土脉潤起 一【友人の背中】
土脉潤起 《つちのしょううるおいおこす》
春の土は、見た目よりも冷たい。
表面だけは、やわらかくなったように見える。
冬のあいだ硬く閉じていたものが、少しずつほどけ、陽の光を受けて、黒く湿りはじめる。
だが、指を入れてみると、まだ奥は冷たい。
冷たいまま、湿っている。
それが、春の土である。
人の心も、似ているのかもしれない。
そんなことを、藤原六郎は考えていた。
考えた、というより、あとになってそう思った。
その時はまだ、そんなふうに言葉にはなっていなかった。
その日の藤原珈琲は、昼を少し過ぎたあたりで、一度客足が途切れた。
朝から続いていた常連客も帰り、ランチを食べに来た近所の会社員もいなくなった。
カウンターの上には、空いたカップが二つ。
窓際の席には、新聞が畳まれて置かれている。
母は奥で、仕込みの残りを片づけていた。
六郎はカウンターを拭いていた。
拭き終えたところで、店の扉が開いた。
古いベルが鳴る。
からん、と。
「いらっしゃいま——」
言いかけて、六郎は顔を上げた。
入ってきた男を見て、少しだけ目を丸くする。
「水谷」
男は、笑った。
「久しぶり」
水谷修平だった。
六郎の高校時代からの友人である。
背は六郎より少し低い。
顔つきは柔らかく、人に強く出るところがあまりない。
昔から、何かを頼まれると断りきれないところがあった。
悪く言えば気が弱い。
よく言えば、嫌な顔をしない。
六郎は、手に持っていた布巾を置いた。
「どうしたの。急に」
「近くまで来たから」
「この辺に用事?」
「まあ、ちょっと」
水谷は曖昧に笑った。
笑った顔に、少しだけ疲れがあった。
六郎はそれに気づいたが、すぐには言わなかった。
「座って」
「うん」
水谷はカウンターの端に座った。
昔からそこが好きだった。
高校の頃も、たまに店へ来ては、その席に座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。
大人になってからも、座る場所は変わらない。
六郎はカップを取った。
「コーヒーでいい?」
「うん。熱いやつ」
「熱くないコーヒー出したことある?」
「猫舌の人向けに」
「うちはそこまで親切じゃない」
「知ってる」
水谷は少し笑った。
六郎も、少しだけ笑った。
笑いながら、豆を挽く。
店の奥から母が顔を出した。
「あら、修平くん」
「こんにちは」
水谷は立ち上がりかけた。
母が手で制する。
「座ってて。久しぶりね」
「お久しぶりです」
「元気だった?」
「はい。なんとか」
「なんとか、なのね」
母はそう言って、少しだけ水谷を見た。
それから六郎の方へ目を向ける。
「六郎、あとで伝票だけ見ておいてくれる?」
「見とくよ」
「お願いね」
母はまた奥へ戻っていった。
水谷は、母の姿が見えなくなってから、少し息を吐いた。
「お母さん、変わらないね」
「そうかな」
「うん」
「水谷は、少し痩せた?」
六郎は、湯を落としながら言った。
水谷は笑った。
「そう?」
「顔が細くなった」
「仕事してると、勝手に痩せるよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
それは、本当に笑っている顔ではなかった。
笑う形を作っている顔だった。
六郎はカップを置いた。
水谷は両手で包むようにして持つ。
「うまい」
「まだ飲んでないでしょ」
「匂いで分かる」
「適当だな」
「昔からだよ」
水谷は一口飲んだ。
湯気が眼鏡を少し曇らせる。
その仕草も、昔と変わらなかった。
けれど、やはり何かが違っていた。
肩の位置が低い。
背中が少し丸い。
座っているだけなのに、どこか謝っているように見える。
六郎はカウンター越しにそれを見ていた。
「仕事、どう?」
そう聞くと、水谷は少しだけ間を置いた。
ほんの少し。
だが、その間で、六郎には分かった。
何かある。
「まあ」
水谷はカップを見たまま言った。
「普通」
「普通」
「どこもそんなもんじゃない?」
「どんなもん」
「人間関係とか」
六郎は布巾を畳んだ。
「何かあったの?」
「いや、別に」
水谷はすぐに答えた。
すぐに答えすぎた。
「別にって顔じゃないけど」
「そんな顔してる?」
「してる」
「そっか」
水谷は少し笑った。
それから、カップを置く。
「いや、ちょっと会社でね」
「うん」
「うち、名古屋の三倉文具卸っていう会社なんだけど」
「三倉文具卸」
六郎はその名前に、少し引っかかった。
聞いたことがある。
どこでだったか、すぐには思い出せない。
「文具とか事務用品の卸?」
「そう。学校とか会社とかに入れるやつ。あと小売店向けも少し」
「水谷は、営業?」
「営業事務みたいな感じ。受発注とか、在庫の確認とか、電話とか」
「大変そうだね」
「まあ、慣れれば」
水谷はそう言った。
けれど、慣れている声ではなかった。
「何があったの」
六郎は静かに聞いた。
水谷はしばらく黙った。
カップの縁を指で触る。
「嫌がらせ、って言うほどじゃないんだけど」
「うん」
「共有メールが俺だけ外れてたり」
「うん」
「棚卸しの数字が合わなかった時に、なぜか俺が入力したことになってたり」
「うん」
「あと、電話メモが俺の机にだけ置かれてなかったり」
六郎は黙って聞いた。
水谷は、言いながら笑っていた。
「でもさ、忙しい職場だと、そういうのあるじゃん」
「あるの?」
「あるでしょ」
「僕には分からない」
「喫茶店はいいよな」
「いいことばかりでもないけど」
「でも、誰かが意図的にメール外してくるとかはないでしょ」
「それはないかな」
「だよね」
水谷はまた笑った。
その笑いが、少しだけ崩れていた。
「誰がしてるの」
六郎が聞いた。
水谷は、目を伏せる。
「坂部さんって人がいて」
「坂部さん」
「長くいる人。仕事はできる。みんな頼ってる」
「その人が?」
「直接何かするっていうより……まあ、してるのかもしれないけど」
水谷は言葉を選んだ。
「僕が失敗すると、すぐ気づくんだよ」
「失敗してない時は?」
「失敗したことになる」
六郎は、何も言わなかった。
水谷はすぐに手を振る。
「いや、でも俺も抜けてるからさ。たぶん、向こうもイライラするんだと思う」
「水谷」
「うん」
「今の、庇うところ?」
水谷は苦笑した。
「そうかな」
「そうだと思う」
「でも、全部向こうが悪いわけじゃないし」
「全部じゃなくても、悪いことは悪いでしょ」
水谷は黙った。
カップから湯気が上がっている。
六郎は、その湯気を見ていた。
水谷がぽつりと言う。
「野末さんって人もいて」
「うん」
「その人は優しいんだよ」
「優しい」
「坂部さんがきつく言った後に、まあまあって入ってくれる」
「いい人?」
「たぶん」
「たぶん?」
水谷は困ったように笑った。
「でも、その人が入ると、結局、俺が悪いって感じでまとまる」
六郎は眉を寄せた。
「どういうこと」
「たとえば、坂部さんが『この確認漏れ、どうして気づかなかったの』って言う」
「うん」
「野末さんが『まあ、水谷くんも最近疲れてるみたいですしね』って言う」
「うん」
「それで、みんなが、ああ水谷は疲れてミスしたんだ、みたいになる」
「実際は?」
「俺じゃない時もある」
「それ、優しいの?」
水谷は答えなかった。
答えないまま、コーヒーを飲む。
少し冷めているはずなのに、熱そうに飲んだ。
「最近、会社に行く前に気持ち悪くなるんだ」
水谷が言った。
「朝、駅に着くと、足が重くなる」
「休んだら」
「休めないよ」
「どうして」
「忙しいし」
「忙しくても、倒れたら困るでしょ」
「倒れたら、また迷惑かけるし」
六郎は、何か言おうとして、やめた。
水谷の言葉は、どれも水谷自身のものに聞こえた。
けれど、本当にそうなのか分からなかった。
誰かに何度も言われた言葉を、自分の声で言っているようにも聞こえた。
迷惑をかける。
自分にも悪いところがある。
どこでもあること。
気にしすぎ。
そういう言葉は、軽い。
軽いから、何度も口に出せる。
何度も口に出せるから、いつの間にか身体の中に残る。
水谷の背中は、少しずつ丸くなっていた。
「会社の人に相談した?」
六郎が聞いた。
「誰に?」
「上司とか」
「一度だけ」
「どうだった」
「坂部さんは言い方がきついだけで、悪気はないって」
「悪気がなければいいの?」
水谷は笑った。
「六郎って、そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「まっすぐ怒る」
「怒ってないよ」
「怒ってる」
「少し」
水谷は少しだけ嬉しそうに見えた。
本当に少しだけ。
けれど、すぐに目を伏せた。
「でも、大丈夫。今日はちょっと話したかっただけ」
「本当に?」
「うん」
「僕にできることある?」
「コーヒーおかわり」
「それはできる」
六郎はカップを受け取り、もう一杯淹れた。
湯を注ぐ音がする。
店の中に、コーヒーの匂いが満ちる。
水谷はそれを黙って見ていた。
しばらく、二人とも話さなかった。
客は来なかった。
春の昼下がりだった。
外からは、自転車の音が聞こえた。
遠くで子どもが笑っている。
平和な音だった。
水谷が二杯目を飲み終える頃には、少しだけ顔色が戻っていた。
「ありがと」
「また来て」
「うん」
「愚痴でもいいから」
「愚痴って言われると、来づらいな」
「じゃあ、コーヒー飲みに」
「それなら来る」
水谷は財布を出した。
六郎は首を振る。
「今日はいいよ」
「いや、払う」
「いいって」
「だめ。そういうの、苦手」
「じゃあ、半分」
「半分って何」
「友達価格」
「余計に困る」
結局、水谷は普通に払った。
六郎は受け取った。
受け取らない方が水谷を困らせる気がしたからだ。
水谷は立ち上がった。
椅子が小さく鳴る。
「また連絡する」
「うん」
「何かあったら」
「何もなくても」
「わかった」
水谷は笑った。
その笑顔は、来た時より少しましだった。
そう思った。
思ったからこそ、油断した。
水谷が店の扉へ向かう。
背中を向けた。
その時だった。
六郎は、水谷の背後に何かを見た。
それは、顔だった。
水谷の肩の少し後ろ。
背中に貼り付くようにして、顔があった。
人の顔に似ている。
だが、人ではなかった。
目が吊り上がっている。
口が裂けるように歪んでいる。
歯を食いしばっているようにも見える。
笑っているようにも見える。
怒っている。
妬んでいる。
憎んでいる。
嘲っている。
その全部が、ひとつの顔の中にあった。
色は黒くない。
白くもない。
泥のような色だった。
湿った土を、顔の形に押し固めたような色。
その顔が、水谷を睨んでいた。
いや。
違う。
水谷だけではなかった。
顔は、六郎を見た。
目が合った。
六郎の指先が冷たくなる。
「水谷」
思わず呼んだ。
水谷が振り返る。
「なに」
その瞬間、顔は消えた。
何もない。
水谷の背中には、何もついていない。
ただ、くたびれたジャケットがあるだけだった。
「……いや」
六郎は言った。
「気をつけて帰って」
水谷は不思議そうな顔をした。
「うん。ありがと」
扉が開く。
からん、とベルが鳴る。
春の光が、少しだけ店内へ入る。
水谷は外へ出た。
扉が閉まる。
店内は、また静かになった。
六郎は、しばらくその場から動けなかった。
母が奥から顔を出す。
「六郎?」
「なに」
「どうかした?」
「いや」
六郎は首を振った。
「何でもない」
何でもないわけがなかった。
けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
人の背中に、顔がありました。
ものすごい形相で、睨んでいました。
そんなことを言えるわけがない。
母は六郎を少しだけ見ていた。
それ以上は聞かなかった。
「伝票、あとでいいから」
「うん」
「休む?」
「大丈夫」
母は頷いて、奥へ戻った。
六郎はカウンターに置かれた水谷のカップを見た。
底に、わずかにコーヒーが残っている。
その色が、妙に黒く見えた。
濡れた土のようだった。
夕方になって、六郎は店の入口に塩を置いた。
理由を説明すれば、母に怪しまれる。
だから、掃除のついでのように、ほんの少しだけ皿に盛って置いた。
それから、水谷に短い連絡を入れた。
今日は来てくれてありがとう。無理しすぎないで。
返事はすぐには来なかった。
一時間ほどして、短く返ってきた。
こちらこそありがとう。少し楽になった。
六郎はそれを見て、少し安心した。
安心したかった。
⸻
翌日、水谷はまた店に来た。
来る予定ではなかった。
閉店前だった。
顔色が悪かった。
「ごめん」
入ってくるなり、水谷は言った。
「少しだけ」
「座って」
六郎はすぐに水を出した。
水谷はカウンターに座る。
目の下が黒い。
「会社で何かあった?」
水谷は水を飲んだ。
「今日、俺がやってない伝票のミスが見つかって」
「うん」
「俺の名前で処理されてた」
「水谷がやったんじゃないんだよね」
「違う」
「言った?」
「言った」
「どうなった」
水谷は笑った。
ひどい笑いだった。
「言い訳するなって」
六郎は黙った。
カウンターの下で、指が丸まる。
「坂部さん?」
「うん」
「野末さんは?」
「庇ってくれたよ」
「庇った?」
「『水谷くんも焦ってたんだと思います』って」
六郎は奥歯を噛んだ。
「それは庇ってない」
「だよな」
水谷は、今度は笑わなかった。
「俺も、今日はそう思った」
その言葉に、六郎は少しだけほっとした。
だが、すぐにその背中を見た。
いた。
昨日より、はっきりしていた。
水谷の後ろに、あの顔がある。
昨日は水谷に貼り付いていた。
今日は、少し大きい。
肩から背中へ広がるように、泥の色をした顔が浮かんでいる。
その口が、少し動いた。
六郎は聞こえないはずの声を聞いた。
違う。
違う。
お前が悪い。
お前が悪い。
水谷は気づいていない。
六郎は、カウンターの下に置いてあった塩の袋を取った。
「水谷」
「なに」
「肩に、糸くず」
「え」
六郎は自然に立ち上がり、水谷の肩へ手を伸ばした。
指先に、ほんの少しだけ塩をつける。
そして、水谷の肩を払った。
塩が、ジャケットにわずかにつく。
水谷は何も気づかない。
「取れた?」
「取れた」
六郎は席へ戻った。
顔は消えなかった。
それどころか、顔の目だけが六郎を見た。
泥のような口元が、ゆっくり歪む。
笑った。
六郎は、息を止めた。
塩ではない。
そう思った。
これは、塩で落ちるものではない。
水谷は、少しだけ首を傾げた。
「六郎?」
「何でもない」
「大丈夫?」
「水谷こそ」
「俺は」
水谷は答えかけて、やめた。
それから、小さく言った。
「大丈夫じゃないかも」
その言葉は、店の中に静かに落ちた。
六郎は、水谷を見た。
「それでいいと思う」
「何が」
「大丈夫じゃないって、言っていいと思う」
水谷は、何か言いかけた。
けれど、声にならなかった。
ただ、うなずいた。
その日の夜、六郎はなかなか眠れなかった。
水谷の背中の顔が、頭から離れない。
泥の色。
歪んだ目。
笑う口。
水谷を睨み、六郎を見た顔。
あれは何だったのか。
憑いているのか。
呪いなのか。
恨みなのか。
六郎には分からない。
⸻
分からないまま、翌日の昼前、古書店へ向かった。
本を買うためだ。
そう自分に言い聞かせた。
実際、買いたい本はあった。
民俗学の古い本。
前に目をつけていた文庫。
けれど、本当は別の用事があった。
古書店の引き戸を開ける。
紙の匂いがした。
帳場の奥で、老人が本を読んでいる。
顔は上げない。
六郎は棚の前に立った。
しばらく本の背を眺める。
そのまま、何冊か手に取る。
頁をめくる。
文字が入ってこない。
老人が言った。
「買わんなら触るな」
六郎は本を閉じた。
「買います」
「なら、早く選べ」
「はい」
六郎はしばらく黙っていた。
それから、棚を見たまま言った。
「人の後ろに、何かが見えることってありますか」
紙をめくる音が止まった。
老人は顔を上げない。
ただ、止まった。
「あるじゃろうな」
「それは、憑いているんでしょうか」
「憑くものもある」
六郎は、喉の奥が少し乾くのを感じた。
「憑かないものも、ありますか」
「ある」
「それは」
「育つ」
六郎は老人を見た。
老人は、まだ本を見ている。
「育つ?」
「見えてから騒ぐのは遅い」
「どういう意味ですか」
「見えるまで、育っとるということじゃ」
六郎は黙った。
店の奥が、少し暗くなったように感じた。
「何が育つんですか」
「人の中にあるものじゃ」
老人はようやく顔を上げた。
「恨み、妬み、嫉み、怒り、そういうものはな、放っておけば消えると思っとる者が多い」
「違うんですか」
「水をやる奴がおる」
六郎の背筋が冷えた。
「誰が」
「本人のこともある。他人のこともある。周り全部のこともある」
老人はまた本へ視線を落とした。
「塩を振ったくらいで落ちるなら、最初から育たん」
六郎は、手に持っていた本を握った。
「見ていたんですか」
「見とらん」
老人は短く言った。
「顔に書いてある」
六郎は何も言えなかった。
その時、古書店の戸が開いた。
春の光が、細く入る。
百合だった。
手に、古い布包みを持っている。
六郎を見ると、少しだけ目を細めた。
「いたのね」
「百合さん」
「本を買いに?」
「そのつもりでした」
「そう」
百合は帳場へ歩いていった。
布包みを、老人の前に置く。
老人は、露骨に顔をしかめた。
「置くな」
「少し預かって」
「嫌じゃ」
「今は、ここがいいの」
「ろくなものではないな」
「ええ」
「なおさら置くな」
百合は布を開いた。
中には、木札があった。
古い木札だった。
細長く、黒ずんでいる。
表面に文字がある。
しかし、かすれていて読めない。
墨が薄れたのか。
木目に飲まれたのか。
あるいは、読まれたくないのか。
六郎は、その木札を見た瞬間、喉の奥が少し詰まるような感じがした。
老人は木札を見て、しばらく黙った。
「どこから持ってきた」
「まだ言えないわ」
「言えんものを置くな」
「あなたなら、持てるでしょう」
「持てるから嫌なんじゃ」
百合は答えなかった。
老人は不機嫌そうに木札から目を逸らす。
それから、六郎を見た。
「おまえ」
「はい」
「これを持っとけ」
老人は帳場の下から、小さな守り袋を出した。
古びている。
布の色は、もとは紺だったのだろう。
今は黒に近い。
紐は擦れているが、切れてはいない。
六郎は戸惑った。
「僕にですか」
「他に誰がおる」
「どうして」
「邪魔じゃからじゃ」
六郎は受け取った。
軽い。
中に何が入っているのか分からない。
石のようでもあり、紙のようでもある。
百合が横から、ぽつりと言った。
「そんなこと、初めてじゃない」
老人が百合を睨んだ。
「黙れ」
「はいはい」
「はいは一度でいい」
百合は少しだけ笑った。
六郎は、守り袋を見下ろした。
胸の奥が、妙にざわつく。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
老人は本へ視線を戻した。
「礼を言われるようなことではない」
その声に、ほんの少しだけ別のものが混じっていた。
六郎には、それが何か分からなかった。
罪悪感。
後悔。
あるいは、もっと古いもの。
百合は、六郎の顔を見た。
「何か、あったのね」
六郎はうなずいた。
「友人の背中に、何かが見えました」
「どんなもの」
「顔です」
「顔」
「ものすごい形相で、友人を睨んでいました」
百合は静かに聞いていた。
「塩をかけてみたんですが、変わりませんでした」
老人が鼻で笑った。
六郎は少しだけ視線を落とした。
百合は言った。
「塩では無理ね」
「やはり、憑いているんですか」
「憑いているというより」
百合は少し間を置いた。
「育っているの」
六郎は、さっき老人に言われた言葉を思い出した。
育つ。
水をやる奴がいる。
「友人は、会社で嫌がらせを受けているようです」
「そう」
「嫌がらせをしている人がいて、それを増長させている人がいるみたいです」
百合は木札を見た。
かすれた文字は、読めない。
けれど、その字がほんの少し濃くなったように、六郎には見えた。
「土が潤みはじめたのね」
百合は言った。
「土、ですか」
「ええ」
「会社の話なんですが」
「場所の話ではないわ」
百合は、六郎を見た。
「人の下にあるものの話よ」
古書店の中は、静かだった。
外では春の風が吹いている。
どこかで、鳥が鳴いた。
鶯ではなかった。
それでも六郎には、何かが始まった音のように聞こえた。
老人が低く言った。
「本当に湿ったものはな」
六郎は老人を見る。
「乾いたふりをする」
それだけ言って、老人はまた本をめくった。
六郎は、手の中の守り袋を握った。
布は古く、乾いていた。
けれど、掌の中で、ほんの少しだけ温かかった。




