ただひとりを[never]
拍手掲載済再録
[never]
城内で見かけるには珍しい人影に、若き宰相はおや、と瞬いた。
神聖ニルヴァニア王国、王城内。宰相たるアークウルドは、王の裁可をいただくべく書類を携えて歩いていた。方向が同じ、ということは、彼も王に用があるのか、それとも王の執務室近くの王太子に用か。
なんとなしに、声をかけた。
「ヒューゼリオ、さん」
声をかけてから、しまった、と思う。
「お久しぶりですね、今日はどうしたんです」
声をかけられたヒューゼリオは、冷えた青の目でアークウルドを一瞥しただけで、何も答えなかった。歩を緩めることもなく、二人は一定の速度と距離を保ったまま、廊下をまるで連れ立つかのように歩いていく。気まずい雰囲気に包まれ、まいったな、とアークウルドは困った顔をした。
宰相であるアークウルドと、一外交官の一人でしかないヒューゼリオ。どちらの地位が上かは明白で、年齢さえもアークウルドの方が七つほども上だ。
だというのに、アークウルドはヒューゼリオを前にすると萎縮してしまう。それは、王はもちろん王子や王女、他の官にも知られてはならぬことであって、そうとわかってこれまで隠し仰せてきた。それでも、ヒューゼリオを前にするとアークウルドの足はすくみ、顔は強ばる。
通りすがりに見かけた程度ではそういったことにはならないが、その視線を受けるとどうも良くないようだった。
おそらくは、器の違いを目の当たりにするからだろう。アークウルドとて、無能でいるつもりはない。それどころか、若くして宰相まで上り詰めた傑物とさえいわれている評判の官だ。王の信頼も厚く、王太子であるリンクィンが即位した暁にも、宰相として国を支えるようすでに頼まれている。
それでも。
アークウルドは、ヒューゼリオを前にすると、どうしても考えてしまう。ヒューゼリオこそ宰相の座に相応しいのではないか、と。
「……手続きに」
靴音が響く中、ぽつり、とヒューゼリオが呟いた。
アークウルドは瞬いて、あぁ、とうなずく。仕事での外交術はどこへやら、このお方、ひどく言葉数が少ないのだ。わかりにくいことこの上ない。言葉を特別惜しんでいるわけではないらしいが、言葉を選ぶことにひどく慎重になっているように感じる。それは、噂に聞いた彼の幼少期を考えれば納得した。伸び盛り、育ち盛りの感受性豊かな少年期最も重要な時間、五年もの月日を、学友も作ることなく妹と二人で屋敷に閉じこもっていたというのだから。
よって、人と関わることは、そもそも得意ではないのだろう。
しかしそれがどうして外交術をああも過不足無く最大限の効果を持って操れるのか、全く不思議なところではあったが。仕事の上での対人関係は、個人と関わりないことだと割り切っているのだろうか。
ひとまず、対した際に言葉数が少ないということは、仕事相手ではなく個人として認められているということにもなりうる為、悪い気はしない。恐らく。
身内である公爵家の人間相手でもまた様子が異なるらしいから、難儀な方であった。
「手続き、というのは、例の兄妹ですか。学院へ? それとも」
「……それぞれ、騎士になる、だの。侍女になる、だの」
心底途方にくれたため息に、珍しいことだ、とアークウルドは瞬いた。しかし、ヒューゼリオが続ける言葉に、さらに驚くこととなる。
「…………ヴェニエールの城に勤めるには、どうしたらいいか、などと」
思わぬ言葉に、アークウルドは目を見開いた。「それ」はたしかに、いくらヒューゼリオといえども参るだろう。それぞれ齢十になるかならないかの年頃だ。理屈を持って言い聞かせたところで、納得するはずがない。
しかも、以前遠目に姿を見る機会があったが、さすがにヒューゼリオに子どもがあそこまで懐く光景は思っても見なかった。帝国の皇妃でさえ、目をみはって破顔するほどだ。なおさら、ヒューゼリオは一心に慕ってくる子どもたちに、どう言葉をかけて良いか分からないのだろう。
その兄妹が、揃って側を離れたいなどと言い出すのは、やはり。
近しいものであれば暗黙の了解であり、上流社会であればまことしやかに囁かれる真実となっている、その事実。
(父君がかつて唯一と定めたはずの相手を、近くで見てみたいのでしょうねぇ)
かつてあの頃、この、不器用な優しさを持つ男が。
こんな風に子どもに慕われる光景など、想像できもしなかったが。