第134節 温もる涙と凍える手
毎日のように天に昇っては地平の向こう側へ沈んでゆく太陽が悠久の時を超えて人々の営みを見守っているこの現世――わたしの背中の傷もすっかり癒えて、今となってはあの夜の出来事も過去のものとなりつつあった。
あの日、まだ青かったはずの下草も今となっては力なく干乾びて土と同じ色になってしまい、とても同じ物とは思えない。彼方の森に見えていたはずの緑も、今ではすっかり自分の力強さを誇示するのをやめ、次の芽吹きに向けてひっそりと英気を養っている。そんな季節になっていた。
あの日の夜のことは実はよく覚えていない。
無理に思い出さなくてもいいと言ってくれたみんなの言葉に甘えてあまり考えないようにしている。
わたしが目を覚ました時、そこは例の賓客部屋だった。わたしのすぐ傍には介抱に疲れて眠ってしまったらしいサヨの寝顔が。窓の外は暗い。わたしはこの娘を起こすまいとして再び目を閉じていた。――それが覚えている最初のこと。
そして次に目を開けた時、今度は傍に居てくれたのはチユさんだった。彼女はわたしが目を覚ましたことに気付くと柄にもない驚き方をして、そして次には涙を流しながらわたしに抱き着いていた。
(温かい。)
こんなに人の涙を嬉しく思ったのは初めてだった。
それからチユさんが慌てて部屋を飛び出すと、次々にみんながやって来てはそのたびに感涙に咽んでくれていた。ただ一人、その場に姿を見せなかった女――おひい様を除いて。
ここはクマの柵門。今は出立の別れの時。
故郷に、ヨシノに帰れる日がついにやって来た。
それは嬉しいこと。喜ばしいこと。しかし、胸躍るはずの出来事にもわたしの心が浮き上がることはなかった。
ヨシノを出てからもうすぐ季節が一回りしようとしている。その間、色んなことがあり過ぎた。嬉しいこと楽しいこともあったけど、やはり悲しいことの方が多かったかも知れない。
今わたしと一緒に居るのはおひい様とタケハヤの二人だけだった。
タエさん、チユさん、サヨの三人はここにはいない。
本当は三人にもきちんとお礼と別れを言いたかったけれど、それは仕方のないこと。彼女たちも今では立派なこのクニの要人、彼女たちにしかできない仕事があるのだ。それに何も永遠の別れというわけでもない以上、その気になればまた会いに行くことはできるだろう。
それよりも今わたしが気になっているのはおひい様だった。
おひい様がおかしい――わたしが目覚めてからこっち、ついに一度も顔を合わせることのなかったおひい様の様子がおかしいのだ。
はじめはずいぶんと機嫌良さそうにしていたのに、こうしてやっとのことで言葉を交わしてみれば彼女らしくない怨み言をねちねちと言い連ねたかと思うと、次には冷たさしか感じられないような抱擁を与えてくる。
彼女はそうやってわたしを困惑させると、今度は気を遣ったらしいタケハヤと遣り合った末に言いくるめてしまっていた。
あの女に一体何があったのか、わたしには分からない。分かっているのはおひい様はタケハヤの「提案」を蹴ったということ。
命を大事に。――ただそれだけのことがタケハヤの言う「提案」だった。それはおひい様の抱擁の中で凍えるようにな気分になりながら聞いていたわたしにも伝わっていた。しかしこの「提案」とやらもどうやら彼女の心には届かなかったようで、結局形ばかりの同意に終わっていた。
(おひい様。)
わたしはおひい様の胸の中から引き離された時、思わず安堵してしまっていた。
寒かったのだ。冷えていた。それもただ冷えていたのではない。――わたしは自分の感情が信じられなかった。
(あれではまるで亡者のよう。)
この寒空に裸でいる方が温かく感じられる。それぐらい彼女の体は何の温もりを感じないものになっていた。
驚きと心配のあまり、流した涙もとうに乾いていた。今では頬にわずかなつっぱりを感じるだけになっていたわたしは、生きている心地がしないほどに冷え切っていたおひい様の心配ばかりを募らせていた。
「それでは。」
「はい。あなたの征く先に幸多からんことを影ながらお祈りしておりますわ。」
タケハヤが寂しそうに出立を告げると、おひい様が形ばかりの祝福をしていた。
二人がそうしている間もわたしは何も言わずただおひい様の胸の辺りを眺めているだけばかり。
(嫌だ。)
わたしは出立を否定していた。
今別れたらもう二度と会えない――そんな不吉な予感が頭から離れない。
おひい様に何があったのかわたしには分からない。また拒絶されるかもしれない。けれど、何かを言わなくちゃいけない。
このままではわたしたちは体だけではなく心まで別れて終わってしまう。それも永遠に。
それだけはダメ。でもかけるべき言葉も見つからない。それでもわたしは顔を上げて口を開いた。




