↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/30

28. 一年目の同じ夜会

 秋の開幕を祝う夜会の朝は、雲ひとつない上天気である。


 一年前の朝も、私はこの鏡の前にいた。若草色を着て、作法をひとつずつ数えて、笑いを飲む練習の仕上がりを確かめて。今朝の鏡の中には、藍色と、練習のいらない顔がある。ミンナが最後の一結びを終えて、鏡越しに一礼した。


「お嬢様。本日の空白のご報告は――ございません」


「あら。お仕事納めかしら?」


「良い納めでございます」


 空白の帳簿が、今日でめでたく店じまいである。ミンナの一礼がいつもより深いのは、たぶん、そういうことである。


       ◇


 歌劇場の大階段の下に、その方は立っていた。


 馬車も供も使わない方が、王都じゅうの見栄の集まる大階段の下に、正装で、である。行き交う招待客が、みんな二度見をしていく。私が馬車を降り立つと、無愛想は一歩進んで、手を差し出してくる。


「迎えに来た。――口論の相手を」


「まあ。歩いていらしたの?」


「今夜は、格別でな」


 差し出された手に、指を載せる。手袋越しに、掌の体温がじんわり届く。一年前ひとりで上ったこの階段を、今年は二人で上るのである。シャンデリアの光が大理石の上で砕けて、まぶしい。まぶしさに目を細めるふりで、私は隣の横顔を、こっそり一枚、胸に写しておく。


 開幕の演目は良い出来で、幕間の柱の下は――今夜ばかりは、人の流れの死角ではなかった。


 お祝いのご挨拶が、入れ替わり立ち替わり来るのである。果実水の杯を持ったまま、二人とも礼の応酬に追われて、口論どころではない。人垣が一瞬切れた隙に、あの方が低くこぼす。


「……今夜は、口論にならんな」


「ええ。不本意ですわね」


「ああ。不本意だ」


 二人して大真面目に頷き合ったのが可笑しくて、私は扇の内で笑う。来週からは、また静かな柱の下へ戻れる。戻れる場所があるというのは、良いものである。


 夜会の本番は、大広間である。


 公示は夜半の口上で、と段取りが決まっているのに、王都の皆様はとっくにご存じの顔で、扇の裏の笑みが忙しい。大広間は一年前と同じ蜜色の光で満ちて、楽団が、次の曲の譜をめくっている。


 ――最初の和音で、分かった。


 あの円舞曲である。


 一年前、この曲の途中で私は壁際に立っていて、曲の終わりに、大広間の真ん中へ呼ばれたのだった。次に来るものを、今年の体は何も構えていない。構えなくていい体で、私はこの曲を聴いている。


 一年前のあの夜、あの口上の前に流れていた曲。あの夜のことなら、私は全部覚えている。抜けているのは、いつもどおり、おひとりぶんの意味だけである。……けれど今夜この曲が流れる理由だけは、見当がつかない。


 人垣が、割れる。


 見事な刺繍の勝負装束に、真珠の襟留め。見知らぬ殿方がひとり、まっすぐにこちらへ歩いてくる。一年前と同じ立ち位置。同じ角度。広間のざわめきが、すうっと引いていく。どこかで、どなたかの扇がぱたりと落ちた。


 状況の察しは、つく。この再現を組んで、この位置に立つ方は、王都にお一人しかいらっしゃらない。……察しがついても、結ばれはしないのである。目の前にいるのは、やはり、知らない殿方である。


「カロリーネ。おまえ、昨夜は俺に意見したそうだな」


 一年前と、同じ言葉である。


 広間が、凍った。


 どなたかが息を呑む音がする。人垣の際で、公爵が半歩、動く気配がして――止まった。止めたのは私ではない。あの方が、ご自分で止めたのである。この幕にどう応えるかは、私の選ぶこと――そう、譲ってくださったのだ。……ようございますわ。なら、選ばせていただく。


 私は、私の体の音を聞いていた。


 謝罪は――口をつかない。


 意見の前の一拍は――ない。


 首は――あの角度に、動かない。


 肩も――強ばらない。


 「婚約者」の錘さえ、外れたまま静かである。


 どの癖も、どの錘も、もう鳴らないのである。一年かけて一つずつ外してきた七年ぶんの留め金が、外れたまま静かにしている。その静けさを、私はいま、満座の真ん中で聴いている。体は軽く、頭は澄んで、目の前の殿方の口上だけが、秋の夜の真ん中に、ぽつんと浮いている。


 怒りは、ない。恐れも、ない。あるのは、初対面の方に往来でいきなり肩を叩かれたときの、あの、きょとんとした心持ちだけである。だから、出てくる言葉も、それだけだった。


 扇をゆっくり畳み、静かに、首を傾げる。


「――初対面の方にしては、ずいぶん馴れ馴れしいですわね」


 広間の時間が、止まる。


 人垣の際で、あの方が息をひとつ、ゆっくり吐いたのが分かった。あの方もまた、この答えを――私がこの答えを選べることを――待っていた側なのである。


 見知らぬ殿方は、その答えを、待っていたように受けた。目を閉じ、長く、長く息を吐く。何かを最後まで数え終えた人の、息である。


 そして、その方は笑った。


 勝ち誇りでも強がりでもない。肩から力の抜けた、見ているこちらの拍子まで抜けるほど静かな、初めて見る種類の笑いである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。