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29. 初対面のご挨拶を

 笑い終えた殿方は、広間へ向かって、よく通る声で言う。


「皆様、お騒がせした。余興である。……古い芝居の、千秋楽でな」


 ざわめきが、戸惑いながら緩んでいく。殿方は改めて私に向き直り、今度はまったく違う声で言った。低くて静かで、七年ぶんくたびれた声である。


「……礼を言う。聞きたかった答えを、聞かせてもらった」


「……あの口上には、続きがございましたでしょう?」


「いや。もう、要らん」


 殿方は、首を振る。


「一年前、俺は、あの言葉の続きを間違えた。二度と直せん形でな。それからずっと、考えていた。同じ舞台を組んで、同じ言葉を言って――違う答えを、この耳で聞くまで、俺の七年が終わらんのだ」


 声には、もう、あの同意を求める語尾がどこにもない。


「おまえの中の俺は、あの夜に終わった。だが俺の中の七年は、生きたまま、置き場所がない。……だから、引導(いんどう)を渡してもらいに来た。俺を忘れたおまえに、俺の記憶ごと、な。……こんな仕事は、おまえにしか頼めん」


 弔い、である。


 この再現は、意趣返しの一手ではなく、あの方なりの、七年の葬送だったのだ。同じ光、同じ曲、同じ立ち位置。祭壇をひとつずつ組み上げて、最後に要ったのは、私の「知らない」という鐘の音だけだったのである。


 ――それにしても、勝手な頼みである。


 私に無断で祭壇を組み、満座を巻き込み、締めの鐘つき役までこちらへ回す。人の都合を訊かない段取りの癖は、七年前から少しも直っていない。直っていないけれど、今夜のこれには、七年前と違うところが一つだけある。受けるかどうかを、私が選べることである。


 私は、ひと呼吸ぶん吟味して――受けることにした。今夜かぎり、私の意思で、である。あの娘の七年にこれで本当の仕舞いがつくのなら、鐘の一打ちくらい、安いものだ。それに、返せないものを返せと言わない形をあちらが選んだことだけは、認めて差し上げてもいい。「初対面」は、この方が生まれて初めて、鏡ではない他人へ差し出した距離なのだから。


 殿方は、一歩下がった。それから、見事な礼をする。社交の礼ではない。剣を納めるときの、あの礼である。


「ええ。――初対面です。ザイフェルト家のローレンツと申します」


 お名前は、例によって、最初のひと粒で砂になった。それでいい。初対面のご挨拶とは、そういうものである。


「あなたの婚約に――初対面の他人から、ただの祝いを」


 私は、生涯で二番目に丁寧な礼を、お返しした。


「初めまして。カロリーネ・フェルゼンですわ。……お祝い、確かに頂戴いたしました」


 言いながら、胸の内で小さく、日記の中のあの娘に声をかける。――見ていてちょうだい。あなたの七年のお相手は、いま、ちゃんとご自分の足で、七年を仕舞いになさったわよ。


 顔を上げた殿方は、憑(つ)き物の落ちた顔で、人垣の向こうへ歩き去っていく。その背中を、上座の近くから、老いた帳簿付けの目が追っている。侯爵は息子とすれ違いざま、何も言わず、ただ一度、その肩に手を置いた。


       ◇


 夜半、公示の口上が読み上げられる。


 ヴィンターベルク公爵と、フェルゼン伯爵家息女の婚約、式は来春――広間が祝いの声で満ちて、乾杯の杯が上がった。今夜の父は立食の心強さで匙の心配がなく、そのかわり、乾杯のたびに目頭を押さえている。母は素知らぬ顔で、その背中を扇の骨でとんと支えている。妹は興奮のあまり、「すごい」の語彙をとうとう使い果たしている。


 人波の隙間で、桃色のドレスの令嬢と目が合った。


 あの夜会のバルコニーの、子爵令嬢である。隣には楽譜を抱えた若い楽師が立ち、令嬢の指には真新しい指輪が光っている。令嬢は私に、花のほころぶような会釈をひとつくださった。楽譜台の隣は息がしやすい、と伺ったことがある。……何よりのことである。あの夜の「腕の飾り」は、もうどこにもいない。いるのは、ご自分の席を選んだ方だけである。


 祝いの人垣の真ん中では、どなたかが公爵に伺っている。


「公爵様は、その、フェルゼン嬢とは、以前からのお知り合いでいらっしゃいますの?」


「連れではない」


 即答である。ああ、また始まった、と思う間もなく、あの方は今夜も断定で続けた。


「口論の相手だ。――生涯の、な」


 祝いの笑いが、どっと沸く。私は扇の内側で、こっそり笑った。一年前、破棄の口上が響いたのと同じ大広間に、今夜は同じ声量で、まるで違う言葉が響いている。広間の使い方は、こうでなくては。


       ◇


 帰りの馬車で、隣の無愛想がぽつりと言った。


「……来週から、演目が変わる」


「存じておりますわ。演目替わりですもの」


「桟敷は、俺の隣だ。……いや、違うな」


 一拍。


「俺の隣に、来てくれ。後ろの席で聴く」


「あら。ずいぶん正式なお誘いですのね」


「……善処した」


「では、お受けいたしますわ。……ときに公爵様、来週の演目の結末をご存じ?」


「知っている。……教えんがな」


 無愛想は、澄まし顔で窓の方を向いている。


「あら、意地悪。では来週の幕間は、大荒れですわね」


「望むところだ」


 窓の外を、王都の街灯が流れていく。一年前、ひとりで糸を解いたあの夜明けの私は、解いた糸の先がこんな夜に繋がっていようとは、知らない。知らないままで、いい。教えてやる必要もない。……あれはあれで、あの朝の私が、自分の手で選んだ夜明けなのだから。


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