黄鶯睍睆 四【音のゆくえ】
黄鶯睍睆
水は、冷たくなかった。
それが、まず恐ろしかった。
春の夜である。
木曽川である。
水に落ちかければ、冷たいはずだった。
息が詰まり、肌が縮み、体が反射で逃げようとするはずだった。
けれど、六郎の足首を掴んだものは冷たくなかった。
温かいわけでもない。
ただ、温度がなかった。
人の手ではない。
水でもない。
泥でもない。
ただ、そこに触れられたという事実だけが、足首に絡みついている。
六郎の体が、水の方へ引かれた。
視界が傾く。
夜の川面が近づく。
百合の声が聞こえた。
「六郎」
今度は、はっきり聞こえた。
けれど、遠い。
耳のすぐ近くでは、別の声がしている。
ろくろう。
川である。
川が、六郎の名を呼んでいる。
いや。
名を呼んでいるのではない。
名を使って、六郎を引いている。
呼ぶというより、掛ける。
声を掛ける。
名を掛ける。
呪を掛ける。
六郎は、そう思った。
足が滑る。
片膝が濡れた土につく。
水際の草が、指の間で千切れる。
握っても、支えにならない。
川面に、影が立っている。
人の形をしている。
だが、人ではない。
鳥の首にも見える。
子どもの背にも見える。
老人の横顔にも見える。
どれでもある。
どれでもない。
その影のまわりで、いくつもの声が鳴っていた。
ほう。
おう。
おうい。
姉さん。
ぽち。
正明。
お母さん。
その声は、川の上を渡ってくる。
水面を走るのではない。
水面そのものが、声を運んでいる。
加納の叫びが聞こえた。
「藤原さん」
その声だけは、こちら側の声だった。
生きている人間の声である。
けれど、遠い。
六郎は笛を握っていた。
古い笛である。
布はもう取れている。
いつ取れたのか、わからない。
手の中に、直にあった。
濡れていない。
川の水が跳ねているのに、笛は濡れない。
その代わり、ぬくもりがあった。
さっきよりも、はっきりと。
人肌に近い。
だが、人のものではない。
六郎は、笛を口元へ持っていこうとした。
その動きに合わせて、足首の力が強くなる。
ぐい、と引かれる。
水が膝を越えた。
百合が、女の腕を掴んだままこちらを見る。
女はまだ川へ向かおうとしている。
花束が水面に落ち、白い花がばらけた。
その白さが、妙に鮮やかだった。
「六郎」
百合の声が、もう一度した。
六郎は息を吸った。
吸った瞬間、喉の奥に水が入ってきたような気がした。
実際には入っていない。
けれど、体の内側に川がある。
肺の下。
胸の奥。
名前も知らない場所に、水が溜まっている。
そこから、誰かが息を吐いている。
ふう。
ほう。
六郎は、小夜の言葉を思い出した。
音を出そうとしない方がいい。
音になる前で止めな。
音を出してはいけない。
だが、息は返さなければならない。
呼ばれたから返すのではない。
返事ではないものを返す。
六郎は、笛を唇に当てた。
川面の影が、動きを止めた。
見ている。
いや。
聞こうとしている。
そう感じた。
六郎は、笛に息を入れた。
音は、出なかった。
少なくとも、加納にも、百合にも、川辺の女にも聞こえなかった。
夜の空気は変わらない。
草も揺れない。
鳥も飛ばない。
水面も、見た目には何も変わらない。
けれど、六郎には聞こえた。
音ではなかった。
息である。
細い。
頼りない。
途中で切れそうな息だった。
だが、ただの息ではない。
笛の穴を通り、六郎の体の奥から出て、川の方へ落ちていく息。
水の底へ沈む息。
同時に、水の底からこちらへ返ってくる息。
それが、六郎の耳の内側で鳴った。
ふう。
ただ、それだけだった。
けれど、川面の影が揺れた。
声が止まる。
ほう、という鶯の声が、途中で切れた。
おうい、という呼び声が、宙に浮いたままほどけた。
女の足が止まる。
百合が、その一瞬を逃さなかった。
女の腕を強く引く。
加納が駆け寄る。
二人で女を水際から引き離した。
女は抵抗しなかった。
糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。
「姉さん」
女が言った。
今度は、川に向かってではなかった。
自分の中に残った誰かへ向けるような声だった。
加納が女を抱える。
「大丈夫ですか」
女は答えない。
ただ、泣き出した。
声にならない泣き方だった。
六郎は、まだ水際にいた。
足首を掴むものは、消えていない。
緩んだだけである。
川面の影は、こちらを見ている。
いや。
笛を見ている。
六郎はもう一度、息を入れようとした。
だが、喉が動かない。
さっきの一息で、体の内側を持っていかれたような感覚があった。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、空っぽになる。
小夜が言っていたのは、これかもしれない。
音を出せる人間が吹けば、もっと深く持っていかれる。
たぶん、戻れない。
六郎は、笛を口元から離しかけた。
その瞬間、足首の力が戻った。
ぐい、と引かれる。
水が腿まで来る。
「六郎」
百合が声を上げた。
今度は近い。
百合は女を加納に任せ、こちらへ来ようとしている。
だが、六郎は首を振った。
来てはいけない。
そう思った。
百合が近づけば、百合にも声が掛かる。
名を呼ばれる。
何と呼ばれるのか、六郎にはわからない。
百合の名が本当に百合なのかも、六郎は知らない。
だが、川は名前で呼ぶ。
知っている名でも、知らない名でも。
一番返しやすい声で呼ぶ。
「来ないでください」
六郎は言った。
声は震えていた。
百合は止まった。
止まってくれた。
そのことに、六郎は少しだけ救われた。
川面の影が、近づく。
水の上を歩いているように見えた。
音はない。
だが、近づいてくる。
六郎は笛を握った。
手が震えている。
息も整わない。
それでも、もう一度、笛を唇に当てた。
音を出そうとするな。
音になる前で止めろ。
小夜の声。
老人の声。
百合の声。
加納の声。
母の声。
全部が一瞬、混ざった。
それでも、六郎はどれにも返事をしなかった。
ただ、息を吐いた。
ふう。
今度は、一度目より短かった。
息というより、こぼれたものだった。
それでも、笛を通った。
音にはならない。
ならないのに、川が聞いた。
六郎にも聞こえた。
たぶん、怪異にも聞こえた。
川面の影が、ぴたりと止まった。
その顔のない顔が、六郎を見た。
六郎は、見返した。
怖かった。
吐きそうなほど怖かった。
けれど、目をそらせなかった。
影の輪郭が、わずかに変わる。
鳥のような首が、折れる。
人のような肩が、ほどける。
水面に映った影が、風で乱れるように揺れる。
その奥から、いくつもの声が漏れた。
ほう。
おう。
かえして。
こっちへ。
さむい。
いきたい。
いきたくない。
それは、呼び声ではなかった。
呼び声になる前のものだった。
水の中に沈んだ名。
返されなかった声。
誰かが最後に吐いた息。
そういうものが、ばらばらに浮かんでいた。
六郎は、そこでようやくわかった。
これは、ひとつの怪異ではない。
木曽川そのものでもない。
川に沈んだもの。
川へ返されたもの。
川を渡ったもの。
川の上で呼ばれたもの。
それらが、春の水でゆるみ、あの笛を通って声になっている。
鶯の声は、形だった。
春の声を借りているだけである。
本当は、鶯などいないのかもしれない。
六郎は、三度目の息を入れた。
今度は、音を出そうとしなかった。
息を押し出すこともしなかった。
ただ、喉の奥にある水を、ほんの少しだけ笛へ渡した。
ふう。
その息は、六郎の耳には、ひどく小さく聞こえた。
だが、川には大きく響いたらしい。
水面が、沈黙した。
流れが止まったわけではない。
水は流れている。
けれど、声だけが止まった。
呼び声が、消えた。
影が、六郎の前で薄くなる。
その時、六郎の足首を掴んでいたものが、ゆっくり離れた。
六郎の体が自由になる。
急に力が抜け、膝をつきそうになった。
百合が駆け寄ってくる。
今度は止めなかった。
百合の手が、六郎の腕を掴む。
加納も反対側から支えた。
二人がかりで、六郎は水際から引き上げられた。
草の上に倒れ込む。
息ができなかった。
喉は空っぽなのに、水で詰まっているようだった。
笛は、まだ手の中にある。
誰かが取ろうとしても、たぶん離せなかった。
百合が六郎の顔を覗き込む。
「六郎」
六郎は頷いた。
声は出ない。
百合は、それ以上何も言わなかった。
加納が、震える声で言った。
「今、何をしたんですか」
百合は答えなかった。
六郎も答えられなかった。
加納は続ける。
「笛を、吹いたんですか」
六郎は、わずかに首を動かした。
吹いた。
たぶん。
けれど、音はなかった。
加納は困惑した顔をした。
「何も、聞こえませんでした」
百合は川を見ている。
「でしょうね」
「でも」
加納は水面を見た。
「何かが、止まった」
川は流れている。
夜の木曽川である。
水音がある。
風もある。
草も揺れている。
けれど、さっきまで川の上を満たしていた声は消えていた。
鶯も鳴かない。
誰も呼ばない。
女は加納のそばで、まだ泣いている。
花束は水に流されていた。
白い花びらが、いくつも闇の中を下っていく。
百合は六郎の手を見る。
笛を見ている。
「聞こえた?」
百合が言った。
六郎は、しばらくしてから頷いた。
「はい」
声がかすれていた。
「百合さんには」
百合は首を振った。
「聞こえなかったわ」
六郎は、そうだろうと思った。
加納にも聞こえなかった。
女にも聞こえていない。
たぶん、誰にも聞こえていない。
あの音にならない息は、六郎と、川面の影だけが聞いていた。
六郎と。
怪異だけが。
百合は、少しだけ目を伏せた。
「そう」
それから、川を見た。
「覚えられたわね」
六郎は、その言葉の意味を考えた。
認められた、とは違う。
許された、でもない。
助かった、でもない。
覚えられた。
それが一番近いのだろう。
川に。
笛に。
あの呼び声に。
六郎の息が、覚えられた。
加納が女を連れて、堤防の上へ上がった。
女は歩けなかった。
加納が支え、近くにいた人たちが手を貸す。
百合と六郎は、少し遅れて上がった。
六郎の足は濡れていた。
靴の中に水が入っている。
ズボンも重い。
春の夜風が当たると、急に寒さが来た。
さっきまで温度がなかった水が、今になって冷たく感じられる。
六郎は、笛を布に包もうとした。
だが、布がない。
どこかで落としたらしい。
笛は裸のまま、六郎の手の中にあった。
百合はそれを見て言った。
「持っていられる?」
「はい」
「無理なら」
「大丈夫です」
六郎は答えた。
大丈夫ではなかった。
けれど、手放す方が怖かった。
一度、川が聞いた。
その後で手放すと、また別の形で戻ってくる気がした。
百合は、何も言わなかった。
加納が戻ってきた。
「助かりました」
「まだよ」
百合が言った。
加納の顔が強張る。
「まだ、終わっていないんですか」
「今夜の声は止んだわ」
「今夜の」
「ええ」
百合は川を見る。
「でも、これがどこから来たものなのかは、まだ見えていない」
加納は唇を噛んだ。
「また、人が」
「近づかせないことね」
百合は言った。
「鶯が鳴いても、探さない。名を呼ばれても、返さない。懐かしい声ほど、信用しない」
「そんなことを、みんなに信じてもらえるでしょうか」
「信じてもらう必要はないわ」
百合は静かに言った。
「川辺に近づけない理由があればいい。工事でも、点検でも、何でも」
加納は少し考えた。
「護岸の点検で、一帯を立ち入り禁止にします」
「それがいいわ」
「何日くらい」
百合はすぐには答えなかった。
川を見る。
水は暗い。
だが、さっきよりもずっと普通の川に見えた。
「三日」
百合が言った。
「まずは三日。春の水が落ち着くまで」
「わかりました」
加納は頷いた。
それから六郎を見る。
「藤原さん、本当に大丈夫ですか」
「はい」
六郎は答えた。
声はまだかすれていた。
加納は何か言いたそうにしたが、結局、頭を下げた。
「ありがとうございました」
六郎は、どう返していいかわからなかった。
助けたのだろうか。
それとも、たまたま連れていかれずに済んだだけだろうか。
自分ではわからなかった。
⸻
籠目屋へ戻ったのは、夜遅くになってからだった。
店の中は薄暗い。
古本と酒の匂いが、いつもより濃く感じられた。
百合が戸を開けると、帳場の奥で紙をめくる音がした。
老人はいた。
いつものように。
六郎が濡れた足で入ると、奥から声がする。
「川臭い」
「すみません」
六郎が言う。
「謝るな。臭いものは臭い」
老人は顔も出さない。
百合は卓の近くに灯をつけた。
六郎は椅子に座る。
座った途端、体の重さが一気に来た。
指先が震えている。
笛は、まだ手の中にあった。
老人の声がした。
「吹いたか」
六郎は、少し迷った。
「音は、出ませんでした」
「聞こえたか」
「僕には」
「なら、吹いたんじゃ」
老人は言った。
紙をめくる音が止まる。
「誰に聞こえた」
六郎は、川面の影を思い出した。
顔のない顔。
水面に立つもの。
呼び声になる前の声。
「僕と」
六郎は言った。
「たぶん、向こうに」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
愉快そうではなかった。
苦いものを飲み込むような笑いだった。
「そうか」
それだけ言った。
百合が、六郎の前に湯呑みを置いた。
「飲みなさい」
「ありがとうございます」
六郎は湯呑みを両手で持った。
温かかった。
その温かさで、ようやく自分の指が冷えきっていることに気づいた。
湯を飲む。
喉が痛んだ。
笛を吹いたせいではない。
息を持っていかれかけたせいだ。
そう思った。
百合は向かいに座る。
「笛は」
六郎は手の中の笛を見た。
「置いていきますか」
そう言いかけて、やめた。
置いていけば戻る。
隠せば出る。
忘れようとすれば夢に立つ。
老人の言葉である。
六郎は、笛を卓の上に置こうとした。
だが、指が離れなかった。
力を入れているつもりはない。
笛がくっついているわけでもない。
ただ、置く気になれなかった。
百合はそれを見ている。
「持って帰るのね」
六郎は、小さく頷いた。
「その方がいい気がします」
「嫌ではないの?」
「嫌です」
六郎は正直に言った。
「でも、置いていく方が、もっと嫌です」
百合は、わずかに目を伏せた。
「そう」
老人が、帳場の奥で鼻を鳴らした。
「ようやく持ったか」
六郎は奥を見た。
「持った?」
「手にあることと、持つことは違う」
老人は言った。
「厄介なものでも、持つと決めれば、少しはましになる」
「ましに、ですか」
「少しはな」
それだけ言って、老人はまた本をめくり始めた。
百合が言った。
「練習しないといけないわね」
六郎は思わず顔を上げた。
「練習、ですか」
「ええ」
「笛を?」
「ほかに何を練習するの」
「僕には、音が出せません」
「出さなくていいのかもしれないわ」
百合は静かに言った。
「でも、息の出し方くらいは覚えた方がいいでしょう」
六郎は、笛を見た。
音の出ない笛。
自分と怪異にしか聞こえない息。
それを練習する。
考えただけで、気が重くなった。
「小夜さんに教わるんでしょうか」
「小夜は嫌がるでしょうね」
「でしょうね」
「でも、見てはくれるかもしれないわ」
百合は湯呑みを持ち上げた。
「死なない距離で」
六郎は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
外で、鶯が鳴いた。
ほう。
六郎の体が固まる。
百合も湯呑みを置いた。
老人の紙をめくる音が止まった。
ほう、ほけきょ。
今度は、ただの鶯に聞こえた。
春の夜に、少し遅れて鳴いた鳥。
それだけの声だった。
六郎は耳を澄ませた。
声は続かない。
誰も呼ばない。
木曽川の水音も、ここまでは届かない。
ただ、手の中の笛が、ほんの少しだけ温かかった。
「返事をしなかったわね」
百合が言った。
「はい」
六郎は答えた。
「しませんでした」
百合は頷いた。
それきり、何も言わなかった。
夜が深くなる。
籠目屋の古本と酒の匂いの中で、六郎は笛を握っていた。
それはもう、ただ戻ってくるものではなかった。
捨てても帰るものでもなかった。
六郎のところへ来たもの。
六郎の息を覚えたもの。
そして、おそらくこれから先、六郎が持って歩くことになるものだった。
外で、春の風が鳴る。
どこか遠くで、水が流れる。
鶯は、もう鳴かなかった。
六郎は笛を鞄へ入れた。
今度は、勝手に戻ってきたのではない。
自分の手で、そこへ入れた。
それだけのことなのに、鞄の重さが、少しだけ変わった気がした。
軽くなったわけではない。
重さの意味が、変わったのである。
百合が灯を落とす。
店の中が、ゆっくり暗くなる。
六郎は戸口で一度だけ振り返った。
卓の上には、もう笛はない。
帳場の奥では、老人が本をめくっている。
百合は何も言わない。
ただ、六郎を見ている。
六郎は小さく頭を下げた。
「また明日、来ます」
「ええ」
百合が答えた。
「笛も忘れずにね」
「忘れても、戻ってきそうです」
「そうね」
百合は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「でも、忘れない方がいいわ」
六郎は頷いた。
外へ出る。
春の夜の匂いがした。
土の匂い。
水の匂い。
花の咲く前の、薄甘い匂い。
その奥に、まだ少しだけ、木曽川の気配があった。
六郎は鞄の紐を握った。
中の笛は、何も言わない。
鳴りもしない。
ただ、そこにある。
それでよかった。
今は。
遠くで、水が流れている。
その水の上を、もう声は渡ってこなかった。
ただ、六郎にはわかっていた。
完全に終わったわけではない。
声は止んだ。
今夜は。
けれど、春は始まったばかりである。
土は湿り、草は伸び、水はぬるむ。
眠っていたものは、これから少しずつ、起きてくる。
六郎は歩き出した。
返事はしなかった。
笛も、鳴らなかった。
ただ、鞄の奥で、ほんのかすかに、息をしているようだった。




