第132節 魔性の心
姫君のあまりの言い草にたまらず涙をこぼさずにはいられなかった君と、そんな君を形ばかりの抱擁で慰めるふりを続ける姫君。二人の遣り取りを黙って見守っていたわしは、彼女らの会話が進むにつけ何とも言えない歯がゆさに襲われていた。
(これは……まさか、これほどまでとはなあ……。)
ここは一つわしが間に入った方が上手くいくのではないか。と、つい口出ししそうになるおのれをククっと諫めながら、わしは姫君の態度からチラチラと覗き見える闇の深さ驚いていた。
それからわしは思った。なにゆえ君を泣かせる必要があったのか、と。
君は「姫君のことが心配だから残りたい」と申し出ていたはずなのだ。しかし姫君はそれを「姫君への報復が済んでないから残りたい」とでも受け取ったのだろうか。
彼女がたった今白状した人の道にもとる行いの数々は、それが真実なのであれば確かに君の恨みを買うに十分なものであるだろう。
しかしわしにはあの姫君が本当にそんな非道の女であるとは到底思えなかった。そしてその思いは君も同じのようで、そういう悪行を聞かされた後でもなお彼女は姫君の傍に在り続けようとしていた。
ならばあの告白は、すべて口から出るに任せた空事ではないだろうか。
そんな空事を用いてでも君の真心を拒絶してしまった姫君の心は、かなり性質の悪い邪鬼に囚われているようだ。
こうして君を泣かせたことは勿論許し難いことであるが、それも今の姫君では仕方のないことだと言えよう。
(その邪鬼こそが姫君を殺そうというのだな。)
あの姫君に限ってまさか。とも思えるようなにわかには信じ難いことではあるが、彼女の様子のどこかおかしかい様に気付いてしまった今のわしであれば、それを受け入れることもまたできるというものだ。
(一体いつの間にあのような魔性に憑りつかれたのか。)
残念ながらわしには知り得ようがないことだった。
そもそも彼女の異変に気が付いたのが、つい今し方のことなのである。
それでも思い返してみれば、姫君はあの祭りの夜にはすでに様子がおかしかったように見えなくもなかった。だがそれは、彼女が風雲急を告げた事態の整理に追われて他のことにまで気が回らなかったから、とも考えられるのだ。
せめてあの下女らがいれば事情を聴くことも適ったのだが、返す返すも彼女らを外に出してしまったおのれの迂闊さを悔やまずにはいられない。
――しかし今この場に無いものをねだっても仕方のないことだった。今はわしに出来ることを探るだけだ。
そうして、わしは倭文布の帯にねじ込んである匕首の柄に何となしに手を置くと、いくらか小さくなって姫君に包まれている君の姿を見ながら考えた。
(いかにわしが神剣を授かった者であるとはいえ、目に見えぬものを斬ることはできぬ。)
この匕首は紛う方なき正真の神剣だったとは言え、万能不朽の神器ではない。姫君を惑わせる魔性はやはり彼女自身の手で取り除くより他にないのだ。
しかし、一体どうすればよいのか。――その手段に思い当たる節のないわしは柄頭を撫でつけながら手掛かりを探していた。
(心配いらぬ、か。)
そこでまず気に留まったのは姫君が君にかけたその言葉の意味だった。
彼女の言う心配とは一体何の心配なのか。――君の心配ということであれば、たしかに彼女を目の敵にしていたトラひげはすでにこの現世に亡く、彼女にかけられた罪過も今となっては姫君の名の下ですべて不問として購われていた。
君の身を危ぶませるものはこの現世から全て消え去ったと言ってよいだろう。もはや彼女に残されているのは郷里へと続く幸福と安寧の道だけだ。
一時よりもいくらか落ち着きを見せているとはいえ、未だに何が起きるか分からない情勢不安定なクマに残ってしまえばその道を危ぶませることにもなろうが、それはわしが許さない。
そういう意味では姫君の言う通りなのだ。だが――
(しかしな……。)
わしは思った。姫君の発言のなんと頓珍漢なことか――君の見せた心配は飽く迄も姫君を想えばこそのものであるし、君の涙は思いがけなく浴びせられた姫君の拒絶に怯えたものだ。
それが、何を心配していると勘違いしたのか、姫君は心配無用だと言った。そんな口先だけで心配不要などと言われても、ならば心配する必要がないよう振る舞ってほしいものではないか。
(それが、今の姫君の姿はどうだ。)
わしは姫君の姿を見た。
――君をその両腕で包み抱く姿はともすれば実母の如き愛情に満ちた者と映るかもしれない。しかし実際にはどうだろう。精気に欠く瞳で君を冷視するその姿は母と言うよりはヨモツシコメ。あの物語に聞く卑しく悍ましき常夜の使いの如くではないのか。
そういう目で見てみれば彼女のその表情、滲み出る雰囲気は正しく亡者のそれそのものであり、在りし日の彼女を知る者としてどうして今のこんな姿を見て心配せずにいられるわけがないのだ。
なるほど。確かに姫君は上手いこと憐憫の情をその面に張り付けて、さも慈愛に満ちた母性の女のように見せてはいる。だがその後ろに隠された心を覗いてみれば、そこにあるべき愛情厚情などは欠片ほどもなく、とても安心できるようなものではないことはわしの目にさえも明らかだった。
そして、どうやらわし以上に人の心を慮るに聡いらしい君がそんな姫君を見ておきながら、そのままここを去れるわけがないのだ。
そう考えると、わしはわずかばかり天を仰ぎ目と閉いた。
(魔性に囚われた空っぽの心、か。)
本来の姫君であれば、君の想いに気付けぬわけがない。しかしすでに心が亡者のそれとなりつつある者はそんなことにも気付けなくなるものなのか。
わしには君の真心が曇りなき正真の心であることが分かるだけに、いよいよ姫君の心の具合が案じられてくる。
彼女はこのまま君の好意厚情をすべて悪し様に受け取ったまま手酷く突き放し、その輝きに満ちていたはずの生涯を自らの手で終わらせようというのだろうか。
(いや、何も姫君を慕っているのは君だけではないはずだ。)
そうだ。このクニに在ってただ君一人だけが姫君に好意を持って接しているわけではない。
わしは目を開けた。そうしたところで我が目に映る物に何ら変わりはなかったが、閃くものを見出したわしにはもう少しだけこの風景が彩光を持っているように思えた。
――わしはこの目でつぶさに見てきたのだ。このクニには彼女を慕う者が数多くいるということを。だというのに、彼女はそんな彼らすらをもすべて見捨てて独りここを去ろうというのか。
「姫君。一つ提案があるのです。」
「はい。なんでしょう。」
そうして口を開いたわしに、姫君は君を抱いたままでどこか虚ろになりつつある眼差しを向けて応えていた。
わしには姫君の魂胆が受け入れらない。何としてでも彼女を思い止まらせてやろう。と、そんなことを考えながらわしは在りし日の輝きをすっかり失っている姫君にその案を提示した。




