1. ところで、あなたはどちら様ですか?
「俺のことなど、忘れろ」
婚約者どのがそう仰ったのは、王立歌劇場の秋の開幕を祝う夜会――王都じゅうの見栄が一堂に会する、その大広間のまんなかでのことである。
順を追って、お話しいたしましょう。
――半刻前。
幕間の回廊は、香水と燭台の蝋と、噂話の匂いでむせ返っていた。果実水の売り場の脇、決まった柱の下に、その男は今夜も立っている。
「今日の結末は、逃げだな」
挨拶もなしに、低い声が言う。ヴィンターベルク公爵。無愛想で名高い、隣の桟敷の主である。名乗り合ったことは、一度もない。ただ七年、幕間のたびに、この柱の下で芝居の話だけをしてきた。今夜の開幕演目は五年ぶりの再演で、結末なら、王都の芝居好きはみな知っているのである。
「逃げではありませんわ。あれは、選び直しですのよ」
「甘い。作者に、主役の来し方を斬る度胸がなかっただけだ」
「度胸と趣味は別ですわ。……あら、いけない」
声が弾んでいる。私は咳払いをして、扇の角度を直す。
私、伯爵令嬢カロリーネ・フェルゼン、二十三歳。身に着けるのは若草色のドレス――正直に申し上げて、苦手な色である。鏡を見るたび、干しかけの薬草を思い出す。それでも七年、夜会という夜会をこの色で通してきた。婚約者どのの、お好みだから。
淑女は声を立てて笑わない。意見は一拍飲んでから。ワルツはお断りして、壁際で扇を揺らして。七年かけて身につけた、私の作法である。窮屈と思ったことは、ない。作法とはそういうものだと、思っていたのである。
幕間の終わりを告げる鐘が鳴り、やがて終演。客は連れ立って大広間へ流れていく。開幕演目のあとの舞踏会が、この夜会の本番である。私は、婚約者どのの待つ大広間へ向かった。
――そして、冒頭の一言である。
「カロリーネ。おまえ、昨夜は俺に意見したそうだな」
昨夜のあれが意見なら、世の中は意見で溢れ返っておりますわ。夜会の菓子の並び順について、ほんの一言、申し上げただけである。
婚約者どの――七年目のその方の腕には、見知らぬ令嬢が飾られていた。当の令嬢は青ざめて、目が泳いでいる。お可哀想に。いまこの場で幸せなのは、たぶん真ん中のお一人だけである。
「皆の前で言ってやる。おまえのような可愛げのない女は、こちらから願い下げだ。――俺のことなど、忘れろ」
大広間が、しんとなった。楽団までもが弓を止めている。
胸の奥で、何かの音がした気がする。七年が折れる音とも、留め金の外れる音とも聞こえた。――いいえ。あれはたぶん、鍵の開く音でしたわ。
私はスカートをつまみ、生涯でいちばん丁寧な礼をする。
「――承知いたしました」
顔を上げたとき、大広間の誰より綺麗にお辞儀ができた自信があった。
――――。
その足で向かったのは、屋敷ではない。王都の外れ、母方の祖母の隠居所――身内が〈糸の家〉と呼ぶ、古い織り屋の血の家である。
「おばあさま。〈選び忘れ〉を、いただきに参りましたの」
夜着の祖母は、驚かなかった。私の顔をひとつ確かめて、茶を一杯だけ淹れて、それから戸棚の奥から黒い糸の綛を出してくる。
「一生に、一度きりだよ」
「存じております」
「解いた糸は、二度と結べない。……それでもかい?」
「望むところですわ」
〈選び忘れ〉――母方の血の女にひとつずつ伝わる、忘れたい人をひとりだけ、心から解いて流す秘伝である。使えるのは、相手の側から手放された縁にだけ。忘れろ、と言っていただけたのだから、条件はきれいに満たしている。
その晩のうちに始めて、夜明けまで。私は暖炉の前に座り、七年を順に思い出しながら、綛を素手で解き続ける。
糸は古い蜜蝋の匂いがした。指の腹が、ゆっくり熱を持つ。十六の春の顔合わせ。初めての夜会。若草色を初めて選んだ日。――思い出は、解く前に一度だけ、灯りのように点る。それから、思い出の中のあの方だけが――顔が、名が、私に向いていた意味だけが――砂のようにほどけて、あとには誰もいない場面が残った。あの方の姿をこうして見るのは、世界で私が最後なのだ。そう気づいたら、指が少しだけ、ゆっくりになった。
泣くつもりで始めた夜である。それなのに、涙は最後まで来ない。
夜明け。祖母が東の窓を開ける。入ってきた風が、解き終えた糸くずを一本残らずさらっていった。
――世界が、軽い。
肩から重石が外れて、代わりに何が入ったのかは、まだ分からない。ただ朝の空気がやけに美味しくて、その軽さが、ほんの少しだけ怖い。
屋敷へ戻ると、玄関前に見知らぬ紋章の馬車が停まっていた。
応接間に、見知らぬ殿方が立っている。上等な身なりの、自信に満ちた顔の、どこのどなたか存じ上げない方である。
「泣き腫らした顔を、見に来てやったぞ」
殿方は勝ち誇ったようにそう仰った。私は首を傾げる。それから、生涯で二番目に丁寧な礼をした。
「ご機嫌よう。――ところで、あなたはどちら様ですか?」
「……は?」
「昨夜、婚約破棄をされたことは覚えておりますのよ。ただ、お相手の顔とお名前に、まるで覚えがございませんの」
「ふざけるな。俺だ、ローレンツだ」
「ロ……何と仰いまして?」
名乗りは三度繰り返された。三度とも、砂に書いた字のように、聞いたそばから流れて消える。面白いほど、留まらない。
殿方の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「おまえ……本当に、忘れたのか?」
「ええ。仰せのとおりに、いたしましたの」
忘れろと言われたので、忘れましたの。――何か。
殿方は震える指をこちらへ突きつけ、世にも情けない声で宣言した。
「必ず――必ず、思い出させてやるからな!」
どちら様かは存じませんけれど。
お帰りの姿勢だけは、ご立派でしたわ。




