕事はできる」
「うん」
「処理も早いし、現場の細かいことも知ってる。社内では頼られている方だろうな」
「いい人?」
「それは別だ」
六郎は黙った。
一臣は続けた。
「できる人の中で、一番危ういタイプだと思ってる」
「危うい?」
「自分の苦労を根拠にして、人にきつくする」
六郎の胸の中で、何かが少し沈んだ。
「自分はこうやって覚えた。自分は誰にも助けられなかった。だから相手も同じように苦しむべきだ。そういう考え方を、仕事の厳しさと勘違いする人がいる」
「坂部さんが、そう?」
「断定はしない。ただ、そういう匂いはある」
匂い。
百合や、帳場の奥の声が言いそうな言葉を、一臣が普通に使った。
六郎は少し意外だった。
「野末さんって人は?」
「野末圭吾?」
「たぶん」
「柔らかい人当たりだな」
「水谷は優しいって言ってた」
「優しい、か」
一臣の声に、少しだけ苦味が混じった。
「俺はあまり信用していない」
「どうして」
「責任を取らない位置から、人を動かす」
六郎は黙った。
「直接命令はしない。決めもしない。だが、場の空気だけは作る。誰かが怒れば、まあまあと言ってなだめる。けれど、そのなだめ方で結論を誘導する」
「結論を」
「水谷が悪い、という結論に」
六郎は、水谷の言葉を思い出した。
『まあ、水谷くんも最近疲れてるみたいですしね』
あれは庇っているように聞こえた。
けれど、違う。
一臣の言う通り、結論を置いている。
水谷が悪いという結論を。
「兄さん」
「何だ」
「水谷、けっこうまずいかもしれない」
電話の向こうで、車の音がした。
一臣はしばらく黙った。
「六郎」
「うん」
「お前が見たものがあるんだな」
六郎は息を止めた。
「なんで」
「声で分かる」
「そんなに?」
「昔からだ」
六郎は、何も言えなかった。
一臣は続ける。
「俺は、お前が見えるものを全部信じるとは言わない」
「うん」
「ただ、お前が何かを見た時の顔は知っている」
「今、電話だけど」
「声も同じだ」
六郎は、少しだけ困ったように笑った。
見抜かれている。
兄というものは、こういうところがある。
近くないと思っていても、勝手に見ている。
「仕事としてなら、三倉には近いうちに行く予定がある」
「本当に?」
「もともと予定があった。少し早める」
「いいの?」
「必要ならな」
「兄さんが来たら、騒ぎにならない?」
「騒ぎにはしない」
一臣は淡々と言った。
「ただ、話はする」
「坂部さんと野末さんに?」
「必要なら」
「説教?」
「説教というほど立派なものじゃない」
少し間があった。
「ただ、人が人を削っている場を見るのは好きじゃない」
六郎は、その言葉を聞いて、少しだけ胸が熱くなった。
一臣は昔からそうだった。
怒鳴らない。
大きな声も出さない。
けれど、許さないものは許さない。
静かに、相手の逃げ道を塞ぐ。
「ありがとう」
六郎が言うと、一臣はすぐに返した。
「まだ礼を言うな」
「うん」
「水谷には、できれば記録を取らせろ。日時、内容、誰がいたか。感情ではなく事実で」
「分かった」
「あと、お前は一人で動くな」
「分かってる」
「分かってない時の返事だな」
「分かってるよ」
「ならいい」
六郎は少しだけ笑った。
一臣と話すと、いつもこうなる。
こちらが弟であることを、嫌でも思い出す。
「次春にも言う?」
六郎が聞くと、一臣は少し黙った。
「まだいい」
「そう」
「あいつは、心配すると長い」
六郎は少し笑った。
「分かる」
「水谷のことは、俺からも少し調べる」
「うん」
「無理はするな」
「母さんにも言われた」
「なら、二回目だ」
「うん」
「聞けよ」
「聞くよ」
通話はそこで切れた。
六郎は、スマートフォンを見下ろした。
画面は黒くなっている。
その黒い画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。
疲れた顔をしている。
それでも、少しだけ楽になっていた。
一臣に話したからだろう。
⸻
その夜、水谷から連絡が来た。
今日は少し早く帰れた。
それだけだった。
六郎は返信した。
よかった。できれば、会社であったことをメモしておいて。
しばらくして返ってくる。
何のため?
六郎は少し迷った。
自分を守るため。
送信した。
既読がついた。
返事は、しばらくなかった。
翌日、六郎は水谷の会社の近くまで行った。
百合と一緒だった。
百合は、黒いカーディガンを羽織っている。
手には何も持っていない。
ただ歩いているだけに見える。
「本当に行くんですか」
六郎が聞いた。
「あなたが言い出したのでしょう」
「そうですけど」
「嫌ならやめてもいいわ」
「嫌ではないです」
「怖い?」
六郎は少し考えた。
「怖いというより、嫌です」
「いい言い方ね」
「よくないでしょう」
「いいえ。嫌だと思えるうちは、まだ近づきすぎていないわ」
三倉文具卸株式会社は、名古屋の少し古い事務所街にあった。
大きな会社ではない。
三階建ての建物。
一階には倉庫と荷受けの入口があり、二階が事務所になっている。
外壁は少しくすんでいる。
看板の文字は新しいが、建物自体は古い。
周囲には小さな会社や倉庫が並び、昼間でもどこか薄暗い。
六郎は建物を見上げた。
普通の会社である。
怪異がいるようには見えない。
だが、普通の会社だからこそ、嫌だった。
「入る理由は?」
百合が聞いた。
「水谷に忘れ物を届けることにしています」
「何を」
「これです」
六郎は紙袋を見せた。
中には、水谷が藤原珈琲に忘れていったハンカチと、小さなメモ帳が入っている。
メモ帳は六郎が買った。
会社であったことを記録するために使ってほしかった。
「友人ね」
百合が言った。
「そうですね」
「いいことよ」
六郎は返事をしなかった。
会社の受付で、水谷を呼び出してもらう。
しばらくして、水谷が階段を降りてきた。
「六郎」
驚いた顔をしている。
「ごめん。忘れ物」
「ああ」
水谷は紙袋を受け取った。
その時、六郎は水谷の背中を見た。
いた。
昨日よりも薄い。
けれど、顔はある。
水谷の背中に貼りついている。
泥のような顔。
その口元が、細かく動いている。
水谷が喋っていないのに、何かを喋っている。
おまえが悪い。
おまえが悪い。
六郎は、息を整えた。
隣に百合がいる。
それだけで、少しだけ足が地面に戻る。
「水谷くん?」
階段の上から女の声がした。
四十代くらいの女性だった。
髪をきっちりまとめている。
白いブラウスに、紺のカーディガン。
表情は柔らかい。
けれど、目だけが少し硬い。
「お知り合い?」
「あ、はい。友人です」
水谷の声が、少し縮んだ。
六郎はすぐに分かった。
この人だ。
坂部理恵。
坂部は階段を降りてくる。
「わざわざ届け物ですか。水谷くん、よく忘れ物するから」
笑っている。
冗談のように言っている。
だが、水谷の肩が少し下がった。
六郎はそれを見た。
百合も見ている。
「藤原です」
六郎は頭を下げた。
「水谷とは昔からの友人で」
「そうですか。いつもお世話になっています」
坂部は丁寧に言った。
丁寧だった。
丁寧なのに、どこか冷たい。
「水谷くん、少し抜けているところがありますけど、根はいい子なので」
六郎は、返事を少し遅らせた。
「そうですね」
それだけ言った。
坂部の背後に、何かがあった。
最初は影に見えた。
階段の影。
壁の汚れ。
そう思おうとした。
だが、違う。
坂部の背中の少し下。
肩甲骨のあたりから、細いものが伸びていた。
黒い根のようなもの。
湿った糸のようなもの。
それは、水谷の背中にある顔へ繋がっている。
水谷の顔ではない。
坂部の顔でもない。
けれど、坂部から伸びている。
六郎は、目を逸らせなかった。
「どうかしました?」
坂部が言った。
六郎は瞬きをした。
根のようなものは、もう見えない。
「いえ」
その時、奥から男が出てきた。
三十代後半くらい。
柔らかい顔をしている。
眼鏡をかけ、少しだけ人懐こい笑みを浮かべていた。
「水谷くんのお友達?」
水谷が言う。
「野末さん」
野末圭吾。
六郎は、心の中で名前を繰り返した。
野末は六郎に会釈した。
「いつも水谷くんがお世話になってます」
「いえ」
「最近ちょっと疲れてるみたいで。友達が来てくれるのはありがたいですね」
言葉は優しい。
表情も優しい。
だが、六郎はその足元を見た。
野末の足元からも、何かが伸びている。
坂部のものより細い。
ずっと細い。
だが、地面の奥へ深く入っているように見えた。
その細いものが、一度、坂部の方へ伸びる。
それから、水谷の背中へ伸びる。
坂部よりも遠回りしている。
しかし、確かに繋がっている。
六郎の喉が、少し詰まった。
百合が、静かに言った。
「よく育っていますね」
野末が百合を見る。
「え?」
百合は微笑んだ。
「こちらのお話です」
野末は少しだけ笑った。
「面白い方ですね」
百合は答えなかった。
六郎は、水谷を見た。
水谷は困ったように笑っている。
坂部も笑っている。
野末も笑っている。
誰も怒鳴っていない。
誰も水谷を殴っていない。
誰も、決定的な言葉を言っていない。
それなのに、水谷の背中の顔は、確実に育っている。
坂部が水をやっている。
野末が、その水の流れを整えている。
水谷自身も、自分が悪いのかもしれないと思うことで、少しずつ水を足している。
六郎には、そう見えた。
会社を出ると、百合は何も言わずに歩き出した。
六郎は少し遅れてついていく。
「百合さん」
「なに」
「見えましたか」
「ええ」
「何なんですか、あれ」
百合はしばらく答えなかった。
通りを、トラックが走っていく。
文房具の入った段ボールを積んでいるのかもしれない。
荷台の音が、がたがたと鳴った。
「嫌がらせをしている人がいる」
百合は言った。
「はい」
「それを育てている人がいる」
「はい」
「見ている人もいる」
六郎は黙った。
「見ている人も、水をやるのですか」
「ええ」
「何もしなくても?」
「何もしないことで」
六郎は、会社の建物を振り返った。
二階の窓に、人影がある。
誰かがこちらを見ているような気がした。
「塩では無理ですね」
「ええ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
百合は、六郎を見た。
「あなたの友人は、自分が悪いと思っているのね」
「そうです」
「そこからね」
「そこ?」
「ええ」
百合は静かに言った。
「自分が悪いと思い込んでいる人は、悪意の根に水をやってしまうの」
六郎は、水谷の顔を思い出した。
『でも、全部向こうが悪いわけじゃないし』
『迷惑かけるし』
『どこでもあるやつだよ』
あれは、水谷の優しさではなかったのかもしれない。
自分を責めることで、何とか形を保っていただけなのかもしれない。
「あなたが悪いわけではない」
百合が言った。
六郎は百合を見る。
「それを、誰かが言わないといけないわ」
その夜、水谷からメッセージが来た。
今日はありがとう。
坂部さんに、友達にまで心配されて恥ずかしくないのって言われた。
その下に、少し間が空いて、もう一文。
でも、今日は少しだけ腹が立った。
六郎は、その文章をしばらく見ていた。
腹が立った。
その言葉が、水谷の中から出たことに、少しだけ救われた気がした。
六郎は返信した。
腹が立っていいと思う。
送信する。
すぐに既読がついた。
返事はない。
けれど、その沈黙は、昨日までの沈黙とは少し違う気がした。
その頃、三倉文具卸の二階では、坂部理恵が一人で残業していた。
机の上には伝票が積まれている。
水谷の処理したもの。
坂部はそれを一枚ずつ確認していた。
細かいミスはない。
ないから、余計に腹が立った。
自分が見つけてやらなければならない。
そう思っている自分がいる。
違う。
自分は指導しているのだ。
若い人を育てているのだ。
甘やかせば、本人のためにならない。
坂部はそう思おうとした。
思おうとした時、背中で何かが湿った音を立てた。
振り返る。
誰もいない。
ただ、観葉植物の鉢がある。
窓際に置かれた、小さな観葉植物だった。
土が黒く濡れている。
水をやった覚えはない。
坂部は眉を寄せた。
「誰」
小さく言う。
返事はない。
ただ、土の表面に、小さな泡がひとつ浮いた。
ぷつ。
それだけだった。
坂部は、しばらくそれを見ていた。
それから目を逸らし、また伝票へ視線を戻した。
紙の上に、水谷の名前があった。
その文字が、少しだけ滲んでいるように見えた。




