3. 幕間にお静かな方
フェルゼン家にも、桟敷はある。
あるのだが、七年間、一度も使っていない。観劇はいつも、あちらの――例の、お名前の浮かばないお家の――桟敷に、招かれる形だったからである。
扉を開けると、案の定、埃が積もっていた。
「ミンナ。雑巾を二枚」
「お嬢様が自ら拭かれるのですか?」
「わたくしの桟敷ですもの」
手すりを拭き、椅子を拭き、燭台の笠を拭く。埃は積もっていても、木は良い木である。布が真っ黒になる頃には開演の鐘が鳴っていて、磨いた手すりは窓明かりを受けて、飴色に光っていた。腰を下ろすと、椅子の高さが体に合う。借り物の席では、一度も感じたことのない収まりのよさである。七年、私はよそのお宅の椅子の高さに、膝の角度を合わせてきたのだ。
やがて幕が上がる。演目は喜劇『三度目の春』。再演の多い、当たり狂言である。
筋は覚えている。七年で三度は観た。それなのに――三幕の山場、頑固な老家令が若夫婦の駆け落ちに巻き込まれて池に落ちるくだりで、私は。
「……ふ、ふふ。あはは!」
声を、立てて笑っていた。
自分の声に、自分で驚く。胸の骨の内側で、長いこと閉まっていた小窓がぱたんと開いたような、そんな音がした。腹の底から喉へ、笑いが遠慮なしに駆け上がってくる。温かい。笑い声というものは、こんなに温度のあるものだったのか。近くの桟敷から視線が飛んでくる。扇で口を覆う――覆いながら、考える。
おかしい。この芝居、こんなに面白かったかしら――いえ、面白かったのだ、ずっと。笑わなかったのは私の側である。「声を立てるな」と言われた覚えは、ある。言われた文言だけ、耳の奥にはっきり残っている。誰に言われたのか、なぜ私が七年も従ったのか、そこだけがきれいな空白である。
あの明るい穴は、衣装部屋だけではないらしい。そして七年ぶん、私は笑いそこねてきたらしい。……勿体ないことをしましたわ。今夜から取り返しますけれど。
「――今日は、静かにしないのだな」
低い声が、隣から降ってきた。
見れば、隣の桟敷の暗がりに、ヴィンターベルク公爵が座っている。
「あら。……あら? お隣、公爵様の桟敷でしたの」
「七年前からな」
存じませんでした。いつも幕間の柱の下でしか会わないから、この方がどこで観ているのかなど、考えたこともなかったのである。うちの桟敷の、壁ひとつ隣。世間が狭いのか、劇場が狭いのか。
幕間。いつもの柱の下で、いつものように、名乗りもなしに口論が始まる。
「三幕の池落ちは、蛇足だ」
「蛇足ではありませんわ。あの家令は、一度濡れませんと素直になれない質ですのよ」
「濡れて素直になる歳か? あれが」
「歳を取るほど、濡れ甲斐が出るものですわ。乾いた薪ほど、よく燃えるのと同じ理屈で」
公爵が、柱に預けた背をわずかに起こす。反論の前に一拍、目だけで笑う癖が、この方にはある。
「……君の理屈は、時々薪割りより乱暴だな」
「褒め言葉として頂戴いたします」
我ながら、舌がよく回る。この柱の下でだけ、私の言葉は一拍飲む前に出てくるのである。七年前からずっとそうだった気がするけれど、その「気がする」の周りにも、例の明るい穴がいくつか開いている。
「ほう。今日は威勢がいいな」
「今日は、ではありませんの。今日から、ですのよ」
「……そうか」
公爵はそれ以上、何も訊かない。私の婚約破棄の顛末など、社交界の噂で嫌でも耳に入っているはずである。それなのに、この方は芝居の話しかしない。詮索の目でも、憐れみの目でもない。その距離の取り方が、妙に――座り心地のいい椅子のようで、癪だった。
幕間の終わりの鐘で桟敷へ戻りかけた私の背に、声が届く。
「――四幕の二重唱は、後ろの席で聴くに限る。壁に音が溜まる」
「あら。それは、公爵様のご趣味ですの?」
「ああ。俺の趣味だ。……試すかどうかは、君が決めろ」
四幕の二重唱を、私は桟敷のいちばん後ろの席で聴いた。
音が天鵞絨の壁にほわりと溜まって、湯のように背中へ回ってくる。歌姫の声の、いちばん柔らかいところだけが残る席である。目を閉じると、暗がりの匂いに蜜蝋と古い木の香が混じっていた。前の席では、一度も知らなかった聴こえ方である。いい趣味だ。癪だけれど。
この方は、昔の私に何も訊かず、代わりに自分の好みを一つだけ置いていった。押しつけの、ちょうど反対の形である。そういう形が世の中にあることを、私は今夜、初めて知った気がする。
帰りの馬車で、ミンナが銀盆に封書を載せて差し出した。蝋の封には、侯爵家の紋。面会の申し入れである。曰く――「一度会えば、必ず思い出す」。
思い出す。何を、と書いていないところが、いっそ潔い。
封書はずっしりと上等で、上等なぶんだけ、余計に他人事のように見えた。
お顔も浮かびませんけれど、ご自分に、ずいぶん自信がおありのようですわね。




