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籠目屋商店怪異録 春ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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2/5

黄鶯睍睆 二【水のほとり】

木曽川は、春の光を受けていた。


水面は、冬のあいだの黒さを少しだけ薄めている。


遠くから見れば、穏やかな川である。


川幅は広く、流れはゆるやかに見える。


堤防の草には、まだ朝の湿り気が残っていた。


菜の花が咲いている。


土手の低いところに、黄色い花が点々と続いている。


それが明るいせいで、かえって川の水だけが暗く見えた。


加納正明は、百合と六郎の少し前を歩いていた。


手には帽子を持っている。


風が吹くたびに、帽子の縁が小さく揺れた。


「このあたりです」


加納は言った。


犬山橋から少し下ったところだった。


川へ下りる細い踏み跡がある。


人がよく通る道ではない。


けれど、まったく誰も通らないわけでもない。


草が、ところどころ寝ている。


足を置いた跡が、土に残っていた。


雨は降っていない。


だが、川に近いところの土だけは湿っていた。


六郎は、その湿り方を見て、嫌な感じがした。


水が染みたのではない。


土の方から、水を欲しがっているような湿り方だった。


「亡くなった方は、ここから?」


百合が聞いた。


「はい」


加納は頷いた。


「堤防の上を歩いていて、ここで足を止めたそうです。それから、この踏み跡をそのまま下りたと」


「普段から下りる方だったの?」


「いえ。見ていた人は、そういうことはなかったと言っています。毎朝歩いていましたが、川辺へ下りることはなかったと」


百合は踏み跡を見ている。


六郎も、その先を見た。


踏み跡は、草の間を抜けて、水際へ続いている。


水際には、細い葦が生えていた。


その向こうで、木曽川がゆっくり流れている。


音はほとんどしない。


それなのに、六郎の耳には、水の音が近かった。


耳の奥で、水が流れている。


いや。


流れているというより、誰かが息をしている。


ふう。


ほう。


水の下から、息を吐くような音がする。


六郎は足を止めた。


百合が振り返る。


「聞こえる?」


六郎はすぐには答えなかった。


聞こえる、と言えば、聞こえる。


けれど、何が聞こえるのか、うまく言えなかった。


「水の音が」


「水は流れているもの」


「そうなんですが」


六郎は、川を見た。


春の日差しが、水面で細かく揺れている。


あまりに普通の川だった。


普通であることが、どこか恐ろしかった。


「あまり近づかないで」


百合が言った。


六郎は頷いた。


加納が、水際の少し手前で立ち止まる。


「ここで、見ていた人が声をかけたそうです」


「亡くなった方に?」


「はい。危ないですよ、と」


「返事は」


「なかったそうです」


加納は、川の方を見た。


「聞こえていないようだった、と」


「その方の名前は?」


横井よこい兼吉かねきちさんです。七十六歳でした」


加納は、帽子を握り直す。


「奥さんを数年前に亡くしていて、毎朝ひとりで歩いていました。犬もいたんですが、去年死んだそうです」


百合は黙って聞いていた。


「今朝は、犬の名前を呼んでいたという話もあります」


「誰が?」


「見ていた人です。横井さんが、川の方へ向かって、ぽち、と」


六郎は、思わず川を見た。


ぽち。


どこにでもある犬の名である。


だからこそ、妙に生々しかった。


亡くなった妻よりも。


亡くなった友人よりも。


犬の名の方が、ふいに日常へ近いところへ来る。


「その声が聞こえたのね」


百合が言った。


「横井さんには」


加納は頷いた。


「たぶん」


「でも、見ていた人には鶯に聞こえた」


「はい」


風が吹いた。


菜の花が揺れる。


その向こうで、水面が光った。


その時、鶯が鳴いた。


ほう。


加納が、はっと顔を上げる。


六郎も、同じように顔を上げた。


どこから鳴いたのかわからない。


土手の上か。


川向こうか。


もっと遠くの木立か。


声は澄んでいた。


春の声である。


ほう、ほけきょ。


加納が唇を結ぶ。


「これです」


「同じ?」


百合が聞いた。


「同じに聞こえます」


加納の声は硬かった。


「でも、今は普通の鶯に聞こえます」


百合は川を見た。


六郎には、普通には聞こえなかった。


一声目は、鶯だった。


二声目も、鶯に近かった。


けれど、その後ろに、細い息が混じる。


音になりきらない息。


笛の穴を、湿った風が抜けていくような音。


ほう。


ほう。


おう。


六郎は、息を詰めた。


鞄の中で、笛が少し動いたような気がした。


実際に動いたのかどうかはわからない。


けれど、布に包んだはずの笛の形が、鞄の底で妙にはっきりと感じられた。


「六郎」


百合が言った。


六郎は、はっとする。


「はい」


「返事をしないで」


「していません」


「今のは、返事に近かったわ」


六郎は何も言えなかった。


声を出したつもりはない。


けれど、胸の奥で何かが動いた。


呼ばれた。


そう思った。


呼ばれたから、答えようとした。


言葉になる前の返事が、喉の奥まで上がっていた。


「すみません」


「謝らなくていいわ」


百合は川を見たまま言った。


「ただ、気をつけて」


加納は、二人のやり取りを不安そうに見ていた。


「藤原さんにも、聞こえるんですか」


六郎は、すぐには答えられなかった。


「鶯の声は」


「それ以外も?」


加納の問いに、六郎は口を閉じた。


百合が言った。


「加納さん」


「はい」


「横井さんが下りていった時、水面に何かあったと聞いている?」


「何か、ですか」


「人影でも、鳥でも、犬でも」


加納は考えた。


「見ていた人は、そこまでは。ただ、横井さんは何かを見ているようだったと」


「川の上を?」


「はい」


加納は川を指した。


「このあたりです。あそこに何かいるみたいに、ずっと見ていたそうです」


百合は目を細めた。


六郎も、その辺りを見た。


水面が揺れている。


何もいない。


鳥もいない。


人もいない。


犬など、いるはずがない。


それなのに、見ていると、何かがいそうだった。


水の下ではない。


水の上でもない。


その境に、何かがいる。


そう感じた。


「見すぎないで」


百合が言った。


六郎は視線を外した。


その瞬間、耳の奥で声がした。


おうい。


六郎の足が、一歩だけ動いた。


草を踏む音がする。


自分の足音だった。


六郎は、遅れて気づいた。


水際へ近づいていた。


百合の手が、六郎の袖を掴んだ。


強くはない。


ただ、止めるだけの力だった。


「六郎」


百合が名前を呼ぶ。


その声で、六郎は戻った。


「……すみません」


「だから、謝らなくていいわ」


百合は静かに言った。


「でも、もう一歩先へ行ったら、少し面倒だった」


加納の顔が青くなっていた。


「今、歩いていましたよ」


「わかっています」


六郎は答えた。


自分の声が、少し遠く聞こえた。


鞄の中の笛が重い。


朝より、ずっと重い。


布に包んでいるはずなのに、手のひらに直接乗せているような重さが肩にかかっていた。


百合は、足元の土を見た。


「ここではないわね」


「え?」


加納が聞き返す。


「横井さんは、ここで呼ばれた。でも、声の出どころはここではない」


「どこですか」


「川の中ではないと思う」


百合は、少しだけ上流の方を見た。


「水の上を通ってきている」


六郎は、その言い方にぞっとした。


水の上を通ってくる。


音が。


声が。


呼びかけが。


そう考えると、木曽川そのものが、長い道のように見えた。


ただ流れているだけではない。


どこかからどこかへ、何かを運んでいる。


水だけではなく。


声も。


息も。


名も。


老人の言葉が、ふと蘇る。


流れておるものは、みな道になる。


六郎は、鞄の紐を握った。


「百合さん」


「なに」


「この笛も、その道を通って戻ってきたんでしょうか」


百合は答えなかった。


答えないことが、答えのようにも思えた。


加納が、低い声で言った。


「それだけではないんです」


百合が加納を見る。


加納は帽子を胸の前で握ったまま、土手の上の方を見た。


「横井さんが亡くなる前から、何人か、変なことを言っていました」


「変なこと」


「川で、声を聞いたと」


百合は黙っている。


「最初は、誰も本気にしませんでした。春先ですから、鳥の声を聞き間違えたんだろうと」


「どんな声?」


「人によって違います」


加納は言った。


「亡くなった母親の声だと言った人もいます。昔別れた奥さんの声だと言った人もいます。子どもの頃に死んだ兄弟に呼ばれたという人も」


六郎は、背筋が冷えるのを感じた。


「みんな、最初は鶯だと言うんです」


加納の声は震えていた。


「鶯が鳴いていると思って、耳を澄ます。そうすると、だんだん別の声になる」


「呼ぶのね」


百合が言う。


「はい」


加納は頷いた。


「名前を呼ばれるそうです」


風が吹いた。


菜の花が揺れる。


川は、何事もないように流れている。


百合は、加納の話を聞いてから、少しだけ黙った。


「加納さん」


「はい」


「あなたは聞いた?」


加納の指が、帽子の縁を握りしめた。


「一度だけ」


「誰の声」


加納は口を開きかけた。


だが、すぐには言わなかった。


言えば何かが決まってしまう。


そういう沈黙だった。


「父の声でした」


加納はようやく言った。


「もう十年以上前に亡くなっています」


「何と言われたの」


「正明」


加納は目を伏せた。


「それだけです」


六郎は、加納を見た。


加納は五十を過ぎた男である。


日に焼けて、手も荒れている。


仕事で土と水に触れてきた人間の顔だった。


その男が、父親に名前を呼ばれたと話す時だけ、少し幼く見えた。


「返事は」


百合が聞いた。


「しませんでした」


「なぜ」


「怖かったからです」


加納は正直に言った。


「懐かしいと思うより先に、怖いと思いました。あれは父の声でした。でも、父ではないと思った」


百合は小さく頷いた。


「それでよかったわ」


加納は息を吐いた。


「でも、横井さんは返事をした」


「ええ」


「だから、川へ入った」


百合は答えなかった。


だが、否定もしなかった。


その時、土手の上から声がした。


「加納さん」


ひとりの女が駆けてくる。


四十前後だろうか。


息を切らし、手にはスマートフォンを握っていた。


加納が顔を上げる。


「どうした」


「また」


女は、百合と六郎を見てから、言葉を飲んだ。


加納が促す。


「話していい」


女は頷いた。


木津用水きつようすいの方で、子どもが川へ下りかけたって。母親が気づいて止めたらしいけど」


「怪我は」


「ないみたい。でも、その子が言ってるそうです」


女は唇を震わせた。


「鳥が呼んでいたって」


六郎は、鞄の紐を握りしめた。


百合の表情は変わらない。


変わらないが、目だけが少し冷えた。


「その子は、何と呼ばれたの」


女は首を振る。


「そこまでは。ただ、母親の話では、川の方へ向かって、はい、と答えたそうです」


はい。


その一言が、妙に重かった。


はい。


ただの返事である。


どこにでもある。


誰でもする。


けれど、水の上の声に向かって返すなら、それはもう、ただの返事ではない。


百合は土手の上へ目を向けた。


「広がっているわね」


「声が、ですか」


六郎が聞く。


「聞こえる場所が」


加納が、焦ったように言った。


「どうすれば」


百合はすぐには答えなかった。


川を見た。


菜の花を見た。


湿った土を見た。


それから、六郎の鞄を見た。


「音で来るものなら」


百合が言った。


「音を知っている人間に、触れさせた方がいいかもしれないわ」


六郎は、鞄の奥の笛を思った。


布に包んでいるはずなのに、そこだけ冷たく重い。


「小夜さんですか」


「ええ」


百合は短く答えた。


「あの子なら、嫌がるでしょうけど」


「小夜さんなら、何かわかるんでしょうか」


「わかるかどうかは、わからないわ」


「でも、行くんですね」


「ここで水を眺めているよりはいいでしょう」


百合は静かに言った。


加納は不安そうに二人を見た。


「私は」


「加納さんは、木津用水の方へ」


百合が言った。


「その子と母親に、川へ近づかないよう伝えて。名前を呼ばれても返事をしないように」


「わかりました」


「それから」


百合は少しだけ間を置いた。


「鶯が鳴いても、探さないで」


加納は唇を引き結んだ。


「はい」



その日の夕方、六郎は小夜に会った。


場所は、彼女が勤める店の開店前だった。


まだ外は明るい。


店の看板には灯が入っていない。


中には椅子が逆さに上げられ、グラスが磨かれている途中だった。


小夜はカウンターに肘をついて、六郎を見るなり眉を上げた。


「なに、その顔」


「そんなに変ですか」


「変。水辺で拾ってきた犬みたいな顔してる」


「犬ですか」


「猫ではないね」


小夜はそう言って笑った。


笑い方は軽い。


けれど、六郎の鞄を見る目だけは、すぐに変わった。


「何持ってるの」


六郎は鞄を下ろした。


「笛です」


「笛?」


「たぶん」


「たぶんって何」


六郎は布に包んだ笛を、カウンターの上へ置いた。


布を解く。


古い笛が現れる。


小夜の笑みが消えた。


「……なに、それ」


百合は少し離れた席に座っている。


何も言わない。


ただ、六郎が笛を取り出すのを見ていた。


小夜は笛に手を伸ばしかけた。


だが、途中で止めた。


「触っていいやつ?」


「わからないわ」


百合が言った。


「最悪」


小夜は顔をしかめた。


それでも、指先でそっと笛に触れる。


その瞬間、小夜の肩がわずかに揺れた。


「冷た」


「濡れていないんです」


六郎が言った。


「でも、冷たいでしょう」


「冷たいっていうか」


小夜は笛を持ち上げた。


目の高さにかざす。


「川底から拾ったみたい」


六郎は黙った。


まさに、そうだった。


小夜は笛を回して、穴の位置を見る。


口元へ運びかけた。


そこで止まった。


店の中が、急に静かになった。


外を通る人の声も、グラスの触れる音も、遠くなった。


小夜は笛を口元から離した。


顔から、いつもの軽さが消えている。


「無理」


「小夜さん?」


「これは無理」


小夜は笛をカウンターへ戻した。


指先が少し震えていた。


六郎は、それを見た。


小夜の指は、普段なら驚くほど迷いがない。


グラスを持つ時も、笛を持つ時も、音に触れる時も。


その指が、震えている。


「吹けないんですか」


「吹けない」


小夜ははっきり言った。


「たぶん、吹いたら死ぬ」


六郎は言葉を失った。


百合は笛から目を離さない。


「息を取られる?」


「うん」


小夜は唇を噛んだ。


「音を出す前に、こっちの息が全部持っていかれる。喉からじゃない。肺からでもない。もっと奥から」


「奥」


六郎が小さく言った。


「生きてるところ」


小夜はそう言った。


冗談ではなかった。


「これ、普通の笛じゃない」


「笛の形はしているわ」


百合が言った。


「形だけね」


小夜は笛を睨むように見た。


「こっちが息を入れて鳴らすんじゃない。向こうから息が入ってくる」


六郎の背筋が冷えた。


朝から感じていたもの。


鶯の声の奥にあったもの。


音になる前の吐息。


それが、笛の方から来ている。


「向こうって」


六郎が聞いた。


小夜は、少しだけ目を伏せた。


「川」


その一言だけで、店の中の空気が湿ったような気がした。


百合は黙っている。


小夜は、六郎を見た。


「これ、私には無理」


「小夜さんでも」


「私だから無理なのかも」


「どういうことですか」


「私は音を出せる」


小夜は、自分の喉に軽く触れた。


「音を出せる人間が吹いたら、ちゃんと繋がる。ちゃんと繋がったら、たぶん戻れない」


「じゃあ、誰なら」


六郎は言いかけて、そこで止まった。


小夜が、こちらを見ていた。


百合も、こちらを見ていた。


「……僕ですか」


小夜は嫌そうな顔をした。


「言いたくないけどね」


「僕は笛なんて吹けません」


「だからじゃない?」


「吹けないから?」


「うん」


小夜は、少しだけ苦く笑った。


「音を出せる人間が吹くと、向こうに届きすぎる。でも、あんたは音を出せない。たぶん、音になる前で止まる」


六郎は、朝から耳の奥に残っていた吐息を思い出した。


音になる前の息。


鶯の奥に混じっていたもの。


水の下から、こちらへ吹いてくるもの。


「それに」


小夜は笛を指さした。


「これ、あんたの方を向いてる」


「向いている?」


「そうとしか言えない」


「笛に向きなんてあるんですか」


「あるものにはある」


小夜は、もう軽口を言わなかった。


「百合さんのものでもない。私のものでもない。今は、あんたに寄ってる」


六郎は、笛を見た。


笛に顔などない。


目もない。


それなのに、そう言われると、たしかにこちらを向いているような気がした。


小夜は、さらに続けた。


「たぶん、あんたが吹いても、普通の人には聞こえないよ」


六郎は顔を上げた。


「聞こえない?」


「うん。音としては鳴らないと思う」


「それだと、吹く意味があるんですか」


「知らない」


小夜は肩をすくめた。


「でも、聞こえる相手には聞こえるんじゃない」


「聞こえる相手」


「川とか」


小夜は少し間を置いた。


「呼んでるものとか」


六郎は何も言えなくなった。


店の中が静かだった。


古い笛は、カウンターの上に置かれている。


触れていないのに、そこだけ湿って見える。


百合が、静かに言った。


「六郎」


「はい」


「持って帰りなさい」


六郎は、思わず百合を見た。


「僕がですか」


「ええ」


「置いていったら」


「戻るでしょうね」


小夜が即答した。


百合は否定しなかった。


六郎は笛を見下ろす。


持って帰りたくない。


心底そう思った。


けれど、持って帰らなくても、帰ってくる。


そのことだけは、もうわかっていた。


六郎は、布を手に取った。


笛を包む。


結び目を作る時、指先が少し冷えた。


小夜がそれを見て、ぽつりと言った。


「吹く時は、気をつけなよ」


「気をつければ、どうにかなるものですか」


「ならないかも」


「怖いことを言いますね」


「怖いものは怖いって言うタイプなんで」


小夜は少しだけ笑った。


その笑い方は、いつもの小夜に近かった。


けれど、目だけは笑っていなかった。


「でも、もし吹くなら」


「はい」


「音を出そうとしない方がいい」


「笛なのに?」


「笛だから、だよ」


小夜は言った。


「音を出そうとすると、持っていかれる。あんたは、息だけでいい。音になる前で止めな」


六郎は、その言葉を覚えておこうと思った。


音になる前で止める。


そんなことができるのかどうかは、わからなかった。


ただ、それが今、自分に渡された唯一の手がかりなのだと思った。



店を出る頃には、空が少し暗くなっていた。


春の夕方である。


冷え込みは弱い。


けれど、川の方から来る風だけは、どこか湿っていた。


六郎の鞄は重かった。


笛を入れた分だけではない。


もっと別の重さである。


百合は隣を歩いている。


「気になる?」


「はい」


「怖い?」


六郎は、少し考えた。


「怖いです」


「そう」


百合はそれだけ言った。


「でも、持って帰るのね」


「置いていっても、戻るんですよね」


「たぶんね」


「それなら、最初から持っていた方がいい気がします」


百合は、わずかに目を伏せた。


「そう」


しばらく、二人は黙って歩いた。


通りには、人の声がある。


夕飯の支度の匂いがする。


どこかの家から、テレビの音が漏れている。


普通の夕方だった。


その普通の夕方の底に、木曽川の水音が流れている。


六郎には、そう聞こえた。


その時、鞄の中で、何かが鳴った。


かたり。


小さな音だった。


六郎は立ち止まった。


百合も止まる。


鞄を下ろす。


口金を開ける。


中には、財布と手帳と、仕入れの控えと、畳んだエプロンが入っている。


その奥に、布包みがあった。


六郎はそれを取り出す。


ほどく。


古い笛があった。


濡れてはいない。


けれど、さっきよりも、少しだけ温かかった。


百合はそれを見ていた。


何も言わない。


どこかで、鶯が鳴く。


ほう。


ほう。


今度は、ほけきょ、とは続かなかった。


六郎の手の中で、笛がかすかに震えた。


その震えの奥から、声がした。


ろくろう。


呼ばれている。


今度は、はっきりと。


木曽川の方から、六郎の名を呼ぶ声がした。


小夜の言葉が、耳の奥に残っていた。


音を出そうとしない方がいい。


音になる前で止めな。


六郎は、笛を握ったまま、息を止めた。


返事はしなかった。


ただ、手の中の笛だけが、もう一度、かすかに震えた。


それは音ではなかった。


けれど、六郎には聞こえた。


そしてたぶん。


川にも、聞こえていた。

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