第127節 青に過ぎる空
「もし機会が訪れましたら、その時はまたよろしくお願いしたいと思います。」
わしはそんな挨拶を交わしながら丹田に力を籠めて、骨身にまで滲みるような寒気に耐えていた。
さすがにこの季節の風は、治療に専念し鈍り切ったこの体には堪える。
そう思いはしたものの、すでに公言してしまった出立の日取りを今日になっていきなり変えるわけにもゆかず、わしは今このクマの柵門の外に足を踏み出しては別れの言葉を口にするに至っていたのである。
そしてその言葉を向けられた先にはクマの姫君がただ一人きり。
見れば彼女は、上衣の代わりにうら寂しさを纏っているかのようにも見えて、そのたたずまいがこの寒空の下に妙に釣り合っているように思われてならない。
この状況。一見すれば彼女は真心からの思い付きで見送りに出てくれているようにも思えるが、考えようによってはわしが二度とこの柵の内に足を踏み入れることがないように敢然と立ちはだかっているようにも見える。
実際にわしは日延べを言い出すこともできずにこうして柵の外に追いやられていた。
しかしそうは思ったところでそんなものは所詮わしの所感に過ぎぬ。彼女の心の内に潜む感情がどこを見ているのかはわしには知り得ないことでもあった。
それでもやはり姫君に非難されているような気分になったわしは、段々と彼女と目を合わせるのが辛くなってそれと気取られぬように幾度となく視線を外しては戻すということをしていた。
(それにしてもなぜ急に呼び還そうというのか。)
わしは姫君とのどこかぎこちなさを感じずにはいられない遣り取りの隙を突いて、我が君の考えるところを推し量っていた。
――わしがクマ国をはじめとした諸国からなるこの都久志島を平らげよと命を受けてヤマトを発ってより幾星霜。それまでに帰還の命が寄越されたことは一度たりともなかった。
わしはそれを我が君の信頼の証と受け取っては君のために粉骨砕身し奮闘してきた。
それが、さあこれからクマ平定の本番だという時になって突然の召喚である。
応じないわけにもゆかなかったが、さりとて未だきな臭さの残るこのクニの情勢を鑑みるに、あまり簡単にこの地を離れるわけにもゆかなかった。そう考えたわしはヒラタ、モリヤの両臣に諮った上で、クマ国の情勢をヒラタに託してヤマトへと報告させていた。
しかしナシのつぶてとでも言うべきなのだろうか。ヒラタの奴はヤマトへと向かったきり一向に戻ることはなく、またヤマトからもそれ以降の沙汰がなにもない。
(このままクマに留まっていては痛くもない腹を探られかねんな。)
そう考えたわしは仕方なくこの地を離れる決定を下した。
「――後日、ヤマト国より使者が参る手筈になっております。それまではこのクニの差配はそなたに概ね一任いたしますが、後のことはその者に従ってください。それでよろしいですな、姫君。」
いつまでも答えに辿り着かない我が君の考えに想いを馳せていては目の前の相手に失礼というもの。わしは気持ちをはるかなる故郷の我が君からすぐそこにいる姫君へと戻すと、今後のことについて話していた。
「はい。すべて心得ておりますわ。」
姫君は何とも柔和な返事をくれると、どうしても間が持たないわれらの距離を苦にしたのか視線を上に向けて目に入った日差しに目を眩ませているようだった。
この姫君、今日までこのクマの安寧のために互いに手を取り合って尽力してきているつもりであったが、結局最後まで分かり合えることはなかった。
いつでもわしが案を提示し彼女が頷く――何をするにもただそれを繰り返すだけだった。
わしは彼女のその空を見上げる態度がわしの信頼のなさがさせたことだと思い、釣られるように空を見上げていた。
眼前に果てしなく広がるのは青、青、そして青。
そうしてよく晴れた空を見上げていると、わしはあることに気が付いてしまった。
それはこの雲一つ見当たらない空こそが、彼女のあまりにも寂しくなってしまった心の空虚を表しているのだということだった。
(これは拙いのではないか。)
あまりにも青く澄み渡った空と彼女の心境を重ねて見れば見るほどにそうだとしか思えなくなってくる。
それは苦虫を噛み潰したような思いであった。
それなりに共にいる時間を持っておきながら、彼女が抱えているものにも気付かないとは。わしはクマ国の安寧に心を砕くあまり、手を取り合うべき女の心の安寧にはまったく気を遣っていなかったのだ。
「姫君。これはわたしが言うことではないのでしょうが……。どうか気をしっかりお持ちください。」
咄嗟のことでは気の利いた言葉の一つも浮かばない。それでもわしは彼女に向き直るとその心に広がっている空間を少しでも埋めてやりたい一心で言った。
「はい。勿論ですわ。」
しかしわしの気遣いにも姫君はただそう言っては笑顔を返してくれるのみだった。
そうして穿って考えてみれば、先ほどから聞かされている惜別の言葉も彼女の本心からは出て来そうにもない美麗なものばかりではないか。
(なぜ気付かなかった。)
もう少しだけでも彼女に対する思いやりがあれば、今日この時まで彼女の心にできた空白に気付かないなどということがあっただろうか。あたら英雄のトラひげを血闘の果てに打倒したことで舞い上がっていたとでもいうのか。
わしはいつの間にかおのれの心に隙ができていたことを悔やんだ。
そうしてあたらめて見てみれば、彼女はここでわしを綺麗に送り出してしまいさえすれば、後のことなどどうとでもなるとでも考えているのだろう。彼女の瞳の奥に映るのは青く晴れ渡った大空でも、亡国の仇であるわしでもなく、ただ真っ暗な希望だけであるように思われた。
わしはそれだけはならぬと躍起になって頭を回転させてみるが、今さらどうしたところで即座に名案が浮かぶような便利な頭は持ち合わせているはずもなく、ただ時を無駄に浪費するに終わっていた。
「本当に急なことでしたので何の用意もできませんで……。」
わしが次の句に窮していると姫君がいよいよ別れを惜しむかのようにそう言ってくれた。
わしはその言葉の裏側にあるものに気付かぬふりをして、とにかくこれ以上彼女を追い詰めまいと笑顔だけは絶やさぬように最大限に注意を払いながら返した。
「いえ、とんでもない。我らの方こそ気の利いた土産の一つも置いてゆけず心苦しく思っているのです。」
そう言うとわしは頭を下げていた。
この言葉に偽りはない。本当に何も残してやれないのだ。――わしがかつてトラひげに贈った物品は今ではすべて失われてしまっていた。食料の類は我が兵の糧食としてすでに喰らい尽くしてしまっていたし、そうでない物は本国の命によりすべて引き上げざるを得なかったのだ。それらの物品はモリヤが率いる兵らの手によって、今頃は船に積み込まれている頃だろう。
そして今このクマ国に残っている物は馬の飼育に使っていた馬房と牧だけ。しかしこれも肝心の馬すらも引き上げられた今となっては隙間だらけの獣臭い東屋とただの空き地に過ぎないのだ。
「いいえ、とでもない。タケリビコ様のご厚情、このクニの皆の知るところですわ。」
さも言葉通りの感情を持っているかのように目の前の姫君が言って見せていた。
しかし一度それと気付いてしまった以上は彼女がなにを言ったところで、どう笑顔を作って見せたところでわしの心にその通りに映ることはなくなっていた。
わしはただ、彼女を思いとどまらせるための案を懸命に捻り出そうとするばかりだった。




