黄鶯睍睆 三【喉の奥】
黄鶯睍睆
その夜、六郎は笛を籠目屋に置いて帰った。
置いて帰った、つもりだった。
古い布に包み、奥の卓の端へ置いた。
百合は何も言わなかった。
老人も何も言わなかった。
ただ、帳場の奥で紙をめくる音だけがしていた。
「置いていくの?」
百合が聞いた。
「持って帰っても、どうしていいかわからないので」
「持って帰らなくても、どうしていいかわからないでしょう」
「それは、そうですが」
六郎は困って、笛を見た。
布に包まれているのに、その形だけが妙にはっきり見える。
まるで布の下に、笛ではなく、細い魚か何かが入っているようだった。
「ここに置けば、安全ですか」
「安全という言葉は、あまり使いたくないわね」
「では、ましですか」
「それも、どうかしら」
百合は湯呑みに口をつけた。
答える気があるのかないのか、よくわからない。
六郎は少し黙った。
それから、布包みを卓の上へ置いたまま、鞄を持った。
「明日の朝、また来ます」
「ええ」
百合は短く答えた。
六郎は店を出た。
外は、もう暗かった。
春の夜である。
冬ほど冷たくはない。
けれど、川の方から来る風は湿っていた。
犬山の町は、夜になると、道幅が少し狭くなるように感じられる。
昼間は古い家並みに見えていたものが、夜には別のものの影をまといはじめる。
軒先の鉢。
閉まった戸。
道端の石。
電柱に貼られた古い札。
どれも、昼とは違う顔をしている。
六郎は鞄の紐を握り、家へ戻った。
笛は持っていない。
そのはずだった。
なのに、歩いているあいだ、鞄は軽くならなかった。
むしろ、右肩にかかる重さは、籠目屋へ向かった時よりも増している気がした。
六郎は、何度か鞄を開けようとした。
けれど、そのたびに足を止めることができなかった。
見たくない。
見れば、ある。
そう思った。
家に着くと、店はもう閉まっていた。
表の灯は落とされ、カウンターの奥だけに小さな明かりが残っている。
母が片づけをしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「ご飯、温める?」
「あとで大丈夫」
「そう。疲れた?」
「少し」
母はそれ以上聞かなかった。
六郎は店の隅に鞄を置いた。
その瞬間である。
かたり、と音がした。
乾いた音だった。
木の上に、細いものが当たる音。
六郎は動けなかった。
母が振り返る。
「今の音、なに?」
「……鞄の金具だと思う」
六郎は嘘をついた。
嘘をつくつもりはなかった。
ただ、その場ではそう言うしかなかった。
母は不思議そうに鞄を見たが、それ以上聞かなかった。
六郎は鞄を持ち上げ、自分の部屋へ上がった。
戸を閉める。
部屋の中は暗い。
灯りをつける前に、六郎は鞄を机の上へ置いた。
しばらく見ていた。
鞄は何も言わない。
動かない。
ただ、そこにある。
六郎はゆっくり口金を外した。
財布。
手帳。
仕入れの控え。
畳んだエプロン。
その奥に、布包みがあった。
籠目屋に置いてきたはずの布包みである。
六郎は、手を伸ばせなかった。
布の結び目は、自分が結んだものではない。
籠目屋で置いた時のまま。
いや。
違う。
それは、小夜が結んだ時の結び目にも似ていた。
どの結び目が本当だったのか、もうわからない。
六郎は、鞄を閉じた。
見なかったことにする。
それしかできなかった。
その夜、夢を見た。
木曽川だった。
昼間見た場所である。
菜の花はない。
堤防もない。
ただ、水だけがある。
広く、暗い水である。
水面の上に、細い白いものが浮いていた。
笛だった。
古い笛が、水に浮いている。
沈まない。
流れない。
ただ、そこにある。
六郎はそれを見ていた。
足元には水がある。
膝まで浸かっている。
冷たいはずなのに、冷たさはない。
ただ、足が重い。
水の中で、誰かが息をしている。
ふう。
ほう。
ふう。
ほう。
それは鶯の声に似ていた。
だが、違う。
声になる前の、息である。
それが、水の下から上がってくる。
六郎は耳を塞ごうとした。
だが、手が動かなかった。
水面の笛が、ゆっくりこちらを向いた。
笛に顔はない。
目もない。
けれど、向いたのだとわかった。
ろくろう。
声がした。
六郎は返事をしそうになった。
口が開く。
喉が動く。
その時、別の声がした。
返すな。
老人の声だった。
六郎は目を覚ました。
部屋は暗かった。
布団の上に座り込んでいる。
息が荒い。
耳の奥で、まだ水の音がしていた。
時計を見ると、午前二時を少し過ぎている。
外は静かだった。
六郎は机の上の鞄を見た。
鞄は閉じている。
しかし、その中から、かすかに水の匂いがした。
眠れなかった。
明け方近くになって、ようやく少しだけ目を閉じた。
次に目を開けた時、外は白くなっていた。
春の朝である。
だが、六郎の耳には、まだ夜の川が残っていた。
喫茶店の手伝いを終え、籠目屋へ向かう前に、六郎は一度だけ鞄を開けた。
布包みは、そこにあった。
触れると、温かかった。
昨日よりも、明らかに温かい。
生き物の体温ほどではない。
けれど、冷たいものではなくなっている。
六郎は布を解かなかった。
そのまま鞄へ戻し、籠目屋へ向かった。
籠目屋に着くと、百合はもう奥にいた。
老人も、帳場の奥にいた。
紙をめくる音がする。
いつもと同じである。
六郎は戸を開けた。
「おはようございます」
返事はない。
奥から、紙をめくる音だけが返ってくる。
六郎は奥へ進んだ。
百合が顔を上げる。
「戻ったのね」
笛のことだと、すぐにわかった。
「はい」
六郎は鞄を下ろした。
「籠目屋に置いて帰ったはずなんですが」
「そうね」
「家にありました」
「そう」
百合は驚かなかった。
驚かないことに、六郎は少しだけ腹が立った。
「百合さん」
「なに」
「これは、もう、僕が持つしかないんですか」
百合はすぐには答えなかった。
湯呑みを持ち上げたまま、少しだけ黙っている。
それから、湯呑みを置いた。
「持つしかない、という言い方は嫌ね」
「では、何と言えばいいんですか」
「向こうが、そうしたがっている」
「向こう」
「笛か、川か、それとも別のものか」
六郎は黙った。
その三つのどれが一番ましか、考えようとして、どれもましではないことに気づいた。
帳場の奥で、老人が鼻を鳴らした。
「持ちたくないものほど、手に残る」
六郎はそちらを見た。
老人は顔を上げていない。
「捨てれば戻る。隠せば出る。忘れようとすれば、夢に立つ。そういうものは、昔からある」
「どうすればいいんですか」
六郎が聞いた。
「知らん」
老人は即答した。
「ただな」
紙をめくる音が止まる。
「逃げる時は、逃げる方角を間違えるな」
「方角?」
「川から逃げるのに、川下へ走る馬鹿があるか」
六郎は言葉に詰まった。
意味はわかるようで、わからない。
百合は静かに聞いている。
「水は下へ行く。声も下へ行く。名も、息も、軽いものは下へ流れる」
老人はそこで、また本をめくった。
「それだけじゃ」
それ以上は、何も言わなかった。
昼過ぎ、加納から連絡が入った。
籠目屋の古い電話が鳴った。
百合が受話器を取る。
「はい」
短く返事をして、しばらく聞いている。
六郎は、その横顔を見ていた。
百合は表情を変えない。
ただ、目だけが少し冷えていく。
「わかったわ」
百合は受話器を置いた。
「何かあったんですか」
「またひとり、亡くなった」
六郎は息を飲んだ。
「木曽川ですか」
「木津用水の近く」
昨日、子どもが川へ下りかけたという場所である。
「子どもではないわ。止めようとした近所の男の人」
「止めようとして?」
「鶯の声が聞こえた子を見て、母親と一緒に川から離そうとしたそうよ」
百合は静かに言った。
「そのあとで、自分が呼ばれた」
六郎は、言葉を失った。
「返事をしたんですか」
「ええ」
「何と」
「姉さん」
百合は言った。
「そう呼んだそうよ」
店の中が静かになった。
古本の匂い。
酒の匂い。
埃の匂い。
その下から、川の匂いがした。
「その人には、亡くなったお姉さんがいたらしいわ」
百合は続けた。
「子どもの頃に、用水で亡くなった」
六郎は、自分の喉が乾いていくのを感じた。
「声が、寄っているんですね」
「ええ」
百合は卓の上に視線を落とした。
「その人が一番返しやすい声で呼ぶ」
「一番、返しやすい声」
「懐かしい声。後悔している声。聞きたかった声。聞きたくなかった声」
百合は言った。
「人によって違うわ」
六郎は、鞄を見た。
自分には、何の声で呼ばれるのか。
さっきまでは、六郎、と呼ばれていた。
六郎の名を、ただ呼ぶ声。
それが一番怖かった。
誰の声でもない。
それなのに、自分の名前だけが、はっきり聞こえる。
「僕には」
六郎は言いかけて、止めた。
百合がこちらを見る。
「なに」
「いえ」
言えば、近づく気がした。
口に出すだけで、声が自分の形を覚えるような気がした。
百合はそれ以上聞かなかった。
かわりに、鞄へ視線を向ける。
「笛を出して」
六郎は一瞬ためらった。
それでも鞄を開ける。
布包みを取り出し、卓の上へ置く。
結び目を解く。
古い笛が現れた。
昨日よりも、色が濃く見えた。
濡れてはいない。
だが、乾いてもいない。
水辺に置かれた木のような湿り気がある。
百合は笛を見ている。
老人も、帳場の奥で本をめくる手を止めた。
「小夜は、吹けないと言っていました」
六郎が言った。
「吹いたら死ぬと」
「でしょうね」
百合は小さく答えた。
「小夜は、音を出せるもの」
「音を出せると、だめなんですか」
「今のこれは、音を出す道具ではないのかもしれないわ」
百合は笛に触れない。
ただ、見ている。
「息を返すもの」
六郎は、朝から何度も聞いた言葉を思い出した。
音になる前で止める。
小夜の声が耳に残っている。
「僕に、できると思いますか」
百合は、すぐには答えなかった。
「できるかどうかは知らないわ」
「そうですか」
「でも、向こうは、あなたにできると思っているのかもしれない」
それは、慰めではなかった。
むしろ、余計に怖かった。
向こう。
川か。
笛か。
怪異か。
そのどれかが、六郎にできると思っている。
だから呼ぶ。
だから戻る。
だから、逃がさない。
その日の夕方、六郎は一度家へ戻った。
百合は籠目屋に残った。
加納から、川沿いの地図と、声が聞こえた場所の連絡を待つことになっていた。
「夜に出るかもしれないわ」
百合はそう言った。
「家で少し休みなさい」
休めるはずがなかった。
それでも、六郎は頷いた。
喫茶店に戻ると、母が夕方の片づけをしていた。
店内には、二人ほど客が残っている。
新聞を読む老人と、ノートを開いている若い女である。
いつもの夕方だった。
コーヒーの匂い。
カップの触れる音。
椅子を引く音。
そういう普通の音があるだけで、少しだけ安心した。
「戻ったの?」
母が言った。
「すぐまた出るかも」
「籠目屋?」
「たぶん」
「ご飯、少しでも食べる?」
「あとでいい」
「顔色、悪いよ」
六郎は少し笑った。
笑ったつもりだった。
「大丈夫」
母は六郎を見ていた。
何か言いたそうだった。
けれど、言わなかった。
「無理はしないでね」
「わかってる」
六郎は短く答えた。
店の奥へ入る。
鞄を椅子に置く。
その時、店の外で鶯が鳴いた。
ほう。
六郎は固まった。
こんな時間に。
もう夕方である。
鶯が鳴いてもおかしくないのかもしれない。
だが、その声は店の外ではなかった。
もっと近い。
店内。
いや。
鞄の中。
ほう。
ほう。
おう。
六郎は、鞄を見た。
布包みが入っている。
見なくてもわかる。
笛が、そこにある。
「六郎?」
母の声がした。
「大丈夫?」
「大丈夫」
六郎はすぐに答えた。
声が少し上ずっていた。
客の老人が新聞から顔を上げた。
若い女も、少しこちらを見た。
その時、若い女がふと窓の外を見た。
「鶯?」
小さく呟いた。
六郎は息を止めた。
女は窓の方を見ている。
「今、鳴きましたよね」
誰に聞くでもなく言った。
新聞の老人が首を傾げる。
「こんな時間にかね」
「聞こえました」
女は笑った。
「春ですね」
その笑いが、すぐに止まった。
女は窓の外を見たまま、目を細めた。
「……お母さん?」
六郎は、立ち上がった。
女が席を立とうとしている。
ゆっくりと。
椅子の脚が床を擦る。
母が不思議そうに見る。
「どうかしましたか」
女は答えない。
窓の外を見ている。
その顔は、嬉しそうで、泣きそうだった。
「お母さん」
もう一度、女は言った。
六郎は駆け寄った。
「だめです」
自分でも、なぜそう言ったのかわからない。
ただ、言わなければならないと思った。
女は六郎を見た。
目の焦点が合っていない。
「呼んでる」
「返事をしないでください」
「でも」
「返事をしないで」
六郎の声が強くなった。
母が驚いている。
客の老人も新聞を畳んだ。
女の唇が動く。
はい。
そう言いかけていた。
六郎はとっさに鞄を掴んだ。
中の笛が、布越しに手に触れる。
熱かった。
冷たいのではない。
熱い。
六郎は、布包みを握ったまま、息を止めた。
小夜の声が浮かぶ。
音を出そうとしない方がいい。
音になる前で止めな。
六郎は、笛を取り出そうとして、やめた。
ここで吹くのは違う。
そう思った。
誰に教えられたわけでもない。
ただ、店の中で吹けば、店の中に通り道が開く気がした。
六郎は女の前に立ち、窓を背にした。
「外を見ないでください」
女は、六郎の向こうを見ようとする。
「母が」
「いません」
「いる」
「いません」
六郎は言い切った。
「あなたを呼んでいるものは、お母さんではありません」
女の顔が歪んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
見たいものを見せられている人間が、それを否定された時の顔だった。
「あなたに、何がわかるんですか」
六郎は言葉に詰まった。
わからない。
わかるはずがない。
それでも。
「わかりません」
六郎は言った。
「でも、返事をしたら、たぶん戻れません」
女の唇が震えた。
窓の外で、また鳴く。
ほう。
おう。
おうい。
今度は、六郎にもはっきり聞こえた。
鶯ではない。
声だった。
女は涙をこぼした。
「お母さん」
その声に、母が近づこうとした。
六郎は首を振った。
母は足を止めた。
六郎は、布包みを握る手に力を込めた。
笛が震えている。
今にも、勝手に鳴りそうだった。
だが、鳴らなかった。
六郎は息を吸わなかった。
吐きもしなかった。
ただ、呼び声の中で、返事だけを止めていた。
やがて、女の目から力が抜けた。
膝が崩れる。
六郎が支えた。
「……え?」
女は小さく声を漏らした。
「私、何を」
六郎は息を吐いた。
その瞬間、窓の外で風が動いた。
何かが離れていく気配がした。
母が駆け寄る。
「大丈夫ですか」
女は、ぼんやり頷いた。
「すみません。急に、母の声がした気がして」
店の中は、静かだった。
新聞の老人が、何も言わずに窓の外を見ている。
外には、誰もいない。
鶯もいない。
ただ、夕方の道があるだけだった。
六郎は、自分の手元を見た。
布包みがある。
笛はまだ、その中で震えていた。
その夜、百合から電話が来た。
母が受話器を取り、六郎へ渡した。
「籠目屋から」
六郎は受話器を受け取る。
「はい」
「六郎」
百合の声だった。
「今、出られる?」
「出られます」
「木曽川へ行くわ」
六郎は、何も聞かなかった。
聞かなくても、わかった。
また誰かが呼ばれている。
あるいは、もう呼ばれた。
「笛は」
百合が聞いた。
「あります」
「そう」
それだけだった。
六郎は鞄を持ち、店を出た。
母が見送る。
「六郎」
「なに」
「気をつけて」
「大丈夫」
そう言った自分の声が、あまり大丈夫には聞こえなかった。
外は夜だった。
春の夜である。
空は薄く曇っている。
月は見えない。
道を歩いていると、遠くで鶯が鳴いた。
ほう。
六郎は足を止めない。
ほう。
まだ止めない。
おう。
鞄の中の笛が、かたりと鳴る。
おうい。
木曽川の方から、声がした。
ろくろう。
六郎は返事をしなかった。
ただ、歩いた。
籠目屋の前に着くと、百合が立っていた。
黒いカーディガンを羽織り、いつものように、暗がりの中にいる。
「来たのね」
「はい」
「行きましょう」
百合はそれだけ言った。
二人は木曽川へ向かった。
夜の道を歩いているあいだ、百合はほとんど何も言わなかった。
六郎も黙っていた。
話せば、何かが返ってくる気がした。
川に近づくにつれて、空気が湿っていく。
風の中に、泥の匂いが混じる。
草の匂い。
水の匂い。
夜の木曽川の匂い。
堤防に上がると、加納が待っていた。
懐中電灯を持っている。
顔色が悪い。
「こっちです」
加納は短く言った。
「また、人が?」
六郎が聞いた。
加納は頷いた。
「まだ川には入っていません。でも、動かないんです」
「誰」
百合が聞く。
「横井さんの奥さんの妹さんです。横井さんのことを聞いて、花を置きに来ていたそうです」
加納は懐中電灯を川辺へ向けた。
光の輪の中に、女が立っていた。
五十代後半くらいだろうか。
水際の少し手前で、じっと川を見ている。
手には花束を持っていた。
白い花である。
川へ手向けるつもりだったのだろう。
「声をかけても、返事をしません」
加納が言った。
「近づこうとすると、川へ進むんです」
百合は女を見ている。
「もう聞いているわね」
「はい」
加納の声が震える。
「さっきから、姉さん、と」
六郎は女を見た。
女は川の方を見ている。
唇が動いている。
何かを言っている。
聞こえない。
けれど、何を言っているのか、わかる気がした。
姉さん。
そう言っている。
横井兼吉の亡くなった妻。
その妹。
死んだ姉の声で呼ばれている。
夜の川が、静かに流れている。
鶯が鳴いた。
ほう。
加納が肩を震わせた。
百合は動かない。
六郎は、鞄の中の笛を感じた。
ほう。
女が一歩、水へ近づく。
百合が言った。
「加納さん、下がって」
「でも」
「下がって」
加納は唇を噛み、後ろへ下がった。
百合は女へ向かって歩き出した。
六郎も続く。
女の唇が動く。
「今、行く」
その声が聞こえた。
六郎は走った。
百合が手を伸ばす。
だが、女の足はすでに水に触れていた。
水が跳ねる。
冷たい音がした。
その瞬間、川から声が上がった。
おうい。
おうい。
いくつもの声だった。
男の声。
女の声。
子どもの声。
老人の声。
それらが重なり、鶯の声になり、また人の声に戻る。
女だけではない。
六郎も呼ばれていた。
ろくろう。
六郎の足が止まる。
百合が振り返る。
「六郎」
百合の声が聞こえた。
だが、それより近くで、別の声がする。
ろくろう。
水の上に、誰かがいる。
見てはいけない。
そう思うのに、六郎は見てしまった。
川面に、人影が立っていた。
人ではない。
鳥でもない。
水面に映った影が、立ち上がったようなものだった。
白いようにも、黒いようにも見える。
顔はない。
だが、こちらを見ている。
六郎は、鞄に手を入れた。
布包みを掴む。
笛を取り出す。
百合が、女の腕を掴んでいた。
女は水の方へ行こうとしている。
加納が叫んでいる。
声が遠い。
六郎は笛を見た。
古い笛である。
自分には吹けない。
吹けるはずがない。
けれど、笛は温かかった。
生きているもののように。
ろくろう。
声が、すぐ耳元でした。
六郎は、笛を口元へ上げかけた。
その瞬間、小夜の言葉がよみがえる。
音を出そうとしない方がいい。
音になる前で止めな。
六郎は息を吸った。
吐こうとした。
だが、そこまでだった。
川の中から、何かが引いた。
足が動く。
自分の足ではないようだった。
六郎は一歩、水へ向かって踏み出した。
百合が叫んだ。
「六郎!」
その声で、六郎は一瞬だけ戻った。
だが、もう遅い。
足元の土が崩れる。
六郎の体が傾く。
水の匂いが、顔に当たる。
笛を握ったまま、六郎は川へ落ちかけた。
その時、手の中の笛が、震えた。
音は鳴らなかった。
誰にも聞こえなかった。
けれど六郎には、はっきり聞こえた。
ふう。
音になる前の、息。
水の下へ落ちていく息。
水の底からこちらへ戻ってくる息。
その息が、六郎の喉の奥で止まった。
川面の影が、わずかに揺れる。
それも聞いている。
六郎は、そう思った。
六郎と。
怪異だけが。
その息を聞いていた。
そして次の瞬間、川の中から冷たい手が伸びた。
足首を掴まれた。
六郎の体が、ぐい、と水の方へ引かれる。
百合の声が遠くなる。
加納の叫びも、夜の風も、何もかもが遠くなる。
ただ、笛だけが手の中にあった。
ろくろう。
川が、もう一度呼んだ。
今度は、返事を待っていなかった。
六郎を、そのまま連れていくつもりだった。




