2. 若草色は、どなたのお好みでしたの
昼過ぎ、祖母が屋敷へ来た。
父と母を居間に座らせて、茶も待たずに、一言。
「解きました。結び直せません」
父は、伯爵家当主の威厳をもって、優雅に卒倒しかけた。
「か、母上……〈選び忘れ〉は、その、言い伝えの類では……」
「言い伝えなら、いまごろあの坊やは忘れられておりませんよ。ザイフェルトの旦那にも同じことを伝えてきました。あちらは話が早くて助かったね」
母は静かに茶器を並べている。母も、母方の血の人である。驚いた様子は、欠片もない。
「カロリーネ。あなたが選んだのなら、それでいいのよ」
「はい、お母様」
「ただ、まあ」
母は湯気の向こうで、ほんの少しだけ笑った。
「あの坊やの顔は、見たかったわねえ」
見ました、と申し上げたら、父がもう一度卒倒しかけて、妹のイーダが目を輝かせた。十七の妹にとって、姉の婚約破棄は悲劇ではなく、どうやら物語の類であるらしい。
「お姉様、それで、本当に何も覚えていないの?」
「破棄されたことは覚えているわ。お相手だけ、きれいに空白よ」
「すごい……」
妹よ、感心するところではなくてよ。
帰り際、祖母がひとつだけ、私の目を覗き込んだ。しわの奥の目は、糸の目利きをするときの目である。
「後悔は、あるかい?」
「まだ、見つかりませんの。……探した方が、よろしくて?」
「いいや」
祖母は私の頬を、乾いた手のひらでぱたりと叩いた。
「見つかった日に、お茶をしにおいで」
――――。
屋敷の中は、その日じゅう蜂の巣をつついたような騒ぎだった。婚約破棄。侯爵家。七年。使用人たちの囁きは廊下を三往復して、夕方には厨房の端まで届いたらしい。
当の私はといえば、平熱である。
むしろ困り事は、翌朝、別のところから出てきた。
「お嬢様。本日のお召し物ですが」
侍女のミンナが、衣装部屋の扉を開けて言う。
若草色。若草色。萌黄。若草色。また若草色。
ずらりと並んだ列を前に、私は初めて、まじまじと自分の衣装部屋を眺めた。壁一面、春の野原の出来損ないである。
「……ミンナ。この部屋、緑ばかりですわね」
「はい。お嬢様のお好みですので」
「わたくしの」
「はい。仕立て屋では、いつも迷わずこの色を」
記憶を掘り返す。確かに、迷わず指してきた覚えがある。反物を前に、これを、と言った自分の声まで覚えている。
ただ――その理由だけが、抜けている。
誰かの好みだった、はずである。その誰かの見当が、まるでつかない。そこだけ、ぽっかりと明るい穴が開いている。覗き込んでも、底に何もない。なるほど、これが「解いた」ということらしい。出来事は残るのに、理由が消える。
少しだけ、指先が冷えた。理由をなくした癖というものは、結び目だけが残った糸に似ている。結んだ手を思い出せないまま、七年ぶんの結び目が、暮らしのそこかしこで静かに締まっている。この衣装部屋も、笑い方も、きっとまだ序の口である――。
いえ。
怖がる話ではなくてよ、カロリーネ。結んだ手がどなたのものでも、糸はもう、私のものである。解くか、結び直すかは、私が決める。
一枚を取り、鏡の前に当ててみた。干しかけの薬草である。頬の色が三日分ほど悪く見える。
「……嫌い。あら」
「お嬢様?」
「わたくし、この色、嫌いですわ。……あらあら。まあ」
七年買い続けた色を、私は嫌いだった。口に出してみると、胸のどこかで小気味よい音がする。嫌い、という言葉は、存外にいい香りがした。
ミンナが衣装部屋の奥へ潜り、埃よけの布を剥がして、一角を掘り出してくる。
「こちらは、お嬢様が十六の年に誂えたきり、袖を通していない品々でございます」
布の下から、藍色が現れる。
深い、夜の入り口のような藍である。当ててみる。鏡の中で、頬の色が生き返った。十六の私が選んだ色。七年前の私は、ちゃんと自分の目で選べていたのだ。私の好みは消えたのではない。ここで、埃の匂いの中で、健気に待っていたのである。
「……好き。あら」
「お似合いでございます」
「ミンナ。今日からしばらく、買い物が続きますわよ」
「かしこまりました。――僭越ながら、お嬢様」
ミンナは執事のように胸へ手を当て、緑の列を見渡した。
「この若草色の皆様の、身の振り方はいかがいたしましょう」
「そうねえ。……お似合いになる方に、貰われていくのがよろしいわ」
嫌いは、手放す。好きは、着る。決めるのは、私。
たったそれだけのことが、玩具箱を開けた朝のように楽しいのだから、我ながら安上がりである。七年ぶんの「なぜ」は、これから一つずつ、この手で確かめていけばいい。急ぐ旅ではないもの。
週の終わり、ミンナが暦を繰って言った。
「お嬢様。明後日は、観劇の日でございます」
そうだった。七年、毎週欠かさず通った歌劇場。通っていた事実だけが、体の芯に習慣として残っている。理由は――さて。
行けば、分かることですわね。




