第131節 拒絶と懐柔
いよいよタケリビコ様の出立が近づいている。――元々それほど多いわけでもなかった四方山な話も早々に語りつくしてしまうと、途端に増えだした気まずい空白の間がその時の到来を予感させた。
(早く出て行け。)
わたくしはそう心密かに願いながら、そんなことはおくびにも出さずに彼に柔らか視線を向け続けていた。
そう大した遣り取りをしていたわけでもないというのに、ひどく疲れた気がしていた。どことなく気持ちがふわふわとし始めて、せっかく作って被っておいた柔和な自分の仮面が剥がれ落ちるのも時間の問題となっている。――わたくしは、「道義的に」という安易な理由からこんな場所まで見送りに立ってしまったことを後悔しながらも、もう少しのことだからと自分を励ましていた。
「……。」
「……。」
早く発てば良いのに彼にいつまでも居られるせいで、いよいよ何かを言い出さなければいけないような空気になってきていた。
それでも何かしらの話を振ってしまえばそれだけ彼の出立が遠のく。――居難い空気に口を開きたい気持ちを堪えていると、わたくしはある変化に気が付いた。
それはタケリビコ様の姿。わたくしの目には、タケリビコ様は肩を落として何か酷く落ち込んでいるように映っていた。
(何か失敗したかしら。)
彼はこれまでも決して陽気に振る舞っているばかりではなかったけれど、それでもこんなに沈み込んではいなかった。
(もしや、気付かれたのでは?)
わたくしはそう考えるとわずかに焦っていた。
今さらわたくしの身を案じるような男ではないとは思いたいけれど、万一ということがある。ここでわたくしの想いを気取られてしまうと、せっかく今日まで耐えてきたのに後のことに差し支えるかもしれないのだから。――そうして自分の言動を振り返ってみても、すぐには思い当たることも見つからなかった。
わたくしは今一度彼の姿に注意を向けた。
(何なのですかその落ち込んだ態度は?)
自分の落ち度に思い当たる節はなかったのに、そのくせ彼の見せる表情がまたわたくしの心を酷くざわつかせる。
わたくしはいよいよ彼と同じところにいるのが辛くなっていた。そしてますます早く出て行ってほしいという想いだけが、今わたくしが被っている壊れかけの微笑みの支えとなっていった。
そんな針の筵の上に立たされたような居たたまれない時の後――気まずい空気を打ち破って声を上げたのは、わたくしでもタケリビコ様でもなく、この場にいたもう一人の人物。
「……あの――」
わたくしはその声を聞くなり、胸が締め付けられるように痛むのを感じていた。
その人物はそれまでずっと沈黙を保ち続けて、いない者の如く振る舞っていたというのに、ここに来てついに口を開くとわたくしたちの間に割って入ろうとしていた。
「……あの、やっぱりわたしもここに残って……。」
それは女の声。聞きたくない声。
その人物とはあの娘だった。
わたくしは、もう長いこと顔を合わせないように避け続けていた。
わたくしは、もうずっとその名を呼んであげていなかった。
あの娘のことが思い出されるたびに、わたくしは自分を苛んでは心を痛めてきていた。
こうして見送りに立った以上は言葉を交わさないわけにもいかないのは分かっていたけれど、それでも出来ることなら最後まで関わりたくなかったあの娘。
今やすっかり旅装束に身を包んでいる「あの娘」は何を考えていたのか、ずっとうつむきがちで自分の存在を消すことに腐心していたはずなのに、急に口を開いたかと思うとこともあろうにここに残ると言い出していた。
「いいのですよ。」
わたくしは彼女の言葉に驚きと恐れを感じながらも、彼女に向き直って優しげにそう言ってあげた。
このまま黙って下を向いていてくれれば、彼女と目を合わせずに済んだのに。そう思いもしたけれど、こうなってしまった以上は無視もできない。
大体にして、ここは本来彼女が居てよい地ではなかった。――この地に於ける彼女は何かの間違いか偶然で親猫とはぐれて民家に迷い込んできた子猫のようなもの。
そしてその子猫はそこの住人に散々に虐げられて命辛々の体で今日まで生き延びて、それがやっとのことで親元へ帰れる時が来たというのに、どういうわけかこの子猫はここに居付きたいなんて言い出した。
そんなことが許されるわけがない。子猫は一日でも早く、親猫の元へと戻るべきなのだから。
「――あなたはあなたのクニにお帰りなさい。待っている人たちがいるのでしょう?」
わたくしはできる限り嫋やかな表情で、出来る限り穏やかな口調で是非クニに帰るよう彼女に諭して聞かせた。
「だって……。」
何か言い訳をしたいらしい彼女は、しかしそこから何も言えずに黙ってしまう。
そんな煮え切らない態度を見たわたくしは、思わず彼女に対する気持ちを硬化させた。彼女の内側にある黒く悍ましい怨念がその態度の後ろに垣間見えた気がしたからだった。
そしてその身構えた気持ちは言わなくてもいいことをわたくしに言わせる。
「……なぜあなたはそんなにもわたくしに構うのですか。」
「え?」
わたくしは表情も口調も穏やかに保ったままそう訊ねていた。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのでしょう。彼女が驚いた顔でこちらを見つめ返していた。
わたくしははっとした。そして、ついこぼしてしまった失言を取り消さねばと思った。
しかし口の方はそうは思っていないのか、これ以上喋るべきではないというわたくしの思いとは関係なくいよいよ口を滑らかにし始めていた。
「――だってそうでしょう。わたくしはあんなに偉そうなことを言って本来わたくしと対等であるはずのあなたを下女の身分にまで貶めたのです。」
彼女と初めて言葉を交わしたあの日。わたくしは「あなたを護る」と確かに言って彼女に下女となることを受け入れさせていた。
その日のことを口にしていたわたくしは、慌てて自分に制止をかけた。――これ以上何かを言うことは許されない。これ以上何か言えば、彼女に見られてはいけないわたくしの内側がさらけ出されてしまうかも知れない。
しかしその制止も虚しく、一度開いてしまった口はわたくしの意思とは関係なく勝手気ままに言葉を吐き出し続ける。
「――だと言うのに、結局あなたに何もしてあげられなかった。」
そう、それは紛れもない真実。そうやってわたくしは、言葉巧みに彼女を下女に仕立て上げてヨシノ高女としての尊厳を踏みにじっておきながら、結局なんの見返りも与えていなかった。
そんな女と一緒に居たがるなんておかしい。何か裏があるに違いない。
そうやって考えれば考えるほど、ここに残るだなんて言い出した彼女の心の底にある意地の悪さが見え隠れしているように思えてしまって、わたくしはだんだんと拒絶の気持ちを衣に変えて身に纏ってゆく。
「え……そんなことは……。」
彼女はわたくしの硬化した態度に戸惑っているのでしょう。それでもどうにかと言った風に反論とも言えないような反論を口にしていた。
しかしわたくしはいよいよ腹を立てた、どこまでも好い娘を装ってわたくしに纏わり付こうとするこの娘に。
彼女が他国の高女と知りながら下女として扱う。そんな浅はかな思慮の人間と一緒に居たいなどと一体どういう腹積もりがあるのだろうか。
どうにかして取り繕おうとする彼女の次の言葉を待つことなく、わたくしはもう口を制止する気も失せて捲し立てていた。
「いいえ、何も違わないのです。わたくしはあなたを貶めた。そしてそのくせ何も与えなかった。」
どう言い繕おうとしたところで、それは変えようのないこと。そしてその害を被ったはずの彼女がそのことを否定しようなど、どう考えてもおかしい。
「それにね。あなたは知らないのでしょうが――」
そう言うとわたくしは一つ息を吸い直して一気呵成に捲し立てた。
「――わたくしは棒で打たれるあなたを見ては嗤っていたのです。それも仕方のないことと思い定めてね。そうしていざあなたが気を失った時だって、そのまま捨て置こうとすらしていたのですよ。」
「え……うそ……。」
わたくしの言葉を簡単に否定する彼女。しかしもうそんなことにも構わなくなっているわたくしは彼女の言葉など聞き入れる気もなく続ける。
「――あなたが手当てを受けているときに顔を出さなかったのもそう。わたくしはあなたが死ぬのであればそれも仕方がないことと思っていたのです。そう思えばこそ、顔を見せる意味も見出せなくてただ自分の部屋に籠っていたのです。」
彼女の裏側にあるはずのドロドロとした厭らしい怨情が疎ましくて恐ろしくて――どうにかして彼女を遠ざけようと必死になっていたわたくしは、もう自分でも何を言っているのか分からないほどに、とにかく思い付くままを喚いては彼女のことをこれでもかと拒絶していた。
そうやっている内に、気が付けば作り付けておいたはずのわたくしの微笑みもいつの間にか破れて失われていたのか、わたくしは肩を上下させるほどに息を弾ませては揺らぐ視界の中で彼女のたじろぎ怯える姿を見ていた。
「で、でも……わたしはおひい様の下女だから……。だから……。」
わたくしが息を整えるのを待っていたかのように彼女がおずおずと反論を試みていた。
「ありがとう、ひいちゃん。でもね、あなたはもう十分すぎるほどわたくしに尽くしてくれました。だからもういいのです。わたくしに構わずあなたのいるべき場所へお帰りなさい。」
わたくしは笑顔でそう言って見せた。それは今日作った中で一番の笑顔だったかもしれない。
どうしても残りたいなどと駄々をこねられても迷惑でしかなかった。何を企んでいるか分かったものではないし、そうして彼女がここから去ってくれればわたくしもいよいよ身に積まされた荷を下ろすことができるのだから。
「だって……。」
「ああ、本当にあなたは優しい娘なのね。約束を反故にしたわたくしを、それでも慕ってくれると言うのね。」
その嫋やかな口調とは裏腹に、口を開くたびに鋭さを増すわたくしの感情はついに彼女の心を傷付け始めたのか、彼女のその瞳には涙が浮かびつつあった。
「だって……だって……。」
と、それからもう言葉を形にするとこもままならなくなった彼女がぽろぽろと涙をこぼし始めると、わたくしは今こそ好機とばかりに抱擁する。
すると彼女はわたくしの胸の中で人目も憚らずに泣きじゃくり始めていた。
「あらあら。そんなに泣かないで。」
そうなることも想定の内であったわたくしは、慌てるでもなくただそう言って彼女を宥めていた。
「だって……おひい様……。」
「ごめんなさいね。何か酷いことを言ってしまったかしら。でもね、もう何の心配もいらないのですよ。あなたはもう家に帰れるのですから。」
そう言っては、大人しくわたくしの胸に抱かれている彼女の頭を撫でて慰めてやる。ここまでしてやればさすがの彼女も、まだここに残るなどと言い出しはしないだろう。
「――だからこんな酷い所に残るなんて言わないで大人しくお帰りなさい。ね?」
そうやって彼女を胸に抱いていると感じられる彼女の温もりは、なぜかとても心地良いもののように感じられた。
そうしていると疑念が浮かんでくる。――こういう温もりを持った娘が本当に悪意を持ってわたくしを貶めるためにここに残ると言い出したのだろうか、と。
それでもわたくしはそんなことに構わない。もう、少しでも早くこの二人と別れ自由の身になりたい一心で、今はこの娘の心を突き放すことで頭がいっぱいになっていた。




