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30. 幕間の口論は続く

「今日の結末は、逃げですわ」


 私がそう申し上げたのは、王立歌劇場の秋、新しい演目の初日の幕間――果実水の売り場の脇、決まった柱の下でのことである。


 順を追って、お話しいたしましょう。……と申しましても、今年は、破棄も魔法も出てまいりませんけれど。


       ◇


 演目替わりの初日は、上等の秋晴れだった。


 今度の演目も、再演の多い当たり狂言である。結末なら、王都の芝居好きがみんな知っている類だ。つまり口論の支度は、幕が上がる前から万端なのである。


 公爵家の桟敷は、勝手が分かってみれば、実家の桟敷と壁一枚の隣だった。後ろの席がふたつ。天鵞絨の壁に音が湯のように溜まる、あの席である。開幕前のざわめきを、私は今夜、隣の気配と一緒に聴いている。一年前は、ひとりで埃を拭いた桟敷である。壁一枚向こうでは今夜、妹が母と並んで、扇を揺らしている。


 幕の上がる直前、隣のあの方が懐から例の帳面を出し、膝の上で何か一行、書き付けた。


「……何をお書きになりまして?」


「秘密だ」


「まあ。夫婦になるのですわよ、わたくしたち」


「夫婦にも、秘密はある。……むしろ、要る」


 仕舞われた帳面の厚みが、心なしか、春より増している。中身を知る権利は、まだ私のものではない。ないけれど――あの厚みのぶんだけ、私の一年が誰かの手で書き留められているのだと思うと、暗がりの中、頬のあたりが勝手にゆるむのである。


 三幕の山場で、場内がどっと沸いた。


 私も、遠慮なく笑う。隣の無愛想は笑わない。笑わないかわりに、山場の間じゅう、機嫌のいい重心で座っている。


 そして、幕間の鐘である。


       ◇


 柱の下の果実水は、今年も皮ごと搾りである。


 ほろ苦い一口で舌を湿らせて、私は口火を切った。この一年で覚えた、王都でいちばん贅沢な無駄話の時間である。


「今日の結末は、逃げですわ」


「ほう」


「主役ときたら、あれだけ引っかき回して、最後はぜんぶ時の流れ任せですのよ。作者の筆が、山場で怖じ気づいたんですわ」


「逃げではない」


 無愛想が、断定した。


「あれは、選び直しだ」


「……あら」


「主役は、初めの望みを捨てたのではない。並べ直して、別の一つを取った。捨てると選ぶは、外から見れば同じ形だがな。……幕の内側では、まるで別のことだ」


「では伺いますけれど、初めの望みは、どこへ参りましたの?」


「捨てていない。棚にある。……棚の物は、いつでも下ろせる」


 棚、である。この方の棚の使い方なら、私がいちばんよく知っている。七年、開けずに守り通した棚の持ち主は、こういう評を言うのだ。


 言い合ってから、二人とも、一拍黙った。


 ――どこかで聞いた応酬である。


 一年前のこの柱の下で、同じ演目評を、ちょうど裏返しに言い合った。逃げだと断じたのはあちらで、選び直しだと返したのは私である。口論の相手を七年と一年もやると、相手の得物まで使えるようになるらしい。


「……いま、わたくしの台詞をお使いになりまして?」


「君こそ、俺のを使ったな」


「先にお使いになったのは、どちらでしたかしら?」


「……さて、な」


 どちらも譲らないまま、鐘が鳴る。決着は、次の幕間へ持ち越しである。次の幕間は、来週もある。再来週もある。この決着のつかなさが一生ぶん続くのだと思うと、我ながら、ずいぶん豪勢な買い物をしたものである。


 桟敷へ戻る廊下で、ふと、壁一枚向こうの気配に目をやった。


 妹が、扇の陰から向かいの桟敷を盗み見ては、慌てて目を伏せている。向かいの桟敷では、若い方がひとり、同じ拍子で目を泳がせている。……おやおや。あちらの演目も、どうやら開幕らしい。姉として申し上げたいことは山ほどあるけれど、今夜のところは、知らない顔をしておく。恋の口火は、本人が切るものである。


       ◇


 王都の外れ、〈糸の家〉。夜更けの戸を、遠慮がちに叩く音がする。アウグステが灯りを提げて開けると、外套の頭巾を目深にかぶった訪ね人が、夜露の匂いと一緒に立っていた。顔は、見えない。事情も、まだ何も語らない。ただその両手が胸の前で、固く固く、何かを握り締めている。老婆は戸を大きく開け、いつもの通りに言った。「――まず、お茶をどうぞ」


       ◇


 幕間の終わりの鐘が鳴って、私たちは後ろの席へ戻った。


 場内の灯りが落ちて、ざわめきが、糸を巻き取るように細くなっていく。暗がりの中、隣の気配がひとつ息をついて、椅子に深く沈む。七年、顔を使わずに済む場所だったこの暗闇は、今では二人ぶんの、誰にも値踏みのできない席である。


 膝の上で、手袋の指を軽く組む。


 解いた糸を、結び直すことは誰にもできない。それは、あの夜明けから変わらない。けれど新しい糸を、好きな色で、好きな織り目で織っていくことなら――それはこれからの私の、毎日の仕事である。織り手はもう、間違いを怖がらない。間違えても、それごと選んだ柄にしてしまえばいいことも、覚えた。


 幕が、上がる。


 舞台の光が、暗がりの私たちの膝まで届く。物語は山場へ。王都でいちばん贅沢な無駄話は、次の幕間へ。私の新しい記憶は――明日へ。


 山場で、私は今夜も、声を立てて笑う。

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― 新着の感想 ―
自分色に染めさせた七年間は彼女にとっては思い出したい思い出ではないでしょうね。 合わさせるのではなく合わせ合う、または時には違いも認める。 ここを理解できない限りは同じことを繰り返すだけ。
忘れたい選択、覚えていたい瞬間。 彼女が紡ぎなおしてゆく、自分の「好き」が増えてゆく一つ一つを楽しく拝読しました。 雨上がりの香り、今の調香師さんたちは再現しようとしているのは公爵様のように「好ましい…
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