黄鶯睍睆 一【浅き春】
黄鶯睍睆
春というものは、いつも、気がついた時には来ている。
昨日までは冬であった。
そう思っていたはずなのに、朝になって戸を開けると、風の中に、もう冬ではないものが混じっている。
湿り気である。
土の匂いである。
水の匂いである。
それから、花の咲く前の、あの薄甘い匂いである。
犬山の町にも、その日、春が来ていた。
城下へ続く古い道の脇には、まだ硬い蕾をつけた木があり、軒先の鉢には、名も知らぬ草が小さく芽を出している。
木曽川の方から吹いてくる風も、冬のあいだのように、骨の奥を撫でる冷たさではなかった。
やわらかい。
やわらかいのに、どこか底が冷えている。
そういう風だった。
藤原六郎は、家の裏口から喫茶店へ入った。
まだ開店前である。
店の中は薄暗かった。
カウンターの奥には、白いカップが伏せて並べられている。
やかんから細く湯気が上がっていた。
コーヒー豆の匂いが、朝の空気に少しずつ染みている。
かつて父が立っていた場所には、今は誰も立っていない。
道具はある。
棚もある。
カウンターもある。
椅子も足りている。
けれど、その場所だけは、いつも少し空いている。
父が亡くなってから、そこに立つ者はいなくなった。
いないことに慣れても、空いていることには慣れない。
そういう場所である。
六郎は棚の下から伝票の束を取り出した。
昨日届いた牛乳の数を確かめる。
卵の残りを見る。
紙ナプキンの箱を開け、残りが少なくなっていることを手帳に書く。
あとで母に言っておいた方がいい。
六郎は手帳の隅に、小さく書きつけた。
いつもの朝である。
いつもの手順で、いつものものを確かめている。
けれど、その日はどうにも、耳の奥が落ち着かなかった。
何かが聞こえそうで、聞こえない。
聞きたいわけではない。
むしろ、聞こえないままでいてほしい。
そう思っているのに、耳の奥だけが、じっと待っている。
そんな感じがあった。
奥から、母が出てきた。
「六郎、砂糖の在庫も見ておいてくれる?」
「見とくよ」
六郎は棚の下を覗いた。
「まだ少しあるけど、今日のうちに出しておいた方がいいかも」
「そう。ありがとう」
母はカウンターに布巾を広げる。
「あとで籠目屋に行くの?」
「行ってくる。昼までには戻ると思う」
「わかった。あまり無理しないでね」
「大丈夫」
六郎は短く答えた。
それ以上、母は聞かなかった。
六郎が宇喜田百合と関わるようになってから、母は余計なことを聞かなくなった。
心配していないわけではない。
むしろ、以前より心配しているのだと思う。
ただ、聞いても答えに困ることがあると、わかっているのだろう。
六郎も、詳しく話すことはしなかった。
話せないことが増えた。
見てしまったものが増えた。
聞いてしまったものが増えた。
それを日常の言葉に戻すのは、思ったより難しい。
棚の奥に手を伸ばした時だった。
遠くで、鳥が鳴いた。
ほう。
短い声だった。
六郎は手を止める。
もう一度、鳴く。
ほう、ほけきょ。
鶯である。
春の声である。
この時期なら、不思議でも何でもない。
店の外で鳴いたのか、もっと遠く、川の方で鳴いたのかはわからなかった。
母は気づいた様子もない。
やかんの湯気が、細く上がっている。
六郎は、しばらく動けなかった。
鶯の声の奥に、別のものが混じっていたような気がしたからである。
音ではない。
音になる前のもの。
息である。
誰かが、遠くで笛に息を吹き込む。
まだ音にはならない。
ただ、唇と竹の間を、細く空気が通る。
ふう、と。
ほう、と。
その吐息が、耳の内側に触れたような気がした。
「六郎?」
母が言う。
「どうかした?」
「いや」
六郎は棚から砂糖の袋を取り出した。
「鶯が鳴いてた」
「春ね」
母はそう言って、少し笑った。
それだけだった。
春だから鶯が鳴く。
ただ、それだけのことだった。
六郎もそう思おうとした。
そう思おうとしたまま、仕入れの控えを鞄へ入れた。
財布と手帳も入れる。
畳んだエプロンも入っていた。
家に置いてくるつもりだったが、入れたままになっていたらしい。
六郎はそれを見て、少しだけ迷ったが、そのまま鞄を閉じた。
表の暖簾は、まだ出ていない。
店先の鉢植えに水をやる。
土が水を吸う音がした。
その音が、妙に耳に残った。
⸻
籠目屋商店は、犬山の路地裏にある。
古本と酒がある店である。
古い本は、棚の奥まで詰められている。
酒瓶は、古本の隙間や、壁際の暗い棚に並んでいる。
売り物なのか、ただ置かれているだけなのか、六郎にはいまだによくわからない瓶もある。
表通りから少し入っただけなのに、そこへ向かう道は、いつも薄暗い。
陽が当たらないわけではない。
むしろ春の朝の光は、路地の壁を白く照らしている。
それなのに、籠目屋の戸の前だけは、影が一枚多い。
そう見える。
六郎は引き戸に手をかけた。
古い木の感触が、指に触れる。
「おはようございます」
戸を開けながら言った。
返事はなかった。
店の奥で、紙をめくる音だけがした。
古本の匂い。
古い酒の匂い。
木の棚に染み込んだ埃の匂い。
そこに、ほんの少し、川の匂いが混じっているような気がした。
六郎は眉を寄せる。
「おはようございます」
もう一度言う。
「聞こえとる」
奥から、低い声が返った。
老人の声である。
帳場の方から聞こえた。
姿は見えない。
古い棚の向こうで、また紙をめくる音がする。
「百合さんは、奥ですか」
六郎が聞く。
「見ればわかる」
「……失礼します」
「失礼と思うなら来るな」
六郎は軽く頭を下げ、店の奥へ向かった。
奥の卓には、宇喜田百合が座っていた。
黒いカーディガンを羽織り、湯呑みに口をつけている。
髪はいつものように黒く、顔色は薄い。
春の光が障子越しに入っているのに、百合の周りだけは、どこか夜が残っているようだった。
「来たのね」
「はい」
「顔色が悪いわ」
「少し、眠りが浅かっただけです」
「そう」
百合は湯呑みを置いた。
「夢を見たの?」
六郎は、返事に詰まった。
見た。
そう言い切れるほど、形はなかった。
ただ、川の音だけが残っている。
夜の木曽川だった。
水面は黒く、空も黒い。
どちらが空で、どちらが水なのか、よくわからない。
その中を、何かが流れていた。
笛の音のようでもあり、鳥の声のようでもあり、人の息のようでもあった。
夢の中の六郎は、それを聞いていた。
聞かないようにしているのに、聞いていた。
「川の夢だった気がします」
六郎は言った。
「気がする?」
「はっきりとは、覚えていません。ただ、音だけが」
「音」
「いえ」
六郎は少し考えた。
「音になる前の、息みたいなものです」
百合は、すぐには答えなかった。
ただ、六郎の鞄を見た。
「鞄」
「はい?」
「開けてみなさい」
六郎は首を傾げた。
「鞄を、ですか」
「ええ」
「何か、あるんですか」
「開ければわかるわ」
嫌な言い方だった。
六郎は、肩から下げていた鞄を卓の上に置いた。
口金を外す。
中には、財布と手帳と、喫茶店の仕入れを書いた小さな控えが入っている。
畳んだエプロンもあった。
その奥に、細長いものがあった。
六郎の手が止まる。
見覚えのないものではなかった。
むしろ、見覚えがある。
笛である。
古い笛だった。
竹なのか、木なのか、それさえよくわからない。
色は、乾いた土のようでもあり、長く水に沈んでいた枝のようでもある。
表面には、細かい傷がいくつもある。
人が長く使ったもののようにも見える。
しかし、よく見ると、その傷のいくつかは、人の指でついたものではないようにも思えた。
川底の石に擦られた傷。
流木に当たった跡。
水の中で、長い時間、何かに触れ続けたものの肌。
そういう古さである。
六郎は、それを見たまま、しばらく動けなかった。
「……百合さん」
「ええ」
「これ」
「戻ってきたのね」
「戻ってきた、ということは」
六郎は、笛を見下ろしたまま言った。
「やはり、あの時のものですか」
「そうでしょうね」
「前に、川へ返しましたよね」
「返したわ」
「百合さんが」
「あなたも見ていたでしょう」
「見ていました」
「なら、そういうことね」
「すみません。どういうことなのか、僕にはわかりません」
百合は答えなかった。
六郎は笛を指先でつまんだ。
冷たかった。
濡れてはいない。
けれど、触れると指の腹に水の匂いがついた。
木曽川の匂いである。
石と泥と、遠くの草が混じったような匂い。
それから、何かが長く沈んでいた匂い。
六郎は笛を卓の上に置いた。
置いた瞬間、卓の木目がほんの少し黒くなったように見えた。
水が染みたわけではない。
けれど、そこだけ古い川底のように見えた。
六郎は手を引っ込める。
「持って帰った覚えはありません」
「でしょうね」
「では、誰が入れたんでしょうか」
「誰、という言い方が合うかどうか」
六郎は黙った。
百合は笛を見ていた。
目を細めている。
その顔には、驚きはなかった。
ただ、少しだけ、面倒なものが戻ってきた、という色がある。
百合が、帳場の方へ目を向けた。
「見ていただきたいものがあるの」
奥で、本をめくる音が止まった。
「見とうない」
まだ笛を見せてもいないのに、低い声が返った。
「まだ見せていないわ」
「見せられる前から、見とうないものもある」
老人は、のそりと姿を見せた。
痩せた老人である。
背は高くない。
けれど、狭い店の奥から出てくると、周囲の古本や酒瓶が少しだけ身を縮めたように見える。
年寄りではある。
ただし、ただ枯れているわけではない。
古い紙の束の奥に、まだ火種が残っているような目をしている。
その目が、笛を見た。
いや。
見た、というより、見てしまった。
そんな顔だった。
老人の皺が、ほんの少し深くなる。
「持ってくるな」
「ここはお店でしょう」
「店じゃから言うておる。古本が湿る」
「濡れてはいないわ」
「川のものは、乾いておっても湿る」
老人は近づこうとしなかった。
百合が笛を差し出すと、老人は一歩下がった。
その足の引き方は、嫌悪というより、用心に近かった。
「触らないの」
「触らん」
「昔のものかしら」
「知らん」
「誰かの持ち物だったと思う?」
「知らん」
「ずいぶん知らないのね」
「知っておっても、知らん」
老人は吐き捨てるように言った。
それから六郎を見た。
「おまえの鞄に入っておったんじゃろう」
「はい」
「なら、おまえのものじゃ」
六郎は困って、笛を見た。
「僕のものではないと思います」
「思うかどうかで決まるなら、世の中の厄介は半分で済む」
老人はそう言った。
「ここに置くな。酒がまずくなる」
「申し訳ありません」
「謝って済むなら、川に坊主はいらん」
六郎は口を閉じた。
老人は卓の上の笛を見ないようにしながら、しかし確かに見ていた。
六郎にはそう見えた。
老人の目は、笛そのものではなく、笛の周りにある見えない水を眺めているようだった。
百合が静かに言う。
「これが、何をしに戻ったのか、見当はつく?」
「見当などつかん」
「そう」
「ついても言わん」
「そうでしょうね」
「わかっておるなら聞くな」
老人は顔をしかめた。
その顔に、ほんの一瞬、疲れが出た。
長く生きた者の疲れではない。
長く見てきた者の疲れである。
「川のものはな」
老人が言った。
「戻したから戻る、というものではない。返したから帰る、というものでもない」
「どういう意味でしょうか」
六郎が聞く。
老人は六郎を見た。
その目は、いつものように面倒そうだった。
けれど、その奥に、少しだけ憐れむような色があった。
「川は道じゃ」
「道、ですか」
「流れておるものは、みな道になる。水も、音も、名も、息もな」
「息も」
「聞くな」
「すみません」
「謝るな」
老人はそれだけ言うと、帳場へ戻ろうとした。
百合が呼び止める。
名前は呼ばない。
ただ、声だけを奥へ投げる。
「この笛、誰かが吹いていたものだと思う?」
老人は背中を向けたまま、少し黙った。
紙の匂いが濃くなる。
外で車が一台、路地の向こうを通った。
その音が妙に遠い。
「人が吹いていたものなら」
老人は言った。
「まだましじゃ」
それだけ言って、奥へ戻っていった。
紙をめくる音が、また始まる。
六郎は笛を見下ろした。
「何か、ご存じなんですね」
「知っているでしょうね」
「聞かないんですか」
「言いたくない人から、無理に聞いても、だいたい碌なことにならないわ」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
百合は、笛を手に取った。
笛は百合の指の上で、少しだけ静かになったように見えた。
六郎が持った時より、冷たさが薄れている。
「百合さんが持っていてくださるわけには、いきませんか」
「なぜ」
「僕の鞄に勝手に入っていたので」
「だから、あなたのところへ来たのでしょう」
「来られても、困ります」
「困るかどうかは、来るものには関係ないわ」
百合は笛を卓へ戻した。
その音は軽かった。
けれど六郎には、川面に小石が落ちた音に聞こえた。
ぽちゃん、と。
そう聞こえた気がした。
その時である。
外で、鳥が鳴いた。
ほう。
六郎は顔を上げた。
続いて、もう一度。
ほう、ほけきょ。
鶯である。
春の声だった。
店の外で鳴いたのか、もっと遠くで鳴いたのか、わからない。
犬山の町のどこかで、春を告げる鳥が鳴いている。
それだけのことだった。
それだけのはずだった。
しかし、六郎の耳には、違って聞こえた。
ほう。
ほう。
その奥に、息が混じっている。
笛を吹く前の、息である。
唇をあて、まだ音になる前の、細い吐息。
六郎は、知らず耳を押さえた。
百合が見ている。
「聞こえたのね」
「鶯ですよね」
「ええ」
「でも」
「でも?」
六郎は言葉を探した。
鶯が鳴いた。
それだけだ。
なのに、背筋の奥が冷えている。
あの夜の木曽川を思い出していた。
闇の中を流れる水。
水の上を渡ってくる、音になる前の息。
呼ばれているような、呼ばれていないような、あの吐息。
「吐息みたいでした」
六郎が言うと、百合はゆっくり目を伏せた。
「そう」
「百合さんには」
「鶯に聞こえたわ」
「では、僕だけですか」
「今はね」
今は。
六郎は、その言葉が引っかかった。
今は、ということは、いずれ変わるということか。
誰に。
何が。
聞こえるようになるのか。
百合は笛を見ている。
その顔が、ほんの少しだけ険しくなっていた。
「前にも」
六郎は言った。
「木曽川で、聞きました」
「ええ」
「あの時の、あれですか」
「同じものかどうかは、まだわからないわ」
「でも、関係はある」
「あるでしょうね」
百合は湯呑みに口をつけた。
六郎は、もう一度笛を見た。
笛は何もしていない。
鳴ってもいない。
動いてもいない。
けれど、そこにあるだけで、店の中の空気が少しずつ湿っていくような気がする。
古本の匂い。
酒の匂い。
埃の匂い。
その奥に、川の匂い。
⸻
昼前になって、ひとりの男が籠目屋へ来た。
五十を過ぎたくらいの男である。
日に焼けた顔をしており、手の甲には細かい傷がある。
爪の間には土が残っていた。
川の近くで仕事をしている人間の手だった。
男は、店へ入るなり、古本にも酒にも目を向けなかった。
棚に並んだ本の背も、瓶の古いラベルも見ない。
ただ、奥に座る百合を探している。
「宇喜田さんは」
「私です」
百合が答える。
男は六郎を一度見た。
それから、帽子を取った。
「加納正明と申します」
男はそう言って、帽子を胸の前で握った。
「木曽川の堤防沿いで、草刈りや護岸の見回りをしています」
百合は黙って男を見ていた。
急かすでもない。
拒むでもない。
ただ、続きを待っている。
加納は一度、唇を湿らせた。
「榊慎吾から、こちらを教えてもらいました。学生の頃の同級生です。今は探偵をしています」
百合は、わずかに目を伏せた。
「榊さんが」
その名前に、六郎は聞き覚えがなかった。
けれど、百合の短い返事で、以前ここに関わった人なのだとわかった。
「はい。最初は榊に相談したんです。そうしたら、普通のところへ持っていく話じゃないと言われました」
加納は帽子を握る手に力を込めた。
「犬山の籠目屋へ行け、と。そこなら、話を聞いてくれるはずだと」
百合は少しだけ間を置いた。
「そう」
それから、静かに言った。
「話して」
加納は頷いた。
「木曽川で、人が亡くなりました」
六郎は、思わず息を止めた。
百合は驚かなかった。
「いつ」
「今朝です。犬山橋より、少し下ったあたりで」
加納は声を落とした。
「散歩をしていた年寄りが、川へ入ったそうです」
「事故ではなく?」
「最初は事故だと思われました。足を滑らせたんだろうと」
「違うのね」
加納は頷いた。
「見ていた人がいます。堤防の上から」
六郎は、笛を見た。
卓の上に置かれた笛は、何も変わっていない。
ただ、そこにある。
それだけなのに、妙に存在感があった。
「その人が言うんです」
加納は続けた。
「亡くなった方は、川に落ちたんじゃない。自分で下りていったんだと」
「呼ばれるように?」
百合が言った。
加納は、ぎょっとした顔をした。
「はい」
店の中が、少し静かになった。
外では車の音がしている。
遠くで誰かの笑い声もした。
春の昼である。
それなのに、その瞬間だけ、店の中に木曽川の水が入り込んだようだった。
「亡くなったのは、近所に住む方です。毎朝、同じ時間に堤防を歩いていました。犬を連れていることもありましたが、今朝はひとりだったそうです」
「その方は、どんな様子だったの」
「普通だったと。堤防の上を歩いていて、途中で足を止めた」
「何かを見た?」
「見たというより」
加納は言葉を探した。
「聞いたんだと思います」
百合は黙っている。
加納は続けた。
「見ていた人が言うには、その方は、急に空を見上げたそうです。それから、川の方を見た。誰かに声をかけられたみたいに」
「その時、何か聞こえたのね」
「はい」
加納は唇を湿らせた。
「鶯が、鳴いていたそうです」
六郎の耳の奥で、何かが動いた。
ほう。
遠くで鳴いたわけではない。
耳の内側。
もっと奥。
頭の骨の内側で、小さく響いた。
ほう。
「鶯は珍しくないでしょう」
百合が言う。
「春だもの」
「ええ。最初は誰も気にしなかったそうです。ただ」
加納は顔をしかめた。
「その場所、川べりに木は少ないんです。鳴くなら、もう少し上の雑木の方だろうと」
「声は、川から?」
「そう聞こえたそうです」
「水の上から」
「はい」
六郎は、思わず笛を見た。
笛は動かない。
けれど、見ていると、笛の穴の奥が暗くなっていくような気がした。
穴の向こうに、水がある。
そんな気がした。
「その方は」
百合が静かに言った。
「最後に、何か返事をした?」
加納の顔から、血の気が引いた。
「どうして」
「したのね」
加納は、小さく頷いた。
「はい」
「何と」
加納は、しばらく黙っていた。
店の奥で、紙をめくる音が止まっている。
老人が聞いているのだと、六郎は思った。
見えない。
けれど、聞いている。
加納はかすれた声で言った。
「今、行くと……」
その瞬間、卓の上の笛が、かたりと鳴った。
誰も触れていない。
風もない。
けれど、笛はたしかに、卓の上で小さく動いた。
六郎の喉が、ひゅっと鳴った。
百合は笛を見下ろしている。
加納は何も知らず、ただ青い顔で立っている。
春の光が、障子の向こうで揺れていた。
外で、鶯が鳴く。
ほう、ほけきょ。
今度は、誰の耳にも、そう聞こえた。
加納も、びくりと肩を震わせた。
「今の」
六郎が言う。
加納は目を見開いた。
「聞こえましたか」
「鶯でしょう」
百合が言った。
「ええ」
加納は頷く。
「鶯です。鶯のはずです」
その言い方は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
六郎には、その声の後ろから、別の声が重なって聞こえていた。
おうい。
おうい。
こっちへ。
鶯の声ではない。
人の声でもない。
水の音でもない。
それらが、少しずつ重なり、ずれて、ひとつの呼び声になっている。
六郎は、知らず知らずのうちに息を止めていた。
百合が、こちらを見る。
「六郎」
名を呼ばれて、六郎ははっとした。
「返事をしてはだめ」
「していません」
「しそうな顔をしていたわ」
六郎は、何も言えなかった。
たしかに。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、返事をしそうになった。
誰に。
何に。
そんなことはわからない。
ただ、呼ばれた気がした。
そして、呼ばれたなら返さなければならないような気がした。
百合は笛を手に取った。
笛は鳴らなかった。
ただ、百合の手の中で、川から拾い上げた石のように静かだった。
「木曽川へ行きましょう」
百合が言った。
加納はほっとしたように息を吐いた。
六郎は、返事をしようとして、口を閉じた。
外で、また鶯が鳴いたからである。
ほう。
ほう。
今度は、ほけきょ、とは続かなかった。
ほう。
おう。
おうい。
六郎は耳を押さえた。
百合は何も言わない。
帳場の奥に、老人がいる。
見えないが、そこにいる。
その奥から、低い声がした。
「名を呼ばれても、返すな」
六郎は顔を向けた。
老人の姿は見えなかった。
声だけが、古本の棚の向こうから届いた。
「水の上の声に返事をすれば、足が先に行く。心はあとからついてくる。そうなれば、戻るのは難しい」
百合が、帳場の方へ目を向けた。
「知っているのね」
「知らん」
老人は、すぐに答えた。
「わしは何も知らん。知らんが、そういうものは昔からある」
「昔から?」
六郎が聞く。
紙をめくる音がした。
それが返事の代わりだった。
百合は小さく息を吐く。
「行きましょう」
六郎は鞄を持ち上げた。
その時、卓の上の笛が目に入った。
置いていきたい。
心底そう思った。
だが、置いていったところで、どうせ戻ってくる。
そういう確信があった。
六郎は迷った末に、笛を手に取った。
冷たい。
けれど先ほどより、冷たくない。
そう感じた自分が、ひどく嫌だった。
笛を布に包み、鞄の奥へ入れる。
口金を閉じる。
それでも、鞄の中から、水の匂いがした。
百合が立ち上がる。
加納が道を譲る。
六郎は戸口へ向かった。
外は春である。
光はやわらかく、風はぬるい。
路地の向こうで、誰かが笑っている。
犬が吠える。
自転車のベルが鳴る。
普通の町だった。
けれど、その普通の音の下を、別の音が流れている。
木曽川の水音である。
まだ遠い。
まだ見えない。
しかし、確かに近づいてくる。
六郎は、鞄の紐を握り直した。
中の笛が、かすかに揺れた気がした。
外で、鶯が鳴く。
ほう、ほけきょ。
今度は、春の声に聞こえた。
ただし、六郎だけには、その最後の一音が、人の声のようにも聞こえた。
こっちへ。
木曽川が、呼んでいた。




