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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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幕間 一【春眠の古書店】

春の古書店には、眠気がある。


冬のあいだ、棚の奥に沈んでいた紙が、少しだけ息を吹き返すのだ。


湿った風が戸の隙間から入り、背表紙に積もった埃を撫でる。


古い本は、それだけで少し匂いを変える。


黴の匂い。


糊の匂い。


乾いた紙の匂い。


誰かの手に何度も開かれた頁の匂い。


その古書店は、町の外れにあった。


表の通りから一本奥へ入ったところに、低い軒があり、擦り硝子の引き戸がある。


看板は出ている。


けれど、初めて来る者は、たいてい一度通り過ぎる。


店が暗いからではない。


目立たないからでもない。


ただ、そこにあることを、町の方が忘れているような店だった。


店内には、若い男女がいた。


学生である。


男は棚の前に立ち、文庫の背を指で追っている。


女は少し離れたところで、単行本を一冊開いていた。


「また、それ?」


女が言った。


男は振り返らない。


「それって?」


「怪談」


「怪談じゃないよ」


「じゃあ何」


「民俗学」


女は頁から顔を上げた。


「夜に読んで眠れなくなるなら、だいたい同じじゃない」


「違うよ」


「どう違うの」


男は少し考えた。


「怪談は怖がるもの」


「うん」


「民俗学は、怖がっている人を観察するもの」


女は本を閉じた。


「性格悪い」


「学問だよ」


帳場の奥から声がした。


「どっちもろくでもない」


男は棚越しに笑った。


「聞こえてたんですか」


「聞こえるところで喋るな」


「ここ、店ですよ」


「店じゃから静かにせえ」


「静かに本を選んでるだけです」


「おまえは本を選んどるんじゃない。本に選ばれとる」


男は、少しだけ顔をしかめた。


「またそういうこと言う」


老人は帳場の奥で、古い本をめくっていた。


顔は上げない。


湯呑みの横に、古い栞が置かれている。


栞には何か書いてあるようだったが、ここからは読めなかった。


女が小さく笑う。


「選ばれてるなら、買ってあげた方がいいんじゃない」


「そうかな」


「買わないと、夜に枕元へ来るかも」


「やめてよ」


「怪談好きなのに?」


「好きなのと、来てほしいのは違う」


老人が鼻で笑った。


「来るものは、好かれたくて来るわけではない」


男は肩をすくめた。


「ほら。怖いこと言う」


女は、帳場の方を見た。


「今日は機嫌悪いんですか」


「いつもじゃ」


「それは知ってます」


老人はそこで初めて顔を上げた。


女を見て、男を見た。


「知っとるなら聞くな」


「聞きたくなるじゃないですか」


女は静かに返した。


男よりも、老人の扱いに慣れているような言い方だった。


老人は面白くなさそうに鼻を鳴らし、また本へ視線を落とした。


男は棚から一冊抜き取った。


古い文庫だった。


背表紙の文字は擦れている。


「それ、この前も見てたよね」


女が言う。


「そうだっけ」


「見てた」


「覚えてるんだ」


「あなた、買わない本ほど長く見るから」


「そんな癖ある?」


「ある」


「じゃあ、今日は買う」


男は文庫を小脇に挟んだ。


女は少し笑って、また別の棚へ目をやる。


「私は今日は詩集を買う」


「また?」


「また、って言わないで」


「この前貸してくれたやつ、難しかった」


「ちゃんと読んだ?」


「読んだよ」


「どこが良かった?」


男は黙った。


女はじっと見る。


男は本棚を見た。


「紙が」


「紙?」


「手触りがよかった」


女は一拍置いて、笑った。


「読んでないじゃない」


「読んだよ。途中まで」


「途中まで」


「寝る前に読んだから」


「眠くなったんでしょ」


「詩って、眠くならない?」


「ならない」


「すごいな」


帳場の奥から、老人が言った。


「眠くなる本を読めるうちは、まだましじゃ」


男が振り返る。


「どういう意味ですか」


「読めん本もある」


「字が難しいとか?」


「字で済むなら、まだましじゃ」


男は女を見た。


女は少し困った顔をした。


「また始まった」


「何が」


「こういう話」


男は笑った。


「好きだよ、こういう話」


「でしょうね」


女は呆れたように言ったが、声には少しだけ柔らかさがあった。


二人は棚の間をゆっくり歩いた。


床板が、きし、と鳴る。


窓の外では、春の光が揺れている。


店の中に直接入るほど明るくはない。


それでも、冬の終わりの光とは違った。


埃の粒が、少しだけ金色に見えた。


「これ、覚えてる?」


女が一冊の本を取り出した。


植物図鑑だった。


古い。


表紙には、淡い色で花の絵が描かれている。


男は覗き込む。


「ああ」


「去年、貸した」


「読んだ」


「本当に?」


「これは読んだ」


「どの花が好きだった?」


「山茶花」


女は少し意外そうな顔をした。


「どうして」


「落ちるから」


「それ、椿じゃない?」


男は眉を寄せた。


「そうなの?」


「山茶花は、ぱらぱら落ちるでしょう」


「じゃあ、椿か」


女は笑った。


「あなた、そういうところ適当」


「花には詳しくないから」


「でも、落ちる花が好きなの?」


男は少し考えた。


「うん」


「どうして」


「終わり方が、はっきりしてるから」


女は、男の横顔を見た。


男はもう別の棚を見ている。


言った本人は、深いことを言ったつもりがなさそうだった。


女は図鑑を棚へ戻した。


「私は、咲く前の花が好き」


「なんで」


「これからだから」


「前向きだね」


「そう?」


「うん」


「あなたは?」


「僕は、終わったものの方が気になる」


「後ろ向き」


「そうかな」


「そうよ」


男は少し笑った。


「じゃあ、ちょうどいいね」


「何が」


「前と後ろで」


女は、ほんの少しだけ顔を伏せた。


「ばかみたい」


「ひどい」


「ひどくない」


帳場の奥で、老人が咳払いをした。


「ここは逢引の場所ではない」


男は軽く頭を下げた。


「すみません」


「謝るくらいなら最初からするな」


「それは難しいです」


「何が」


「来たら、話しちゃうので」


女が男の袖を軽く引いた。


「余計なこと言わない」


「余計かな」


「余計」


老人は目を細めた。


「口の軽い男は、早く死ぬ」


男は笑った。


「怖いですね」


「怖がっとけ」


「でも、僕はそんなに早く死ぬ気はないですよ」


老人は返事をしなかった。


本を一枚めくる。


その音だけが、やけに大きく聞こえた。


女は男の顔を見た。


男は気づかないふりをして、また棚へ向かう。


その背中を、老人はしばらく見ていた。


見る、というより、測っているようだった。


男が、奥の棚の前で足を止めた。


そこは店の中でも、少し暗い。


棚の上段には、古い和綴じの本が並んでいる。


下段には、箱に入った本が積まれている。


男はそのうち一冊に手を伸ばしかけた。


「それは駄目じゃ」


老人が言った。


男の手が止まる。


「まだ触ってませんよ」


「触ろうとした」


「それも駄目ですか」


「半分触っとる」


女が近づいてくる。


「何の本?」


「分からない」


「題名は?」


「読めない」


「読めない?」


女は首を傾げた。


「普通に読めるけど」


「何て書いてある?」


「……えっと」


女は背表紙を見た。


そして、少し黙った。


「変ね」


「ほら」


「今、読めた気がしたのに」


男は老人を見る。


「これ、何ですか」


「売り物ではない」


「棚にありますけど」


「棚にあるものが、全部売り物とは限らん」


「古本屋なのに」


「古本屋だからじゃ」


男は手を引いた。


それ以上触ろうとはしなかった。


女は男の手元を見ていた。


「前にも、こういうことあった?」


「少し」


「少し?」


「変な本を取ろうとしたら、怒られた」


「怒られるだけ?」


男は笑った。


「だいたい」


老人が言う。


「だいたいで済ませるな」


「済んでます」


「まだな」


その言葉に、女が顔を上げた。


「まだ?」


老人は答えなかった。


男は棚から離れた。


「今日はやめておきます」


「今日は、ではない」


「ずっと?」


「おまえには、まだ早い」


男は少しだけ笑った。


「その言い方、好きですね」


「事実じゃ」


「いつか早くなくなるんですか」


「ならん方がいい」


男は黙った。


今度は笑わなかった。


女も何も言わなかった。


店の中で、紙の匂いが少し濃くなった。


外を、自転車が通る音がした。


春の午後だった。


男は手に持っていた文庫を見た。


「今日はこれにします」


「その方がましじゃ」


「褒めてます?」


「比べておるだけじゃ」


女は詩集を一冊選んだ。


それから、植物図鑑をもう一度手に取った。


「それも買うの?」


男が聞く。


「迷ってる」


「買えば」


「重い」


「持つよ」


「どうせ忘れるでしょう」


「忘れないよ」


「前に忘れた」


「一回だけ」


「一回あれば十分」


老人が帳場から言った。


「男に荷物を持たせるな」


女が振り向く。


「どうしてですか」


「落とす」


男はすぐに言った。


「落としませんよ」


「おまえは落とす」


「決めつけがすごい」


「本も、荷物も、面倒もな」


男は苦笑した。


「面倒は持つ方ですよ」


老人は、男を見た。


「持つのと、抱えるのは違う」


その言葉は、少しだけ店の空気を変えた。


女は老人を見た。


男も、今度は何も返さなかった。


老人は何事もなかったように帳面を開いた。


「買うなら持ってこい」


女は図鑑も抱えた。


「やっぱり買います」


「重いよ」


「持つ」


「僕が」


「自分で」


「落とすから?」


「違う」


女は本を胸に抱え直した。


「自分で選んだ本だから」


男は少しだけ黙った。


それから、


「そっか」


と言った。


会計の時、老人は一冊ずつ本を手に取った。


文庫。


詩集。


植物図鑑。


それぞれの表紙を、軽く指で撫でる。


値段を言う声は低い。


女が財布を出す。


男も出す。


「一緒でいいよ」


女が言う。


「いや、自分のは払う」


「この前、借りた本返してないでしょう」


「それは今度返す」


「忘れる」


「忘れない」


老人が言った。


「忘れるものは、忘れる前から忘れとる」


男は顔を上げた。


「どういうことですか」


「どうもこうもない」


「説明してくださいよ」


「面倒じゃ」


女が笑った。


「相手してもらえてよかったね」


「されてるのかな」


「されてるでしょ」


老人は代金を受け取りながら言った。


「また、面白い本を仕入れておいてやる」


女は少し驚いた顔をした。


それから、柔らかく頭を下げる。


「ありがとうございます」


男も、明るく言った。


「ありがとう。じゃあ、また来ます」


「来んでいい」


「また手伝いますよ。力仕事とか」


「いらん」


「そう言って、前も呼んだでしょう」


「呼んどらん」


「呼ばれましたよ」


「おまえが勝手に来た」


「呼び方が遠回しなんですよ」


老人は、男を睨んだ。


女が男の袖を引く。


「行くよ」


「はいはい」


「はいはいじゃない」


男は本を抱え、女は図鑑と詩集を鞄に入れた。


引き戸の前で、男が振り返る。


「今度は、あの棚の本も見せてください」


老人は答えない。


男は笑った。


「じゃあ、また」


戸が開く。


春の光が、店の中へ少しだけ入る。


二人が外へ出る。


戸が閉まる。


店はまた、薄暗くなった。


外で、女の声がした。


「今日はゆっくり本を読もうと思ってたのに」


男の声が返る。


「だめ。うちの店でコーヒー飲みながら試験勉強」


「めんどくさい」


「そこは、頑張ろう、でしょ」


「試験勉強は嫌い」


「僕も」


「じゃあ何で誘うの」


「一人だとやらないから」


女は笑った。


「巻き込まないで」


「巻き込むよ」


「ひどい」


「一杯おごる」


「それなら少し考える」


「少し?」


「少し」


二人の声が遠ざかっていく。


石畳を踏む音。


本の入った鞄が揺れる音。


若い笑い声。


春の外へ、二人は出ていった。


老人は、しばらく戸の方を見ていた。


やがて、帳場の下から一冊の帳面を出した。


古い帳面だった。


表紙は黒く、角が擦れている。


開くと、中にはいくつもの名前が並んでいた。


新しい字。


古い字。


薄くなった字。


消された字。


老人は筆を取った。


少しだけ迷う。


それから、帳面の端へ一行だけ書き足した。


藤原の若いの、また来る。


そこで筆が止まる。


老人は、その下にもう一文字だけ添えようとして、やめた。


帳面を閉じる。


棚の奥で、先ほど男が触れようとした本が、かすかに動いた。


老人は顔を向けなかった。


ただ、低く言った。


「まだ早い」


誰に言ったのかは分からなかった。


店の外では、春の風が吹いている。


若い二人の声は、もう聞こえない。


ただ、ずっと遠くで、鶯が鳴いた。


ほう。


ほけきょ。


老人は目を細める。


「鳴くな」


小さく、そう言った。


春は、もう来ていた。

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